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あすなろ238 斎藤隆介

2022年4月29日投稿

 
 
 
2022.02号
 
昔話が好きです。
 文庫本の昔話集を読んだのは、確か中2の頃だったと思います。
中3の時には、日本の昔話の原点であり神話の原典だからと、古事記を原文で読み始めました。
 

私が中3の時に読んだ古事記は、当時のしおりがささったまま、塾の書架に置いてあります。

 
また、高校生の頃には、柳田国男の「遠野物語」と、グリム童話の「昔の版*」を全巻読破しました。
 

グリムの昔の版:
岩波文庫「改訳グリム童話集」全7巻
金田鬼一 昭和二九年発行(改訳版)
改訂版は昭和十三年 初出は大正十三年(1925)
→日本で初めて全訳されたグリム童話集です。

 
昔話が好きになったのは、子供の頃に放映されていたアニメ「まんが日本昔ばなし」の影響もあるかもしれません。
しかし恐らく、それ以上に影響したのは、父親によく読んでもらった、
斎藤隆介の童話集「ベロ出しチョンマ」だろうと思います。
 
一般的には、斎藤隆介と言えば、ベロ出しチョンマよりも
「花さき山」
「モチモチの木」
の方が有名かもしれません。
小学校の国語の教科書にも採用されたことがありますが、今でも掲載されているのでしょうか。
 
絵本版は、滝平二郎の切り絵を挿絵としています。
切り絵を引き立てるために黒地となっていますが、
「黒い児童用絵本」というものは、当時は画期的だった……
というか当初は、「子供用に黒い本なんて」と書評では酷評されていたらしいのですが、
実際には人気が高かったようですね。
 


花さき山(1969)

 

モチモチの木(1971)


 
出版当時は批判されたが、後に評価を受けるという点では、
やなせたかしの絵本「あんぱんまん」に通じるものがありますね。

 
なお、切り絵の滝平二郎は、茨城県の旧玉里村(現:小美玉市)の出身です。
2009年に亡くなっているのですが、存命の頃、つくば市の図書館で展覧会+サイン会がありまして、
絵本を持ち込んでサインをしてもらったことがあります。(2002年)

 
この人の切り絵って、子供の頃は嫌いだったんですけど、不思議なものです。
ふと思い立って、絵本を買おうと思ったのは、恐らく二十代後半くらいだったと思います。

 
ちなみに、この写真の左端にある、朝日新聞のマークがある紙は、滝平二郎の「きりえカレンダー」です。
まだ他にも、
 
……じゃなくて、斎藤隆介の話ですよね。
 
その、「花さき山」や「モチモチの木」の作者である斎藤隆介の童話短編集が、
先に紹介した「ベロ出しチョンマ」です。
「花さき山」も、元々はその「ベロ出しチョンマ」の中に、プロローグとして収録されていた
「花咲き山」でした。
 
斎藤隆介、いいですよー。ほんと。
 
そういえば、この中に入っている「ひいふう山の風の神」は、四谷大塚のジュニア教材に、
国語の問題文として入っていたような気がします。
二年生だったかな?
言いわけ小僧の言いわけが、風の神様の風袋を、黄色くしちゃう話です。
 
そういうあっけらかんとした話もいいのですが、それとは別にですね、
 
子供の頃からあんまりにも何度も読んでいるせいか、
読み始めるだけで泣きそうになっちゃう話が、何個もあるんですよね。
 
でも、自分の子供に読んであげたいので、涙声になりそうなのを必死でこらえて読み聞かせたこともありました。
 

※ 別に、元々涙もろいってわけではありません。実際、映画で泣いたことは殆どありません。

 
その筆頭は、書籍「ベロ出しチョンマ」の中にもある「天の笛」。
次が「三コ」。
この2つは私にとってヤバいです。
まともに読めません。
 
次点が、「ベロ出しチョンマ」と「八郎」です。
 
さて。
かつて自分が小学5年生か6年生の頃だったと思うのですが、学校で地図帳を眺めていて、
「八郎潟」という場所を見つけました。
 
八郎潟とは、ベロ出しチョンマの中にあった話「八郎」に登場する場所です。
 
 
ほんとにあったのか――――!
 
 
実は、斎藤隆介の話は、グリムのように民話を集めたものではなくて、
全て自作の「昔話風創作」なのですが、まれにこうやって実在の地名が出てくるのです。
 
……なんてことは後で知ったのですが、その時から、いつか行きたいなんて思って、
 
――――――――――――――――――――
 
確か1997年だと思ったのですが、
ヤマハの主催で、道の駅スタンプラリーというイベントがあったんです。
そこで自分も、五月の連休に、バイクで道の駅巡りをしようと思って、ちょっとしたツーリングを考えたのです。
 
その目的の一つが、八郎潟でした。
 
連休の初日は、朝から福島県いわき市の知人宅まで、トラックでバイクの配達に行って、一旦帰宅。
 
そこからすぐバイクに乗り換えて、常磐→磐越→山形道と経由して、山形か秋田のどこかで野宿一泊。
夜が明けたら鳥海山のワインディングを経由して日本海側を走って、
午前十時頃、ついに八郎潟に到着。
 
現地の看板の地図を見ると、「寒風山」なんて地名もあります。
 
そして「八郎」の話には、波をせき止めるために海に沈められた「さむかぜ山」が登場します。
 
 
すげ――――。
 
本当にあった――――。
 
 
当時は28歳。
八郎潟を地図で見つけたのが、多分11歳か12歳くらい。
 
実に、十余年越しの夢がかなったのでした。
 
 
 
本当は、実在の「寒風山」は「かんぷうざん」と読む、ということを後で知るのですが、そんなことはどうでもいいんですよ。
 
バイクでは、随分いろいろな所に行きました。
四国八十八箇所も全部回りました。
 
でも、八郎潟で得たあの感動、あの感激は、他には比べられるものがありません。
 
その後も、色々なことを経験しましたが、でもやっぱり、あれを越える感動は、未だにありません。
 
自分は本当に、あの八郎潟にいるんだという、あの気持ちは忘れられません。
 
 
 
八郎潟からはさらに北上して、青森で夜を迎えた頃には雨が降り出しました。
そこでまた一泊野宿してから、雨の東北道で帰宅しました。
この時は二泊で2000キロくらい(トラックでいわきまで往復した分も含む)走って、午前中に帰ってきました。
 
そしてちょっと仮眠して、その夕方からはカミサンを後ろに乗せて、長野方面にツーリングに行きました。
こちらも確か二泊で、今度は山道ばっかりを800キロくらい走ったと思います。
計2800キロですが、だいたいこれは、鹿児島まで往復するくらいかな?
 
何が言いたいかというと、若い頃はどこか頭がおかしいね、ということです。
でも、だからこそ、色々な経験ができるんです。
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義