2018年11月

あすなろ204 白村江の戦い(前史)

あすなろ

 

 

 

2018.10号

 

30年前は高校生でした。

こんにちは。

 

30年経ったのですが、当時、小中学校及び高校で教えられていた授業内容は、今の内容と、基本的にはあまり変わっていません。

しかし所々で、やはり多少は内容の増減があります。私が習ったのに今は無い項目もあれば、私は習わなかった項目もあります。

 


――ちなみに、いわゆる「ゆとり教育」という指導内容削減は、私が小学生だった1980年度から始まっています。

つまり私は、ゆとり第一世代に当たります。

とは言っても、算数や数学を見る限りでは、現在の「脱ゆとり」世代よりも、我々の頃の学習内容の方が少し多かったようです。


 

その、私が習わなかった方の項目の一つに、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」というものがあります。

大化の改新以降の飛鳥時代、663年に起こった、朝鮮半島における日本と唐の戦いです。

 

結果は、日本の敗戦でした。

 

この内容を初めて教科書関連の資料で見た時は、

「日本が負けたマイナーな戦をわざわざ掘り出してきて、まーた自虐史観ネタか」

なんてことを思ったのですが、最近になってよくよく調べてみると、案外重要な合戦だったということがわかりましたので、今回はその説明を試みようか、なんて次第です。

 

まず、前提として、その背景からです。

 

日本は紀元前の古来より、朝鮮半島には度々攻め入っていたようです。

紀元前といえば弥生時代にあたるのですが、その頃にはすでにチャイナ(前漢)へ朝貢(貢ぎ物をすること)していて、大陸と「国交」があったようです。

もう一度書きますが、これは弥生時代の話です。

 

もう少し時代を下ると、古事記と日本書紀には、いわゆる「三韓征伐」といわれる朝鮮半島への遠征が書かれています。

 

この話については、インターネットでは日本書紀からの引用が多いようなのですが、手許には古事記しかありませんので古事記の内容を書き出します。

こんな話です。

 


仲哀(ちゅうあい)天皇の妻である神功(じんぐう)皇后は、神寄せをする人だった。

天皇が筑紫の宮から熊襲(九州)を討とうとしたとき、神寄せをすると

「西の方に国がある。

金銀などの多いその国を吾は与えよう」

とのお告げがあった。

天皇は

「高い所に上って西を見ても、国など見えない。海だけだ」

と言って、神事を中断してしまったため、神の怒りに触れて崩御した。

 

そこで宮内を清めてさらに神託を聞くと、

「この国は皇后の御腹にいる御子が治める国だ。

かの国を求めるなら、吾の御霊を祀った船で海を渡れ」

と言う。

 

そのお告げの通りに軍備を整えて海に出ると、大小の魚は船を背負って進め、追い風は船を運び、その波は新羅の国に押し上がって国の半ばまでたどり着いた。

国王はこれに恐れて、

「今後は馬飼として天皇に仕えます」

と言うので、新羅を馬飼、百済を渡海の役所として定めて、新羅王の門には住之江の神を鎮守として祀って帰った。

 

そんな中、御腹の御子が産まれそうになったが、それを鎮めるために石(鎮懐石)を使って、帰国してから出産した。

 

※ 以上、朝倉による意訳


 

へえー。神功皇后ってすごいですねー。

 

……ん?

なんか変ですか?

 

んまあ、確かにこれだけだと、「んなわけねえだろ」って話ではあります。

 

それに、「三韓征伐」って言う割には二国しか出てきませんでしたが、どうも日本書紀の方には、三国が出てくるらしいですね。

 

それはともかくとしても、これだけを読むと、荒唐無稽なただの神話です。

 

しかしチャイナ(宋)の記録や朝鮮半島に残された碑文によりますと、倭が半島の一部を支配していたこと自体は事実のようです。

ただ、その地域は、半島南部に限られていたようです。

次の地図の最南部「伽耶(かや)」が倭国の完全支配域で、百済(くだら)と新羅(しらぎ)が友好国、高句麗(こうくり)が敵対国、という構図だったようですね。

 

なお、朝鮮半島南部からは、西暦450~550ごろに作られた前方後円墳が十数基も見つかっていますので、倭国の支配は決定的だったようです。

手許の年表を開いてみます。

 


367 百済の使者が来る

倭軍出兵、百済と通交、半島南部を勢力下に置く

391 倭国出兵、百済・新羅を破る

397 百済、太子を倭国に質とす

400 高句麗軍南下、伽耶を攻撃

倭軍、帯方郡の故地に出兵、高句麗軍と戦う


 

ここで注目すべきは、394年に百済の太子、つまり王子を人質にとった、という記述です。

つまり、それだけの支配力を百済に対して持っていたということです。

 

しかし512年の頃からは、伽耶の一部を百済に与えたり、東よりの一部地域が新羅の侵攻に降伏したりと、徐々にその支配域を失っていったようです。

 

550年の頃からは、百済と高句麗と全面的に対立するようになったので、百済から倭国に対して救援要請が次々と来るようになります。

一説によると倭国に仏教が伝わったのもこの頃で、仏像や経典、諸博士が日本に来たのは、どうやら倭国に一層の軍事援助をしてもらうための貢ぎ物だったようです。

この頃にはまた、仏教関係以外にも医・易・暦などが伝来しています。

百済くん必死です。

 

結果、倭の援軍は得た百済でしたが、今度は国王が討たれて死亡します。

この混乱に乗じて新羅が伽耶の残り地域を占領したために、伽耶は消滅します。

562年のことでした。

 

これによって、倭・百済の連合と、新羅との対立が決定するわけですが、倭が新羅に対して、それまで伽耶(厳密には任那)から徴収していた分の調(租庸調の調です)を要求すると、新羅は送るとの約束をします。

そこで、朝廷としてはそこで満足することにして、以後は半島の直接経営を諦めたようです。

 

なお、当時の朝廷は蘇我氏の全盛期で、聖徳太子が登場する少し前のことです。

そしてここから100年くらいは、百済や新羅にはある程度の圧力をかけつつ、高句麗や隋・唐とは、それなりに平穏な付き合いが続きます。

 

紙面が尽きました。

続きは次回です。

白村江の戦いは、この話の延長上にあります。
 
続き
あすなろ205 白村江の戦い(本編)

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義