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あすなろ181 蜘蛛の子の散らし方

2020年4月7日投稿

 
 
 
2016.11号
 
「蜘蛛の子を散らすよう」という言葉があります。
「散り散りになって逃げる様子」を表す言葉です。
しかしここで、なぜクモなのか、何をモチーフにした言葉なのか、そのあたりって案外知られていないらしいんですね。
最近、そんなことに気付きましたので、ちょっと書いてみます。
 
クモは、ほとんどの種類で、卵をまとめて卵嚢(らんのう)という袋に入れておきます。
 
卵嚢という言葉でよく知られているのは、カマキリあたりでしょうか。
カマキリの卵嚢は泡状のタンパク質でできていますが、クモの卵嚢は糸で包むことによって作られます。
 
この時の糸は、卵嚢専用の、ふわふわした糸が使われています。
この状態で巣にくっつけておく種類もいますが、さらに別の丈夫な糸で包み込んで、しっかりとした袋にしておく種類もあります。
 
卵嚢の中で孵化したクモは、中でさらに脱皮して、充分に歩ける状態になってから出てきます。
そしてその後はしばらくの間、近くで子グモ同士固まって暮らします。
ただ集まっているというよりは、本当に文字通り固まって、子グモだけで玉が作られています。
 


子グモの集団と卵嚢
青緑っぽいのが卵嚢



多分、オニグモだと思う。
近くに親がいたので。


前の画像の一部を拡大したもの
黒い部分は玉状に固まる子グモだとわかる


 
この状態のことを、クモのまどい(団居)と言います。
 
そんな状態のクモは、ちょっと指先で触れたり、または風に吹かれたりすると、びっくりしてワラワラと散り始めます。
 
これが、「蜘蛛の子を散らすよう」という様子です。
これが元ネタなんです。
 
驚いて散り始めたクモは、少しすると戻ってきて、元のような団子になります。
 
そして、しばらくそんな生活をした後、子グモは自分の糸を風になびかせて、それをタンポポの綿毛のようにして、風に乗って飛んで行きます。
そこからは、新しい世界で一人暮らしが始まるわけです。
 
ということで、慣用句というかことわざというか、冒頭の言葉の説明は終わりなのですが……。
これがですね、笑っちゃうんですよ。
 
ちょっと広辞苑を開いてみますね。
 


・広辞苑 第三版(昭和五八年版)
(蜘蛛の子の入っている袋を破ると多くの子が四方に散ることから)群衆などがちりぢりばらばらに逃げ散るさまなどにいう。


 
ぶははははははは!
 
なんだそれ!
なぜわざわざ袋を破る?
 
確かにクモは、前述の通り卵嚢の中で孵化しますから、卵嚢を破ると中から子グモが出てくることはあります。
でも、卵嚢はそこそこ丈夫にできていますので、わざわざ両手でつまんで引きちぎったりしない限り、何かの拍子についうっかり破れる、なんてことはありません。
 
ああ、小学生ならいいですよ。
私も小学生の頃にやりましたから。
 
でもわざわざそんなことをしなくても、クモのまどいを見たことがあれば、絶対にすぐにわかることなんですよね。
可哀想に、広辞苑の編集スタッフは、きっと誰も知らなかったのでしょうね。
 
一方、クモのまどいについて書かれているウェブサイトでは、ほぼ漏れなく
「『蜘蛛の子を散らす』とはこれのこと」
などの記述があります。
 
で・す・よ・ねー。
 
だって、まどいそのものを見れば、そんなのは一発で理解しますから。
 
試しに、他の国語辞典も見てみますね。
 


・大辞泉 第一版(一九九五年)
《蜘蛛の子の入っている袋を破ると、蜘蛛の子が四方八方に散るところから》大勢のものが散りぢりになって逃げていくことのたとえ。「悪童どもは―・すように逃げ去った」


 
広辞苑とほぼ同じ。
袋を破っていますね。
 
手許にある他の辞書も開いてみます。
 
北原学長の明鏡
――――――同じく袋破ってます。
 
新解さんこと新明解
――――――袋破ってます。
 
大野晋先生の角川
――――――袋破ってます。
 
期待してない明治書院
――――――やっぱり袋破ってます。
 
子供用ベネッセ
――――――言葉の意味の説明はあるのですが、なぜクモなのか全く触れず。
 
そして旺文社の大ことわざ辞典である成語林
――――――期待していたのにまさかの袋破り。がっかりだよお前には。
 
さらには、日本で最初の辞書と呼ばれている「言海」も調べてみたのですが、この語自体が掲載されていないようです。
期待したんだけど残念。
 


ところで、広辞苑は戦後の辞書なのですが、初版の発売当初は爆発的に売れた本でした。
ですから、その後の他の辞書は、広辞苑を参考にして編んだ可能性が非常に高いです。
となると、この一連の元凶は、広辞苑にあたる可能性があるなあ、なんて思っています。
真相はわかりませんが。


 
まあ、その犯人はともかくそんなわけで、クモの生態を知らない国語学者様たちは、今日もせっせとクモの袋を破り続けているというわけです。
国語学者ってのも大変ですねえ。
まどいをつつけばそれで済む話なのに。
 
さて。
この蜘蛛の子の話から、いつも連想する表現があります。
 
宮沢賢治『注文の多い料理店』。
超有名な話ですが、その一部より。
 


風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。


 
多分、聞いたことがあると思います。
このうち、問題は木の「ごとんごとんと鳴りました」という部分です。
 
これ、何の事だと思いますか。
 
木って、鳴るんですよ。「ゴンッ!」って。
 
強風の日に森に入ると、高い所から響いてくることが、ごくたまにあります。
 
隣同士の木がぶつかっているのか、それとも、普段はもたれかかっている幹が風に煽られて一瞬離れてぶつかるのか、そのあたりまではわかりません。
しかし、確かに鳴ります。
そして鳴るためには、風が「どう」というほど一気に吹いてくる必要があります。
 
強い風が吹いたとき、竹林がカラカラと鳴るのを聞いたことがあるでしょうか。
あれも、竹同士がぶつかって鳴る音なのですが、それの樹木版だと思ってください。
 
賢治は、それを体験していたのです。
だからこそ、この表現が出てきたのでしょう。
これと同様の表現は、『風の又三郎』でも見られます。
 
しかし、それを研究している文学屋さんは、そんなことを知らないので、
「賢治独特の斬新な表現」
とか書いちゃうわけですね。
その頭の中では、
「賢治ってのは想像力豊かだから、きっと現実にはあり得ない音も聞こえてるんだろうなあ」
なんて思っちゃっているってことが、アリアリと読み取れます。
 
一方、これが実際に聞こえる音を表現したものだ、という言及は、これまでに全く見たことがありません。
ネット上でも同様です。
かなり調べまくったのですが、全くありませんでした。
(2016年11月)
 
それどころか、賢治を他言語に翻訳する際に、
「風が強く吹いて、草が鳴り、木の葉が鳴った」
という文にしてしまって、木の音を無かったものとしてしまった例まで見かけました。
ノイズか何かと思ったのでしょうか。
 
私は、この賢治の表現の真意については、全く誰からも教えてもらっていません。
あるとき森の中で、自分の耳でその音を聞いて、
「これがそうだったのか!」
と、初めて本当の意味を理解したのです。
 
もっと外を歩きましょうよ。
そうすれば、もうクモの袋を破らなくてもいいのです。
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義