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あすなろ125 ご先祖様(過去記事)

2018年4月9日投稿

 

 

 

2012.03号

 

我が家では、よく市の図書館から本を借りてきます。

そしてたまに、手許に置いておきたい本を見つけると、後日買ってしまうことがあります。

 

先日も、たまたま借りた本を娘(三歳)がいたく気に入ってしまって、まあ買ってもいいかなというようなものだったので、買ってしまいました。

 

 

『ビジュアル版 戦国武将大百科』

 

東日本編、西日本編、合戦編の計三冊。

 

毎晩寝るときに、これは誰と言いながらページをめくっていたら、絵を見て「とよとみひでよし」とか「ちょうそかべ」とか言うようになってきました。

四月から幼稚園です。

 

……どうなっちゃうんでしょう、この人。

 

まあ、それはともかくとして、そのあたりの時代の話は、私も嫌いじゃないです。

 

さて、この本には、私のご先祖様関連とされている人が、二人掲載されています。

いや、別に先祖自慢をするつもりではありません。

こういう話が好きな人が少なくとも一人いるので、ネタを振ってみようかと。

 

ご先祖様のうちの一人は、朝倉義景です。

私の中学の教科書には、

「織田・徳川連合軍が、朝倉・浅井連合軍を姉川の戦いで破った」

と、一行だけ載っていました。

今はどうかわかりませんが。

 

朝倉義景は、越前の戦国大名です。

越前は、今の福井県です。

義景が当主となったころ、朝倉家は、それなり有力な守護大名でした。

しかしその後、義景はチャンスを何度も逃し、家臣に逃げられ、滅亡します。

今や、戦国武将マニアからは、無能の代表選手扱いです。

 

室町時代中期、応仁の乱が起こります。

その頃、8代将軍足利義政(銀閣の人)は「諸国の沙汰は力次第」なんてことを言って、各大名の他国侵略を公認にしてしまったために、徐々に各地に戦国大名と呼ばれる勢力が現れてきます。

越前朝倉家も、応仁の乱の最中に分家して興った守護大名でした。

 

その後は「将軍=お飾り」という時代が続くのですが、13代将軍足利義輝の活躍によって、一時的に幕府の権威が復活します。

しかし、義輝はなんと御所の襲撃を受けて討ち死にし、将軍不在となってしまいます。

もちろん、幕府の信用は完全に地に墜ちます。

 

このころ、後の15代将軍である足利義昭は、個人的に縁のあった朝倉家を頼って来ていて、義景に、共に戦おうとしきりに持ちかけます。

しかし、義景は都に上ろうとしなかったために、義昭はあきらめて去っていってしまいました。

その際、それまで義景の元にいた明智光秀までもが、義昭と共に去って行きました。

 

明智光秀といえば、信長を殺した残念な人というイメージがあるかもしれませんが、実際は頭の切れる、かなり有能な武将でした。

信長の信用も厚く、京と安土を結ぶ重要拠点を任されたのが、光秀だったのです。

 

義景の元を去った足利義昭は、その後、光秀によって信長を紹介されました。

ですから信長は、将軍をバックにつけて京に乗り込むことができたのです。

 

義景があそこで決断していれば、最初に上洛した武将は朝倉家だったのかもしれないのです。

 

その後も、信長と対立した義景は、たびたび信長と対峙します。

信長軍は、朝倉に対しては決して無敵ではありませんでした。

実際、二度ほど信長は朝倉の前に敗走し、信長を討ち取るチャンスがあったのです。

しかしその度に、取り逃がしたり行動が遅かったり人任せだったりして失敗。

信長包囲網を考えていた武田信玄や足利義昭からは、さんざん恨み言を書かれた手紙を送りつけられています。

 

あげく、姉川の戦いで敗れて拠点を取られた為に、軍力はあっても戦術的に不利になっていきます。

そうしているうちに武田信玄が病死すると、信長は武田の心配が無くなったので、全力で朝倉を攻めることができるようになります。

そして信長の猛攻の前に朝倉軍は壊滅し、義景とその直系の血族は滅亡しました。

 

しかしその際、越前から逃げ出した朝倉の一族は、各地に散っていったとのことです。

落ち武者伝説と言えば平家のものが有名ですが、朝倉の末裔伝説も、怪しいモノも含めて全国に相当数があるようです。

まあ、私の家に伝わる話も、そのうちの一つですけど。

 

私が聞いたところでは、ご先祖様は伊勢まで逃れたあと、海を渡って渥美半島に辿り着いて、そこで百姓をやっていたということです。

そして江戸時代は、代々庄屋になったり没落したりを繰り返したそうです。

庄屋時代に掘った溜池の一つは、私の子供の頃まで残っていたとのことです。

 

そういう伝承ですので、子供の頃に親に「ウチの先祖ってどんな人?」と聞いたら、「戦に負けて百姓をやってた」と言われた覚えがあります。

確かにそうなんですけどね。

 

しかし家系図があるわけではありませんので、あくまで「自称」です。

そもそも、越前朝倉氏の家紋は「三つ盛木瓜(みつもりもっこう)」ですが、我が家の家紋は「丸に井桁(いげた)」です。

普通は同じ家系では同系列の家紋を使いますから、ちょっと怪しいです。

強いて言えば、輪郭は似ていますけど。

 

 

ただ、茨城に住むようになってから偶然知り合った同郷出身の人が、この朝倉家の伝説について

「高校の同級生が同じような話をしてた」

なんてことを言っていました。

ということは、末裔伝説は我が家以外でも伝わっているということで、伝説の存在自体は本当のようです。

 

ちなみに、私の三代・四代前の位牌を見ると、周囲の朝倉家の位牌が普通の井桁紋である中、我が家だけが組井桁(井桁とは微妙に違う)となっています。

私が推測するに、ひいじいちゃんが位牌を作る際に、「組井桁の方がかっこいいじゃん」という理由でウチだけデザインが変わったのではないか、と。

 

まあ、伝統なんて大抵がそんなもんですよ。

 

最初の話に戻りますと、戦国武将のご先祖様のもう一人は、家康の忠臣、本多忠勝です。

これは私の祖母の家系です。

 

……その話は、またの機会にでも。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義