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あすなろ182 日本とトルコ

2019年10月20日投稿

 

 

 

2016.12号

 

インターネットでは有名な話、というものがあります。

 

中学校の教科書が今年度から改訂されているのですが、そんな中学二年の英語の教科書を見ていたら、そういう話が掲載されていることに気付きました。

 

話は、日本とトルコの友好の話です。
イランイラク戦争のトルコによる邦人救出劇から始まって、エルトゥールル号事件、トルコ北西部地震、東日本大震災、と話は続きます。

 

ここまで書けば、ネット中毒者ならばだいたいのストーリーはわかってしまうのですが、多分普通の中高生は知らないと思いますので、ここに紹介しようと思います。
所詮は中学英語の教科書ですので、字数の制約的に薄い内容となってしまっている補足をしたい、という意図もあります。

 

トルコという国は、アジアの西端にあたる国です。
地中海に面していますが、ヨーロッパから見て、トルコから東のことをアジアと言います。
というよりも元々アジアとは、黒海と地中海を仕切るアナトリア半島――通称『小アジア(しょうアジア)』――のことを指す言葉でした。
 


トルコの位置


 

15世紀から17世紀にかけては、この地を中心としたオスマン=トルコが大帝国を築いていましたが、19世紀にはロシアなどに圧迫されて、衰退の一途を辿っていました。
そんな中、明治維新を果たした日本から、皇族がこの地を訪れます。
そこでオスマン帝国は1890年、その返礼として、日本に向けて軍の練習艦を派遣することにします。

 

これがエルトゥールル号でした。

 

エルトゥールル号の派遣は、トルコにとって、アジアの大国としての威信を取り戻したいという思惑もありました。
ですから、日本に向かう途中では、アジア諸国を歴訪しています。
しかしエルトゥールル号は、長く使われていなかった船でしたので、航行中も破損が相次ぎ、修繕しながらの旅となっていました。

 

ようやく東京に到着した頃は、予算も日程も予定を大幅に超えた旅となっていました。
スエズを通過してきたにもかかわらず、東京に着くまでに実に11ヶ月も経過しています。

 

それに加えて、船内ではコレラが発生していました。
東京には6月7日に到着したのですが、それが出港可能になったのは3ヶ月後の9月になってからでした。

 

もう本当に色々なものが限界になっていました。
台風が迫る中、本国からの帰還命令が出されたエルトゥールル号は、日本の制止を振り切って出港します。
しかし、和歌山南端の大島付近で座礁して、爆沈してしまったのです。

 


和歌山県大島


 

実はここは、その4年前の1886年には、あのノルマントン号事件が起こって、イギリス人だけが生き残った地でもあります。
しかし、村民は漂着する外国人に対して、台風の中、医者を呼び、備蓄用の米や鶏まで潰して救命に尽力します。
その結果、乗員650名中、69名が救出されたのでした。

 

その後は、日本中から集まった億単位の義援金が送られたり、トルコが医療費を払おうとしても日本の医師が断ったり、という話がトルコに伝わります。

 

この一連の話は、トルコでは小学校の教科書に載っていました。
今は載っていないという話もありますが、どちらにせよ、こんな逸話を知っているトルコ人は数多くいるようです。

 

時代は下って、第二次世界大戦中のことです。
トルコは当初、中立を維持していました。
しかし連合国の圧力に負けて、1945年に日本に宣戦布告します。
ところが実際には、一切の軍事行動は行われませんでした。
そして戦後は、
「 同 盟 国 イ タ リ ア 」

「 中 立 国 ス イ ス 」
までもが日本に対して賠償金を請求する中、トルコは一切の賠償金を請求しませんでした。

 

1985年、イラン・イラク戦争の最中のことです。
イラク政府は突如、
「今から48時間後以降、イラン上空を飛行する全てを無差別に攻撃する」
という宣言をします。
各国は自国民脱出のために特別機を飛ばしますが、日本は……

 

日本の自衛隊は、侵略侵略と騒ぐ社会党(現・社民党)や共産党があったために、この距離を飛べる機体を持つことができませんでした。
また当時は、政府専用機もありませんでした。

 

つまり、この時の日本政府には、直接下せる手が何も無かったのです。

 

一方の民間では、日本航空が会社もパイロットも飛ぶつもりで準備していました。
しかし、労働組合が安全保証を取り付けない限り反対と言い張って、行動不能となります。

 

現地の日本人は各国の航空会社にかけあいますが、どこの国も自国民救出を優先させるため、それまでに取っていたチケットも、全て無効とされてしまいます。
その後は、各国の通常便が全て止まります。

 

日本人200余名は、脱出の見通しが立たないまま、町のあちこちで空襲におびえて隠れているしかない状態となっていました。

 

そんな中、とあるビジネスマンの懇願によって、その旧知の仲であったトルコ首相は、日本人救出を決断します。
日本人をトルコ人と同じに扱ってくれという依頼に対して、トルコは当時保有していた最大の機体を、日本人専用機として1機手配します。
これと、トルコ人用定期便の1機を合わせて、2機の飛行が決定しました。
トルコ航空では、その救出任務のためのパイロットを募ると、その場にいたパイロット全員が挙手したそうです。

 

イラクの設定したタイムリミットは、現地時間の午後8時30分です。
(※英語の教科書にある「午後2時」は間違い。日本時間ならば午前2時)
それに対して、トルコ行きの最終便が離陸したのは7時30分。
トルコのイスタンブールに着いたのは、8時20分でした。
誤差を考えると、本当に間一髪です。

 

その時2機は、わざと違う高度を飛行しました。
もし敵機に襲われても、トルコ人機を囮にして日本人機を逃そうというポジションで飛んだのです。

 

実はこの時点で、イランにはまだ600人のトルコ人がいました。
しかしこちらは、トルコ大使館などの用意した車に分乗して、陸路で脱出することになりました。
当然こちらの方が時間がかかるため、空路よりも危険度の高いルートです。

 

しかし、自国民よりも他国民の命を優先したという首相の采配に対して、文句を言うトルコ人は無かったといいます。


※なお現在では、緊急時には国会の承認なしで自衛隊機を派遣できるように、1999年に法整備されています。
→野党が当時「戦争法案」と呼んで反対していたものがこれです。


 

1999年、トルコ北西部で大地震が発生すると、日本は即座に救援隊を派遣しました。
日本が建てた仮設住宅には、5000人の被災者が身を寄せました。

 

2011年に東日本大震災が起こると、今度はトルコが救援隊を出します。
そして、原発事故によって各国が撤退する中、一番最後まで日本にとどまって救援に当たっていたのはトルコ隊でした。

 

同年10月には、今度はトルコ東部で大地震が起こっています。
しかし、東日本の被災者がおとなしく列に並んでいる姿を見ていたトルコ人達は、配給には列を作り、暴動などの混乱を起こさなかったということです。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉