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あすなろ185 学問のすヽめ(過去記事)

2018年3月22日投稿

 

 

 

2017.03号

 

福沢諭吉の
「学問のすヽめ」
はご存じかと思います。
 
 
 
教科書ではよく、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という部分だけが引用されています。
 
これだけでは平等を説いた本みたいですが、
全然違います。
 
「なぜ勉強するのか」の答えが、
諭吉ならではの非常に高い視点から、
実に明確に書いてあります。
 
 
 
学問のすヽめは全十七編で構成されていて、
一編はそう大した長さではありません。
 
そこで、初編の全文を、
現代語に意訳してみることにします。
 
朝倉による即興ですので、
もしかしたら
変なところがあるかもしれませんが、
そのあたりはご容赦ください。
 
 
 


 
 
学問のすヽめ 初編
福沢諭吉 小幡篤次郎
 
 
 
天は、人の上には人を造らないし、
人の下にも人を造らないそうである。
 
ならば、天から人が生まれる以上は、
誰もが皆同じ地位であり、
生まれつきの身分の違いはなくて、
好きなように楽しく暮らせるはずである。
 
しかし実際に人間社会を見る限りは、
賢い人や愚かな人がいるし、
貧しかったり豊かだったり、
身分が高い人だったり低い人だったりと、
雲泥の差があるのはなぜか。
 
その理由は明らかである。
 
実語教という書物には、
「人は学ばなければ智は無く、
智が無ければ愚か者だ」
とある。
 
つまり賢人と愚人の差は、
学ぶか学ばないかでできるものである。
 
世の中には難しい仕事もあれば、
簡単な仕事もある。
 
難しい仕事をする人を身分の重い人、
簡単な仕事の人は身分の軽い人といい、
頭を使う必要のある仕事は難しくて、
手足を使う仕事は易しい。
 
だから
医者、学者、役人、
大商人、大百姓などは、
身分が重くて貴いのである。
 
身分が重くて貴ければ、
自然にその家も豊かになって、
下々から見れば手が届かないようだが、
元を辿ればただ
学問の力があるかないかだけのことであって、
別に天がそう定めたわけではない。
 
「天は富貴を人に与えず、その働きに与える」
ということわざがある。
 
最初に述べたとおり、
人には生まれつきの貴賤、
貧富の差はないのである。
 
ただ学問に勉めて物事をよく知る者は
貴人、富人となるし、
無学な者は貧人、下人となるのである。
 
 
 
学問とは、古文、和歌、詩などの、
世間で役に立たない文学ばかりではない。
 
これらも結構だが、
昔から言われるほど貴いものではない。
 
漢文や和歌を知っているから
商売が上手くいく、
なんてことはない。
 
だから子供があんまり学問に精を出すと、
身を滅ぼすことになりかねないという
親の心配はわかる。
 
だからそういう
役に立たない学問は後回しにして、
まずは実用的な学問を学んだほうがいい。
 
かなを習って、
手紙文、帳簿の付け方、
そろばんや天秤の使い方など、
学ぶべきことは非常に多い。
 
地理学は、
日本は勿論世界の風土の案内である。
 
究理学(物理学?)とは
天地万物の性質を見て
その働きを知る学問である。
 
歴史とは年代記の詳しいもので
万国古今の有様を詮索する書物である。
 
経済学とは
個人や一世帯から
世間の家計を説明するものである。
 
修身学とは
行いを正しくして人と交わって
この世を渡る際の道理を述べたものである。
 
これらの学問をするには、
いずれも西洋の翻訳書を調べて、
大抵の事は日本の仮名で事足りて、
または年若くして文才がある者へは
横文字をも読ませて、
その内容に従って、
物事の道理を求めて日々を過ごすべきである。
 
以上は人間に共通の実学であって、
人ならば貴賤上下の区別無く
皆が身につけなければならない心得であって、
この心得をもって士農工商それぞれが
身を尽くして家業を営み、
身も家も国家も独立すべきである。
 
 
 
学問をするには
分限をわきまえることが大切である。
 
人は生まれながら、繋がれず縛られず、
一人前の男は男、女は女で自由なのだが、
ただ自由だけを唱えて
分限をわきまえなければ
我が儘でやりたい放題に
なってしまうことが多い。
 
つまりその分限とは、
天の道理に基づき人の情けに従って、
他人の妨げにならないで
自分の自由を達成することである。
 
自由と我が儘の境界は、
他人の妨げになるかないか、
にある。
 
 
 


 
 
 
……あの。
 
ちょっとよろしいでしょうか。
 
 
 
ここまで書いてみたところで、
全文掲載が無理そうだとわかりましたので、
ここからは所々を要約して
進めることにします。
 
※「あすなろ」は通常、A4の紙2枚で収めています。
 
 
 


 
 
 
自分の金を使うならば
何でもやっていいというわけではない。
 
世間の風紀を乱すならば
それは許されない。
 
また、国も自由独立である。
 
わが日本は外国と交流せずに
不足なかったが、
寛永年間にアメリカ人が来て
交易が始まった。
 
開港の後も鎖国攘夷という者がいたが、
井の中の蛙である。
 
日本も西洋諸国も
同じ日に照らされ同じ月を眺める
同じ人間である。
 
だから余った物同士を交換して、
互いに学び合うことは、
恥じることでも誇ることでもない。
 
道理のためには
アフリカの奴隷にも恐縮し、
道のためには
イギリス、アメリカの軍艦も恐れず、
国の恥辱があれば
全国民が命を捨ててでも
国の威光を落とさないことが、
自由独立というものである。
 
しかし支那人のように、
外国人を獣のように馬鹿にして、
逆に外国に苦しめられる始末は、
身の程知らずな我が儘である。
 
わが日本の政治は一新したので、
身分というものは一応なくなった。
 
ただその才能と地位があるだけである。
 
例えば政府の役人は、
その才知で国民のために
貴重な法を扱うから
尊いのであって、
その人自身が尊いわけではない。
 
幕府の理不尽な権威は無くなった。
 
人々は政府に不満があれば、
遠慮無く議論すべきである。
 
道理と人の情に照らして正しければ、
命をも投げ出して争うべきである。
 
 
 
先に述べたとおり
個人も国も自由であるから、
自由のためならば、
政府の役人にも遠慮することはない。
 
とは言っても、
身分相応の知性や品性が
なくてはならない。
 
そのためには道理を知る必要があり、
そのためには学ばなければならない。
 
これが学問が急務である理由である。
 
自己の身分を重いものと思い、
愚劣な行動はしてはならない。
 
無知文盲ほど哀れなものはない。
 
無知が進めば恥を知らず、
無知のために貧乏になれば
自らの反省無しに他を恨み、
さらに徒党を組んで乱暴に至る。
 
身の安全を国家の法律に頼りながら、
私欲のためにこれを破るとは
おかしくないか。
 
資産があっても教育をされない子孫は、
家督を一朝の煙とする者も多い。
 
このような愚民には道理が通じないので、
支配するためには威をもって脅すしかない。
 
これは政府がひどいのでは無く、
愚民が自ら災いを招いているのである。
 
愚民の上に苛政があるならば、
良民の上には良い政府があるということだ。
 
わが日本でも、
仮に人民の徳義が衰えて
無知文盲になれば、
法も厳重になるだろうし、
皆が学問に志せば、
法も寛大になるだろう。
 
自国の善政、富強を望まず、
外国の侮辱に甘んじる者などいないはずだ。
 
そのためには、
ただ身の行いを正し、
学問に志して事を知り、
身分相応の知識や品性を備えて、
政府と人民が共に太平を守るのみで、
私の勧める学問も、
ただこの一点を趣旨とする。
 
 
 


 
 
 
つまり、教育と民度は比例する、と。
 
 
 
昨今の世界情勢を見る限り、
実に納得です。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義