2019年1月

あすなろ207 船首

あすなろ

 

 

 

2019.01号
 

つい先日、マンガを読んでいて初めて知ったのですが、城門を破壊する時に突くでかい丸太のことって、ラム(battering ram)って言うんですね。
 


上:ラムの使い方

下:屋根と車輪の付いたラム(屋根は矢よけ)


 

ラム(ram)といえば、昔の軍船についていた「衝角」も同様に突いて破壊する兵器ですが、これの語源がこんな所にあったとは知りませんでした。

ちょっと感激しました。
 

と書いても、そんな言葉知らないと言う方がほとんどかと思いますので、ご紹介します。
 

古代ギリシャエジプト時代から第二次世界大戦に至るまで、海戦では相手の船を沈めてしまえば勝ちです。

そのために有効な戦法の一つが、舳先を相手の腹に当てて破壊することでした。

その効果を高めるために、船の喫水線より下側を前方に突き出した形状にすることがありました。

これがラムです。
 

ラム戦は、元はといえば紀元前の戦法です。
 

しかし16世紀ごろまでは、大砲の威力と精度が低かったために、ずっと主力の戦法として使われ続けていました。

※ 日本の伝統的な船は構造上、体当たりができるような強度がなかったために、ラムは発達しませんでした。
 


上:ラムを備えた軍船(古代ギリシャ)

下:戦艦 三笠(日露戦争)


 

しかし日露戦争以降の海戦では、敵艦との距離が縮まる前に砲撃戦で決着がつくようになったので、ラムは廃れていきます。

その結果、単純な形状の船首「クリッパー・バウ」が主流になります。
 

クリッパーとは大航海時代の大型帆船で、ティークリッパーとして活躍したカティサークが有名です。

まあ要するに、横から見ると直線的なシルエットの船首となったわけです。
 

その傾斜がきついものはアトランティック・バウなんて呼ばれることもあるようですが、明確な境界はありません。
 


上:クリッパー・バウ(カティサーク)

下:アトランティック・バウ(ドイツ戦艦 グナイセナウ)


 

しかし当時の日本の技術者は、新しい船首を開発して、軍艦に採用するようになります。

それがスプーン・バウ(またはカッター・バウ)です。

横から見ると、クリッパー・バウよりも丸く湾曲した形をしています。
 


スプーン・バウの例

上:駆逐艦 若竹

下:軽巡洋艦 長良


 

スプーン・バウが採用された理由は、機雷避けだとか軽量化だとか高速化だとか諸説あって、どうもよくわかりませんでした。

しかし当時の海軍はこの形状が気に入ったようで、十年ほどは作られ続けています。
 

ところがその一方で、問題点も見つかりました。

この形状では波を甲板までもろに被りやすくなるのです。

ひどいときには、巻き上げた水煙で砲撃ができなくなりました。
 


波を大きく巻き上げる(戦艦 陸奥)


 

そこで今度は、上部の張り出し(フレア)を大きく作って、波を上まで上げないような形状へ変更していきます。

それがダブルカーブド・バウです。
 

下の写真で、水面から甲板に向かって、大きく開くようにカーブしている様子がわかるでしょうか。

こうして日本の軍艦の船首は、特有の複雑な形となっていったのです。
 

先にあげたグナイセナウは同じ時代の戦艦です。

形状を比べてみてください。
 


上:重巡洋艦 足柄

下:戦艦 大和


 

ところで、ここにあげた戦艦大和は、喫水線の下が前方に丸く出っ張っています。

この部分は、バルバス・バウと呼ばれています。
 

バルバス・バウを本格的に採用したのは、日本海軍が始まりです。

原案を考案したのは日本人ではありませんが、その形状と効果の関係を算出したのは日本の研究者です。

現在ではその改良型が、貨物船・大型漁船・大型客船などに数多く採用されています。
 


新旧のバルバス・バウ

上:戦艦 大和(大戦中)

下:大型客船 飛鳥II(現在)


 

バルバス・バウは、船首によって発生する波を押さえる働きをしています。
 

バルバス・バウがない船首では、下図の4のような波がおこります。

一方で、棒だけを水中に入れて進めると、3のような波がおこります。

この波のおこり方をうまく調整して、3の波と4の波が打ち消し合うようにすれば、船にかかる波の抵抗が減って、速度も燃費も上がるというわけです。
 


バルバス・バウの働き

3:バルバス・バウが作る波

4:バルバス・バウがない場合に発生する波

5:合成された波
 

※反対の波を発生させることで元の波を打ち消すという手法は、ノイズキャンセリングヘッドホンや、レシプロエンジンの一次振動減少にも使われている。


 

今回は、ちょっとオタクな話でした。
 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ133 色のお話(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2012.11号

 

色のお話です。

 

日本語には、様々な色を表す言葉があります。

日常的に使われる赤、青などの言葉以外に、緋色、小豆色、浅葱色、江戸紫、などなど、名前を聞いてもすぐにイメージできないものもたくさんあります。

 

ですが、その最も基本となる色は、日本語においては白、黒、赤、青の四色です。

この四つだけは、他の色を表す言葉よりも、古くからある言葉です。

 

なぜこの四つが古いとわかるのでしょう。

 

もちろん、昔に書かれた文を逐一探していけば、時代が下るに連れて新しい言葉が増えていくことはわかるでしょう。

しかしそれをしなくても、今の日本語からも、この四つだけは特別だということが、文法的にも判断できます。

 

白、黒、赤、青には、色名に直接、語尾「い」をつけて、形容詞にすることができます。

すなわち「白い」「黒い」「赤い」「青い」という形になる、ということです。

しかし、他の色にはこういう使い方が(正しい日本語としては)ありません。

 

さらに、それを重ねて強調する副詞的用法があるのも、この四つの色だけです。

すなわち「しらじらと」「くろぐろと」「あかあかと」「あおあおと」という変形ですね。

 

ただ、形容詞となる色名は、実は他にもあります。

黄色い、茶色い、の二つです。

しかしこの通り、この二色は最初の四色と違って、形容詞になるためには「色」という語が必要となります。

 

それ以外の色、例えば緑、紫、水色、などの色名は、「い」で終わる形容詞とは成り得ません。

そういうところからも、黄色と茶色は、最初の四色の次に古い言葉だということがわかります。

 

では、最初の四色の語源は、どこから来ているのでしょう。

 

まず、赤からいきます。

 

「赤」は、「あかるい」と語源が同じだと考えられています。

「夜が明ける」の「あける」にも通じています。

 

では、その反対の色はというと、「日が暮れる」の「くれる」と、夜を表す「くらい」を語源とする言葉です。

つまり、これが「黒」になるわけですね。

 

おや?

赤の反対が黒?

白は?

 

白はどうなのかというと、「知る」「印(しるし)」「記す」などの言葉と語源と同じとするらしいです。

この言葉に共通するのは、「物事をはっきりとさせる」という意味ですので、「はっきりした色=白」というのが本来の意味である、と考えられているようです。

 

はっきりした色が白ならば、その反対は、最後の一つの「青」となります。

青は植物の「藍(あい)」と語源が同じで、そこから転用されたと考えられています。

 

なんではっきりしないと青なのか、その説明が書かれている文は見つかりませんでしたが、そのヒントは、日本語における「青」と「緑」の関係にありそうな気がします。

 

日本語では本来、「青」という言葉は、緑もカバーする広い意味を持っていました。

それは今でも「青葉」「青信号」「青リンゴ」などの使い方からわかります。

 

ということは、昔の日本語でいうと、山を見れば「青」、空を見ても「青」、海を眺めても「青」となってしまうわけです。

つまり、自然界に一番溢れている色が「青」ということになります。

 

ですから、着物を青く(または緑に)染めれば、それは目立たない色、つまりはっきりしない色、ということになるのでしょう。

だから、はっきりしない色は「青」なのだ、と。

 

それでは逆に、自然界において一番はっきりした色とは何か、と考えてみます。

 

色の中で、一番人間の目を引く「目立つ色」は、赤だと考えられています。

それは今でも、危険・注意を表す表示には赤が使われていることからわかります。

(私はこれに関して、赤は血の色だから本能的に危険信号として働くのだろう、と推測しています)

 

危険を表す色としては、黄色と黒という組み合わせなどもありますが、単色では、やはり赤が一番使われます。

赤信号や自動車のブレーキランプ、消火器、非常ボタンなど、見逃してはいけないものやとっさに見つける必要があるものは、必ず赤いはずです。

 

そこから、本来白を表す意味の「はっきりした色」という定義を、赤に転用するという解釈が生まれた可能性があります。

 

逆に、白の語源である「知る」は、「知識に明るくなる」ところから、「明るい=知る=白」となっていったかもしれない、とのことです。

 

白と黒を対とする使い方は、奈良時代には早くも登場するようです。

このころには、今の白と黒が確定していたのでしょう。

 

こういった言葉の逆転は、日本語においては他にも例があります。

 

有名どころでは、「すずむし」「まつむし」と「こおろぎ」「きりぎりす」が挙げられます。

これは、古くから続く言語ならではのトラブルだ、ということにしておきましょう。

 

では、次点となった茶色と黄色です。

 

茶色は、お茶で染めた布の色から来ています。

実際に飲むときのお茶の色はもちろん違いますし、茶の実の色(茶色ですよ)でもないんだそうです。

なあんだ。

 

黄色は、木色から来ていると思われますが、ネギ(葱=き)の食べる部分から来ているという説もあります。

これだけだとよくわからないのですが、ネギの芽の色である「萌葱色」、つまり黄緑色とも関係があると言われると、ああなるほどという感じがします。

 

それでは、緑という言葉はどこからかというと、どうも本来は「みずみずしい」という意味を持った言葉だったようです。

現在にも、赤ん坊を表す「嬰児(みどりご)」という言葉にその名残があります。

そこから転じて、若葉色=緑となったのでしょう。

 

以上に挙げた七色以外の色名は、全てが別の物の名前を転用したものだそうです。

紫色は「ムラサキ」という植物から、橙色は「ダイダイ」という柑橘から、灰色は灰から、などなど。

 

じゃあ朱色の「しゅ」って何? と思って辞書見たら、朱(しゅ)は音読みでした。

同じ意味を持つ良い日本語が無かったために、そのまま外来語を使ったのでしょう。

今でいえば、カーキやベージュみたいなものなのでしょうね。

 

ところで、色といえば。

子供が適度に伸びてくると、男の子は勝手に青黒い格好になってきて、女の子は目にまぶしいピンクを選び始めます。

どうしてなんでしょうねアレ。

 

→関連項目(?):味覚のお話

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ120 百匹目の猿(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.10号

 

疑似科学というものがあります。

エセ科学とも呼ばれています。

いかにも科学的な話に聞こえるが、実は科学的根拠は無い、という話です。

私はこういうものが大嫌いなので、この場では何度も何度も取り上げて糾弾しているのですが、この手のネタは、本当に次から次へと尽きることがありませんね。

 

ごく最近でも、マイナスイオンがあまりに叩かれたので、プラズマクラスターとかナノイーとか、色々と新しい名前を考え出しては怪しい商売に走り続けていますよ電器屋さん達は。

あと10年経ったら、きっとこれも一斉に無くなって、また新しいカタカナが登場するのでしょう。

 

ま、仮に百歩譲ってそういうものに除菌効果があるとしても、問題はそれが家庭で効果を発揮するかなんですけどね。

 

公式サイトやパンフなどにある「実験結果」では、空気中の菌を「99%抑制」とか「100%分解」とか、確かに書いてあります。

しかしそのデータをよーーく見ると、ペトリ皿に入れた菌だの45リットルの空間だの、何言ってんだこいつってレベルです。

 

ペトリ皿って、手のひらに乗る大きさですよ。

45リットル?

冷蔵庫だって200リットルくらいあるのに?

そんな微細な空間の菌が殺せたとして、だから何?

ところで、八畳間は40000リットルくらいあるわけですが、どうしてこういう空間で実験しないんですかメーカー様?

 

あと、プラズマクラスターの売りは、インフルエンザウイルスを無毒化することのようですが、インフルエンザって空気感染じゃなくて、飛沫感染なんですけど。

空気中のウイルスを無毒化したって防げないんですけど。

それに、普通は外でうつされるんですけど。

 

もっと言えば、東京大学が2009年から2010年までに行った実験では有意差が出なかったと、今年の初めに日本疫学会で発表してるんですけど。

 

……とまあ、こんな私ではありますが、それでも何年もの間、疑似科学ということに気づかずにいた「知識」というものも、たまにあります。

 

そのうちの一つが、今回お話しする「百匹目の猿」の話です。

 

「百匹目の猿」の話は、ご存じでしょうか。

こんな話です。

 


宮崎県串間市の幸島(こうじま)に、ニホンザルが棲息しています。

そのうちの一頭が、ある時、イモを海水で洗って食べることを発見しました。

すると、他の猿もこれを真似(まね)して洗うことを始めて、イモを洗う猿が増えていきます。

 

そうしているうちに、ある一定以上の数(例えば百匹)の猿がこの行動をするようになった時、この行動が群れ全体に一斉に伝わったのです。

しかもその時、そこから遠く離れた、大分県の高崎山に住んでいる猿の群れでも、突然この行動が見られるようになりました。

 

このように、ある行動、考えなどが、ある一定数超えると、これが接触のない同類にも伝わるという、不思議な現象です。


 

冷静に考えれば、あり得ない話です。

しかしこういう話というものは、子供の頃に聞いてしまうと信じてしまうんですよね。

 

私がこの話を初めて聞いたのがいつかは覚えていませんが、多分高校生以下だったはずです。

今の私みたいに、世の中にウソがあふれていることは知りませんでしたので、もっと素直だったのですよ。

ええ。

 

この話は、ライアル・ワトソンという人の著書の中で紹介されました。

 

この話が他の疑似科学と違ってやっかいな点は、この著者が、生物学者だってことです。

しかもご丁寧に、観察された具体的な地名まで書いてあって、論文の引用元もちゃんと書かれているのです。

もちろん、論文は実在するものです。

普通、そこまで書いてあれば、信用しちゃいますよね。

 

元ネタとなった研究は、地名からも分かる通り日本で行われました。

幸島でサルの研究を行ってきたのは、京都大学の今西錦司教授です。

この研究が画期的だったのは、同じ種類の動物の観察が同時に二カ所で行われて、地域差というものを見極めようとしたことでした。

サル群れの文化的構造がわかるとして、世界中から注目を集めていた研究でした。

 

野生のニホンザルの餌付けに成功した研究チームは、色々なエサを与えてみます。

その中に、サツマイモがありました。

サツマイモは、幸島には元々無かったもので、最初は興味を持った若いメスのサルがあれこれ工夫しているうちに、水で洗って砂を落とすことを発見します。

さらに、洗い水が海水だと、面白い味になることを発見します。

 

この、新たな「発明」は、同じ群れの同年代のサルも真似をするようになります。

さらに、その世代のサルが子供を持つと、今度は子供に「教育」することで、次世代に行動が伝わっていった、という話です。

 

しかし、元の論文によると、イモ洗いを始めた世代よりも上の世代は、最後までイモ洗いをしなかったそうです。

もちろん、空間を超えて高崎山まで伝わったなんて話はありません。

 

ライアル・ワトソンは、その語り口によって熱狂的な信者を多く作ったのですが、皮肉なことに、その嘘を暴いたのも信者でした。

ワトソンの提示する論文を調べてみたら、彼の言っているような内容はどこにも無かったのです。

そしてワトソン自身も、晩年にはその嘘を認めています。

 

ところが、一旦広まったこの手の「学説」は、もう止まらないんですよ。

あとで嘘だとわかっても、「嘘だった」という話は「発見された!」という時ほどは話題に上がりませんから、信じたままの人が残るんですよね。

 

かくして、嘘を書いて本を売った奴は勝ち逃げして、さらにそれを引用して嘘を広げる奴らが大量に現れ、その嘘は世に「定説」として残るのです。

 

嘘の内容によっては、それが政治的に使われちゃったりすることもあります。

実際に中国・韓国・北朝鮮の三国は、現在進行形で自国民を嘘で洗脳して、日本が悪いとか未だにやってますよね。

騙されちゃダメですよ。

 

とにかく、怪しい話はもとの情報源を辿っていくことで、真偽が確かめられるのです。

血液型で人格を決めつける人たちは、その話がどこから始まってどう広まったのか、一度「歴史」を調べてみることをお勧めします。

 

私の書いているこれだって、もしかしたらどこかに嘘が混ざっているかもしれません。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ153 アイスアイス(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2014.07号

 

いやー最近暑いですね。

暑いのでアイスの話でもしましょうか。

それとも季節柄、ウメの方がいいでしょうか。

ん?

どっち?

ウメ?

やっぱウメ?

ウメの方が好きだよね?

 

……ごめん。

アイスの話にします。

 

普段、アイスアイス言っている物には、ソフトクリームからガリガリ君まで全部含まれていると思います。

しかし、本当は色々と分類されているんですよね。

ご存じかとは思いますが。

 

メーカーで製造されて市販されているアイスには、種類別の表記が必ずあります。

「アイスクリーム」「アイスミルク」「ラクトアイス」「氷菓」

という4種類のアレです。

大抵は表側に、大きめの字で書かれているので、誰もが目に入っていると思います。

 

こういった表記は、どんな食品にでもあります。

しかし、大抵が裏側です。

なぜアイスに限って目立つように書いてあるのか、ちょっと不思議だったのですが、調べてみたら見つかりました。

どうやら、日本アイスクリーム協会による「公正競争規約」で、文字の大きさを自主規制しているようですね。

 

そんな分類ですが、先に挙げた4種類のうち、氷菓以外は、乳製品に分類されています。

そこから先は、乳脂肪や乳固形分の含有率によってグレードが決まっています。

 

具体的には、最も乳成分が多いのが「アイスクリーム」です。

次が「アイスミルク」、最後は「ラクトアイス」となります。

もちろん「アイスクリーム」が最もコクのある良い味を出す代わりに、最も高コストとなります。

高級路線のアイスを見ると、確かに揃って「アイスクリーム」との表示がありますね。

 

逆に、安いアイスは「ラクトアイス」の割合が高くなります。

ラクトアイスの場合、乳脂肪の代わりに植物性脂肪が使われることが多いので、見方によってはヘルシーとも言えます。

アイス食っててヘルシーもクソもないですが。

 

ところで、先に挙げたアイスクリームの公正競争規約ですが、よく読むと、結構細かいことまで決まっていることがわかります。

例えば、

 

「ラクトアイス」や「氷菓」では「ミルク」「MILK」の表示禁止

 

とか、逆に

 

「アイスクリーム」では植物性油脂の使用禁止

 

とか。

他にも、

 

「チョコ」と書くならカカオが1.5%以上入っていること

 

とか、

 

「最高」「ベスト」「一番」などは禁止

 

とか。

 

こういう業界ルールはきっと他の商品でも決まっていて、それをみんなで守っているから日本製は安心できるのでしょう。

 

逆に、そういう歯止めのない世界もあります。

例えば韓国ロッテ。

ロッテは元々韓国の会社ですので、当然韓国でもお菓子を売っています。

しかし、日本と同じ商品でも、中身が同じとは限りません。

※値段はほぼ同じ。


日本仕様


少し前までの韓国仕様


リニューアルしました! お値段同じ!


 

……それはともかく、暑い季節に冷たい物が食べたい、というのは誰でも考えることです。

その発想は古代からあって、記録上ではアレクサンダー大王が、乳や蜜などに山から運んできた氷雪を加えて飲んだという話があります。

今から2300年以上前のことです。

 

日本でも、平安時代には「削り氷」というものがあったと、枕草子に記録されています。

江戸時代には、富士山の雪を切り出して、江戸まで運んで将軍が食べた、なんて話を子供の頃に聞いたことがあります。

今回調べていくと、鎌倉時代にも、幕府に雪が献上されていたようですね。

幕府は途中で「富士山の雪の貢進は中止」なんて宣言しているくらいですので、雪は度々送られていたのでしょう。

 

同じ頃、マルコポーロが中国から「凍らせた乳」をヨーロッパに伝えたという話もありますが、まだ「アイスクリーム」よりも「シャーベット」などの氷菓が中心でした。

 

16世紀になると、イタリアでは人工的に氷点下を作り出す方法の発見によって、シャーベットのバリエーションが大幅にアップします。

そんな中、イタリアの大富豪(メディチ家)の娘が、フランスの王家に嫁いでいきます。

そして彼女がお抱えの料理職人や調理道具を一緒にフランスに持ち込んだ結果、フランスの貴族社会にも様々なシャーベットが伝わっていきました。

 

こういう文化の伝播方法は、ヨーロッパではよくある話だったりします。

チョコレートも、最初はスペイン王家の門外不出の技術だったのが、スペイン王女の嫁入りによってフランスに伝わって、そこから広まっています。

あすなろ97チョコレート

 

その後1720年、パリでホイップクリームを凍らせた、現在のアイスクリームの原型とも言えるようなものが登場しました。

 

一方アメリカでは、1851年、牛乳屋ヤコブ・フッセルが、余った生クリームの処理に困って、これを凍らせて販売することを思いつきます。

安価で量産したために、これ以降は一般庶民にもアイスクリームが親しまれるようになりました。

 

アメリカはこれ以降、アイス文化が大きく発展します。

1890年、チョコレートをかけたアイスを日曜限定で売り出す業者が現れ、ここからこのようなアイスがサンデーと呼ばれるようになります。

またアメリカは、1920年から「禁酒法」によってアルコール類が全面禁止されました。

そこで生き残りを図ったビール会社の多くはアイスクリーム産業に参入して、アイスクリーム業界はさらに急速に発展していきます。

 

日本においては、文明開化の明治2年、横浜で「あいすくりん」の製造販売が始まります。

鹿鳴館でも、フルコースのデザートにはアイスクリームが用意されていたようです。

 

大正時代にはアイスクリームの工業生産が始まり、後の雪印もこの頃に製造を開始します。

太平洋戦争時には製造が中止されますが、戦後は誰にでも始められる商売として、アイスキャンデー売りが登場します。

 

昭和30年、ホームランバー登場。

安い上に当たりクジ付きで、大ヒット商品となります。

今でも売っていますよね。

ただコレ、少なくとも私が中学生の頃までは、

 

安いのにちゃんと「アイスクリーム」のスゲエやつ!

 

だったのに、今ではいつのまにか「ラクトアイス」になっちゃっています。

ちょっと残念です。

 

平成元年、筑波大学生物学類の1年1クラスが、学園祭でどら焼きの生地とアイスを仕入れて、アイスどら焼きと名付けて販売します。

その後、地元のどら焼き屋では、いつからかアイスどら焼きという物が売られるようになります。

これは実話なのですが、ウチのカミサンは、アイスどら焼きを最初に売ったのは我々だ、ということを信じてくれません。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ206 グリム童話

あすなろ

 

 

 

2018.12号

 

小学生の頃は、漢字が好きでした。

 

漢和辞典を買ってもらったのは、小学2年生の時です。

以後、それは勉強机の上にずっとあって、たまに開いて眺めていました。

 

それをこじらせた結果、高校生から大学生にかけては、日常的に旧字体(旧漢字)を使うようになりました。

旧字体というのは、例えばこんなのです。

 


数学→數學

社会→社會

体育→體育

図書館→圖書館


 

こういう文字を、例えば学校の授業中にノートを取るときにも使っていたわけです。

乱の旧字「亂」は「マ・ム・ヌ」とか必死で覚えたり。

いやーアホですねー。

 

苗字なら、旧字体を見かける機会もあると思います。

例えば、沢辺さんが自分の名前を「澤邊」と書いたり、斉藤さんが「齋藤」と書いたり。

しかし、飯村さんが「飯村」と書いたり、近藤さんが「近」のしんにょうを点二つの「辶」と書いたりは見かけたことがありません。

先に挙げた斉藤さんも、旧字体の「藤」のくさかんむりは「十」が二つ横に並んだ四画で、下右の上部につく点「ソ」は「ハ」となるのですが、その形で書かれているのを見たことがありません。

 

地名と人名に関しては、別におかしいだの何だのと口を挟むつもりは全くありません。

しかしこのあたりの線引きが、端から見ていて不思議なんですよね。

 

なお、高島さんの「髙嶋」は、二文字共に旧字ではなくて「俗字」「異字体」などと呼ばれるものです。

このあたりもまた、どこから出てきた文字なのか、謎です。

 

さて、異字体はいいとして、そういった旧字体を使うようになったきっかけは、家にあった本です。

昔のパラフィン仕様の文庫本、「グリム童話集」です。

岩波だっけ?

 

もともと昔話関係が好きでしたので、父親が奥にしまってあったこれを本棚に並べた時には、嬉々として読み始めました。

で、この本が旧字体で記述されていたので、読みながら基本的な旧漢字を覚えられてしまったのです。

これが不幸の始まりか。

 

この本の内容は、もちろんグリム童話です。

しかし記述形式としては、ちょうど柳田国男の遠野物語のような本でした。

つまり、口伝を集めただけの資料的な書き方で、中には数行しかない話や、オチの無いような話も、そのまま書かれていました。

 

そうなんです。

グリム童話というのは、元々はグリム兄弟の創作した話ではないんですよ。

当時のドイツに伝わっていた話を集めたものなのです。

 

一応、グリム童話って?という方のために、代表作一覧を挙げておきます。

有名どころといえば、こんなあたりでしょうか。

 


オオカミと七匹の子ヤギ
ラプンツェル
ヘンゼルとグレーテル
灰かぶり(シンデレラ)
赤ずきん
ブレーメンの音楽隊
いばら姫(眠りの森の美女
白雪姫

 

※グリム童話と共に並べられるアンデルセン童話の方は、完全な創作です。

また、「遠野物語のような」と書きましたが本当は逆で、グリム童話の日本版が遠野物語だと思った方がいいでしょう。


グリム兄弟の本職は、言語学者で大学教授です。

兄の方は、ドイツ語の母音の上につく二つの点(「ä ö ü」の点)のことを「ウムラウト」と命名した人でもあります。

 

そんなグリムさん達が若い頃、恩師に頼まれて、民謡の収集を手伝ったことがありました。

その結果は一冊の本として刊行されているのですが、続編として童話集を出そうとしたとき、集めたネタを元の作者に送ったのに返事が来ない、音信不通、となってしまうことが起こりました。

だったらもう自分達で出しちゃおう、と出版したのがグリム童話、とされています。

 

その頃のドイツは、どうもそういう「民衆文化の収集」というのが流行していたようですね。

ナポレオンというフランス人がドイツを支配したために、ドイツの文化を守ろう、という風潮になっていたようです。

 

ただ、グリム兄弟はどうも、柳田国男のようには現地に足を運んでいなかったようです。

謝辞として、取材協力してくれた女性の名前を一人挙げているのですが、それなりに身分の高い人で、しかもフランス出身の人だったことがわかっています。

 

現在では、グリム童話のほとんどの話の取材源が、研究によって判明しています。

その結果、グリム童話の中のいくつかの話は、当時すでに出版されていた「ペロー童話集」との類似が指摘されています。

例を挙げれば、「長靴をはいた猫」「青ひげ」「赤ずきん」「いばら姫」「灰かぶり」などが、初版では同様の話がかぶっていました。

 

グリム自身もそれには気付いたようで、そのうちの「長靴をはいた猫」と「青ひげ」は、二版以降は削除しています。

 

ペローとは、フランスの作家・詩人です。

フランスの詩人の間では、民間伝承の昔話を詩にするのが流行っていたのですが、ペローはそれを子供向けに読みやすくアレンジしていました。

つまり、ペローの童話自体も、やはりどこからか集めた話でした。

 

要するに、グリムが聞いた話のネタ本があったからと言って、ニセ物とは言い切れないのです。

「ドイツ限定」という枠にとらわれなければ、グリム童話とは、

「当時ドイツ近隣で民間伝承されていた昔話の集大成」

なんて解釈もできると思います。

 

グリム童話の初版では、全156篇が収録されました。

その後は版を重ねる毎に話を増やしたり差し替えたりして、最終的な七版では全200篇になっています。

そこに至るまでには、当初の「研究資料」から「子供向け童話」へと性格を変えるべく、会話が増えたり描写が細かくなったり、逆に子供向けでない表現を削除されたりもしています。

 

さらに、二つの話を合成した例もあります。

有名な例では、「赤ずきん」のオチです。

元の話では、赤ずきんは狼に食べられて終わりでしたが、それを七匹の子ヤギのような終わり方にしたのはグリムです。

 

日本でも、似たような例はあります。

小泉八雲の「怪談」には、明らかに雨月物語と同じ話がありますが、あくまで筆者が聞いた話として、そのまま書いて出版されています。

(そもそも小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、雨月物語を知らなかったとは思いますが)

また、伝わる度にアレンジされた例では、日本書紀→万葉集→御伽草子と変遷していった浦島太郎があります。

 

でも口伝なんて、元々そういうものです。

当時流行していた都市伝説だと思って、気楽に読むのが正解だと思います。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ205 白村江の戦い(本編)

あすなろ

 

 

 

2018.11号

 

今回は、先月号「白村江の戦い(前史)」の続きです。

聖徳太子の登場する少し前、蘇我氏全盛期のころまでの話でした。

 

倭国(日本)は、過去に朝鮮半島の南部(伽耶)を支配していた時代があったものの、結局失われます。

これが562年ということですから、蘇我氏が台頭する少し前のことですね。

 

しかしその後も、倭国は百済と新羅に貢ぎ物を献上させていて、ある程度の圧力はかけ続けていました。

 

左は、倭国が朝鮮南部を支配していた頃の地図です。

朝鮮半島三国(高句麗/こうくり・百済/くだら・新羅/しらぎ)の位置関係は、こちらで確認してください。

 

(前回掲載の地図と同じです)



 

その後、チャイナは南北朝時代から隋、唐へと変遷します。

一方の日本は、聖徳太子の時代を経て、大化の改新が始まります。

 

当時の朝鮮半島は、百済と新羅が小競り合いを続けながらも、倭国にはそれぞれの王子を派遣して、忠誠を誓っています。

要するに人質ですね。

しかしこれは、強大な唐の侵攻に対して、いざとなったら倭国に協力してもらうためでもありました。

朝鮮半島の三国は、互いに侵略しながらも、倭国に対しては忠誠を誓う、という構図が続いていたわけです。

 

大化の改新は650年で一通りの改革を終えています。

 

その頃の新羅は、百済と高句麗から攻められ続けた結果、唐に忠誠を誓うことで援軍を頼ろうとしていました。

一方で唐は、高句麗を攻めても落とせないので、先に南方の百済から攻略しようと考え始めたようです。

 

倭国はといえば、630年に遣唐使を派遣することで、唐との関係もそれなりに良好に保ってきたようです。

どこの国とも対立しない、絶妙な外交が続いていたわけですね。

しかしこの不穏な半島情勢は伝わってきたようでして、朝廷内でも百済を助けるか、唐との関係を重視するか、どうも色々と揉めたようです。

651年には、新羅を討伐しようという進言も出されたが却下された、なんて記録もあります。

 

また、唐の状況を窺うためか、630年に一度行かせたっきりだった遣唐使を、653年・654年と2年連続で派遣しています。

もしかしたらこれは、唐と交渉をしに行ったのかもしれません。

 

その次の遣唐使は、659年でした。

しかしこの遣唐使は、帰国禁止措置を受けて661年まで帰れませんでした。

というのも、この時の唐は百済討伐の準備中で、それが倭国にバレないようにしたためでした。

 

そして、その翌年の660年、唐は大軍を派遣して、新羅と共に百済に攻め込みます。

そこからはたった半年ほどの戦闘で、百済王を降伏させて、百済は滅亡します。

唐軍がいかに強力だったかが窺えます。

 

しかし、唐の真の目的は、百済ではありません。

高句麗を後ろから攻めることです。

そこで、百済を滅ぼした唐の主力部隊は、次は高句麗戦のためにさっさと北上して、現地には新羅軍だけが残りました。

 

さて、百済という国は、国王が降伏した時点で敗北が決定しています。

しかし、首都以外にもまだ百済軍の城は残存していて、まだあきらめない百済軍は、国の復興を狙っていました。

 

先述したとおり、当時の百済は王子を人質として倭国に送っています。

今回はそれが幸いして、王子が無傷で残っているわけです。

ですからこの王子を擁立すれば、百済という国は復活するというわけです。

そこで、倭国にその旨の救援を依頼します。

 

当時の倭国の代表は、中大兄皇子でした。

皇子は、百済を助けるという判断を下します。

そして倭国軍は百済の王子を引き連れて、2年にわたって計3回の軍を出しました。

その結果663年には、南部に駐留していた新羅軍の駆逐に成功したのでした。

 

しかしそれに対して、唐は援軍を派遣します。

そして663年10月、白村江における戦いで、倭国軍は唐の大軍に大敗を喫します。

百済の王子は高句麗に逃げ込んで亡命しますが、少し後に高句麗もまた唐に滅ぼされました。

 

さて、中大兄皇子はここで、危機を感じます。

唐は朝鮮半島を確保したわけですので、そこをベースに倭国へと追撃してくる可能性があるからです。

そこで、上陸予想地点である九州北部には城を置いて、軍を駐屯させることにしました。

この拠点の管理機関が太宰府で、そこに常駐する兵が万葉集で有名な防人(さきもり)です。

 

さらに、唐とは戦争回避の交渉を続ける一方で、本土決戦に備えて都を奈良から琵琶湖畔に移転して、指揮系統をまとめるべくさらなる中央集権化を強行しています。

敗因の一つに、作戦・規律の統一なしに軍事行動を展開したこともあったからです。

 

当時の唐を敵に回すのがどれだけヤバいことだったかは、次の地図で理解できると思います。

黄緑色が唐の最大域です。



 

次に即位した天武天皇は、大宝律令を完成させると同時に、倭国を日本と改めます。

これは一説には、唐と交戦した倭国とは別の国だと主張するためだったとも言われています。

同時に、唐には改めて遣唐使を送って、国交正常化を目指したのでした。

 

この敗戦は、日本国存続の三大危機のうちの1つだったという人もいます。

あと2つは元寇と第二次世界大戦です。

 

唐には敗戦したのですが、日本は内政の大改革で危機に備え、外交努力によって乗り越えることができたのでした。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

 


―――参考資料―――



 

中大兄皇子/天智天皇

 

天武天皇(大臣無しで執務)