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あすなろ172 桜田門外の変(過去記事)

2018年5月17日投稿

 

 

 

2016.02号

 

前回の忠臣蔵に引き続き、今回は桜田門外の変です。

言い訳第二号です。

 

もう一つの雪の朝の事件、桜田門外の変は、幕末の頃に起こった事件でした。

 

忠臣蔵で殺された吉良が旗本だったのに対して、桜田門外で殺害された井伊直弼は、江戸幕府の大老でした。

大老とは、時の幕府の最高権力者で、言ってみれば首相のようなものですので、首相暗殺レベルの事件です。

 

この事件は、歴史の教科書的には、

「井伊直弼はアメリカとの日米修好通商条約を独断で結んで、それに反対する吉田松陰らを安政の大獄で処罰した。そこで反感を買って殺された」

というようなことになっています。

 

でも、もう少し詳しく見ていきます。

本当は、もっと複雑で根が深い話です。

 

最初のきっかけは、ペリーの一回目の来航でした。

この時の将軍は第十二代家慶(いえのぶ)だったのですが、ペリー来航時には、もうさっさと跡継ぎを決めないとやばい状態だったのです。

しかし、問題がありました。

 

次期将軍候補である家定(いえさだ)は、よく言えば病弱、悪く言えば役に立つ見込みがない人物だったのです。

脳性麻痺だったとも言われていまして、会話はできたようですが、後には廃人同様だったこともあったようですから、確かに将軍が務まるような人物ではなかったようです。

 

ともかく、来年にはペリーに何らかの返事をしなければいけないという局面で、家定に任せるわけにはいかないと主張する人物が現れました。

水戸藩の徳川斉昭(なりあき)です。

 

彼の一推しは、一橋家に養子に出した慶喜(よしのぶ)です。

後の十五代将軍ですね。

 

確かに慶喜は、優秀なことで有名だったようです。

しかし斉昭は、老中の阿部正弘に「次には慶喜にするから」と説得されて、引き下がります。

そして、家定が第十三代将軍に就くこととなりました。

 

家定は先述の通りの人物でしたので、跡継ぎの男子を儲けることは無理だということが明らかでした。

そこで、徳川斉昭を中心に、今度こそ慶喜にしなければという運動がおこります。

今回は、先述の老中阿部正弘も賛同しています。

しかし、本来の後継者順では、次は家茂(いえもち)のはずでした。

 

跡継ぎ争いによる騒乱は、日本史上で何度も起こっています。

古くは飛鳥時代の壬申の乱が、その後も平安時代の保元の乱、室町時代の応仁の乱と、その度に内戦が起こり、政治が大混乱を来(きた)しています。

 

しかし徳川家康が、ここで一つの規則を定めます。

それが、長子相続というものです。

現在の天皇家の即位順と同じものですので、今からすれば至極当たり前のようですが、戦国時代までは、家督を継ぐのは長子とは限りませんでした。

戦国武将を調べるとわかります。

 

家康は三代将軍を定める際に、もっと優秀とされていた人物を差し置いて、家光を指名します。

この前例があったからこそ、その後何百年も、江戸では後継者争いが起こらなかったのです。

しかし今回の徳川斉昭による慶喜推しは、これに反するものでした。

 

しかしここで、この派閥を支えていた老中阿部正弘が急死します。

すると、反斉昭派が巻き返しを図ります。

さらにこのころ、ハリスが日米修好通商条約の締結を迫っていて、将軍家定の病状はいよいよ重体となるし、開国か攘夷か、跡継ぎは誰がいいのか、大奥まで巻き込んで、城内は大混乱となります。

 

そんな時、それをまとめる大老として指名されたのが、井伊直弼でした。

彼は、就任二ヶ月後には後継を家茂と定めます。

 

実を言うと、直弼自身は井伊家の十四男で、父親が亡くなってから自分に家督が回ってくるまで、十五年間を自宅の離れで耐えています。

そんな直弼ですから、後継の順序に厳しいのは、ある意味当然だったともいえます。

 

また、現将軍の家定自身も、どうも慶喜には将軍を譲りたくなかったようです。

イケメンでモテモテなのが気にくわないとか。

いやこれマジで。

 

ともかく、残るはアメリカとの条約です。

 

直弼は、各大名に意見を聞いて回った結果、開国することはやむを得ないが、天皇の勅許(ちょっきょ)を取る必要がある、という結論に達しました。

天皇云々は、反対派を納得させるためのものでしょうね。

だって別に、鎖国の時は天皇の許可なんて取ってないし、幕府は朝廷を実効支配していて、朝廷は幕府に逆らえない状態だったわけですから。

 

それでも一応は筋を通すために朝廷に行くのですが、天皇は勅許を出さずに

「衆議を尽くした上で再度奏聞(そうもん)せよ」

なんて言います。

要は、もっと話し合ってからもう一回来いというわけです。

 

ところが、条約交渉の担当者は直弼に、

「どうしてもの時は、結んじゃってもいいよねいいよね」

と言ってきます。

それに対して直弼が

「その時は仕方ないけど、でもできる限り粘れよ」

と答えると、担当者はその日のうちにさっさと条約に調印してしまいます。

ひどいお役所仕事です。

 

直弼からしてみれば望まぬ結果となってしまったのですが、それでも上司の責任です。

ちなみに、現在の歴史の教科書では、直弼が反対派を無視して条約を結んだことになっています。

 

さて、反対派の斉昭はといえば、跡継ぎ問題で二連敗したあと、条約問題でも言い分は通らず、しかも直弼の奴は天皇の勅許ナシでやりやがったときて、もう怒り心頭で江戸城に怒鳴り込みに行きます。

しかし、定められた登城日ではなかったのに勝手に来たということで、逆に謹慎を食らってしまいます。

 

すると今度は、それに抗議する島津藩は兵を引き連れて江戸に向かおうとします。

これは藩主が急死したので中止されましたが、水戸藩は水戸藩で、幕府を通さずに裏ルートで朝廷にチクりに行きます。

 

以上の行為は、幕府に対する裏切り行為で、反乱の一歩手前です。

というか、ほぼ反乱ですね。

そこで幕府は、そういう勢力を次々と捕らえて、死罪、強制隠居、謹慎などの処分を与えていきました。

 

これが安政の大獄です。

 

安政の大獄といえば、教科書的には「吉田松陰が処刑された」ですが、ここにも誤解があります。

 

鎖国のルールとして、日本人の海外渡航禁止があります。

しかし松陰はこれを破って、ペリーの船でアメリカに行こうとしました。

そしてその件で捕らえられると、今度は老中暗殺計画なんてのをベラベラとしゃべり始めました。

だから死刑になったのです。

直弼とかそんなのは関係なく、そりゃ死刑でしょ普通。

 

ともかく、このように直弼によってギッチギチに追い詰められた水戸藩は、ついに逆ギレをおこします。

雪の早朝、江戸城の桜田門の前で、登城中の井伊直弼は水戸藩士に襲われて殺害されました。

桜田門外の変です。

 

結局、悪いのは誰だったのでしょうか。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義