2023年1月

2023年度 入試結果

あすなろ

 
 

 
----------2023年度入試結果----------
(2023.03.08現在)
(合格数 / 受験数)


 
◆◆◆ 小学生:中学受験/受検 ◆◆◆
 
※ 全受験者数を書き出しています。

他塾との比較にご利用ください。

 
---茨城県立附属中学校・中等教育学校---
 
 
・下妻第一高等学校附属中学校
(倍率2.75=合格率36%)
→ 3/4( 75%)
 
・水海道第一高等学校附属中学校
(倍率4.33=合格率23%)
→ 2/2(100%)
 
・土浦第一高等学校附属中学校
(倍率2.96=合格率34%)
→ 0/1( 0%)
 
・下館第一高等学校附属中学校
(倍率2.18=合格率46%)
→ 0/1( 0%)
 
・古河中等教育学校
(倍率1.84=合格率54%)
→ 4/5( 80%)
 
 
県立中高一貫校計
(上記5校合計の倍率2.59

=合格率38.6%)

→ 9/13(69.2%)
 

 
 
-----私立中高一貫校-----
 
・茗溪学園中学校(AC:4.47倍)
→ 1/1(100%)
 
・土浦日大中等教育学校
→ 5/5(100%)
 
・常総学院中学校
→ 5/9( 56%)
 
・茨城中学校
→ 1/1(100%)
 
 
私立中高一貫校計
→ 12/16(75.0%)
 
---------------------
 
中学受験全合格率
→ 21/29(72.4%)

 


 
◆◆◆ 中学生:高校受験 ◆◆◆
 
・下妻一高 2
(受験生2人)
→この2人で、下妻中の1-2位独占を2回達成しました。
 
他、滑り止め私立
 


 

◆◆◆ 高校生:大学受験 ◆◆◆
 
---国公立大学---
・筑波大学 生物資源学類
・岩手県立大学 社会福祉学部
 
 
---私立大学---
・中央大学 商学部
・国際医療福祉大学 薬学部
・城西大学 薬学部
・明治大学 農学部
・東京農業大学 応用生物科学部
・東洋大学 法学部
・東洋大学 生命科学部
・千葉工業大学 先進工学部
・桜美林大学 健康福祉学群
・武蔵野大学 人間科学部
・文教大学 心理学部

 
 
 

以後、順次追加します。
 


 
その他の結果は、こちらをご覧ください。

合格実績 10年分

あすなろ160 凧

あすなろ

 
 
 
2012年02月号
 
 
 
すっかり年が明けました。
 
 
 
子供が通っている幼稚園は、
毎年一月になると、
「たこ揚げ大会」
が開催されます。
 
 
 
単にこれだけ聞くと、
園児が凧を揚げる
微笑ましい光景を想像するのですが、
 
違います。
 
違うんです。
 
 
 
冬休みを目前に控えたある日、
子供を幼稚園に送っていくと、
入り口で待ち構えていた先生に、
でかい紙袋を渡されます。
 
 
 
中身は、
たたんだ紙と、糸と、竹の骨。
 
 
 
「休み明けにたこ揚げしますので、
おうちの方で作ってくださいねー」
 
 
 
マジですか。
 
作るんですか。
 
 
 
というのが、
二年前のこと。
 
 
 
配布された袋には、
ダイヤ凧、角凧、六角凧の作り方が
ごく簡単に書いてある
「説明書」が入っています。
 
そこで、
一年目の年少組のときには、
一番骨が少なくて簡単そうな
ダイヤ凧を作りました。
 



 
できあがってから
試験飛行をしてみるのですが、
最初はあまり上手く飛びません。
 
どういうときには
どこを調整すれば解決するのか、
インターネットで色々調べてみました。
 
そうしたら、
作るときの注意点(左右のバランスなど)を
後から知ってしまって
少々後悔することになるのですが……
 
 
 
それはともかく。
 
 
 
そこからは何度も、
飛ばしては調整、
飛ばしては調整、
を繰り返しましたので、
本番ではそこそこ上手に揚がりました。
 
一応、用意された糸は、
最後まで使い切る程度の高さで
揚がり続けていました。
 
 
 
二年目。
 
 
 
年中組のときは、
角凧を作りました。
 



 
このときは、
あらかじめインターネットで調べまくって、
相当満足のいく出来になりました。
 
が、肝心の本番の日は、
凪。
 
歩くだけでどんどん飛ぶほど
よくできているのに、
立ち止まると徐々に落下。
 
ということで、
大して飛ばずに終わってしまいました。
 
 
 
そして三年目の今年。
 
 
 
今回は、
最後に残った六角凧に
挑戦することに決めていました。
 



 
しかーし、
この冬休みは予定がパッツンパッツンで、
凧を作るヒマが全くありません。
 
ほんとにありません。
 
年末は帰省必須。
 
帰ってきたらすぐお仕事。
 
結局、冬休みが終わるまで、
一ミリも手つかず状態でした。
 
 
 
そして本番の三日前、
作る時間が取れましたので、
超速で作り上げました。
 
今回はそんなわけで、
インターネットで調べているヒマなんてない
(自宅はネット回線未通)まま、
同封の「説明書」通りに組んで
テストフライトをしてみたわけですが、
いやこれがバランスが難しい。
 
 
 
それでもなんとか
マシに揚がるように調整して、
いざ本番。
 
 
 
揚がるには揚がるんですが、
なあんとなくイマイチ。
 
当日は
風が少し強すぎるきらいがあったので、
それを調整するために
揚げたり下ろしたりしているうちに、
 
他の凧の糸に引っかかって
相手の糸をぶっちぎったのが一回。
 
逆に他の凧にぶつかられて、
こちらの足をぶっちぎられたのが一回。
 
 
 
結局はその足切れが不調を招いて、
そのまま戦線を退くことになったので、
今回も糸を使い切らないまま
終了してしまいました。
 
 
 
そして後日、
「やっぱ角凧が一番バランスがいいのかなあ」
なんて何気なく凧作りのサイトを覗くと、
六角凧の作り方。
 
 
 
張り糸(凧本体に反りをつけるための糸)は
上下に二本つけて、
下の糸を強めにすると良い
 
とあります。
 
 
 
おや?
 
 
 
私が見た「説明書」には、
そんなことは書いてありません。
 
知らない私は角凧と同じように
上側に一本だけ張って完成。
 
 
 
違うじゃねえか……。
 
こんな逆バランスでよく揚がったな……。
 
 
 
でも考えてみれば、
これは凧の特性上、
当然なんですよね。
 
今更気づきますが。
 
 
 
凧は、
風を下方向に受け流すことで
揚がっています。
 
そのための工夫の一つが
「糸目」と呼ばれるものです。
 
凧に直接ついている糸を
糸目糸と呼ぶのですが、
その束ねた部分が凧の中心より
上側に来るように調節することで、
風を下に流すことができます。
 




 
この糸目糸も、
どの程度の長さがいいのか、
毎回わからないままで作っていました。
 
しかし今回、
試験飛行しながら理屈を考えているうちに、
やっぱり長い方が安定するんだろうなー
なんて思って、
少し長めに作り直したりもしたのですが、
私の作った糸目糸では
まだまだ短かったみたいです。
 
知らなかったよう。
 
 
 
また、ダイヤ凧や角凧は、
上半分の骨が多く、
下半分の骨が少なくなっています。
 
その結果、
上よりも下の方が、
強度が低くなっています。
 
凧は飛んでいる間、
風圧によって本体が変形するのですが、
下の強度が低いので、
下の方がより変形することで、
風が下に逃げやすくなります。
 
そんな理屈で、
凧はさらに効率よく
揚がるようになるわけです。
 



 

しかし六角凧は、
骨の構造に関しては
上下対称の構造です。
 
そこで、下に風を逃がすために、
 
下の横骨を細くするなどして
強度を下げたり、
 
下の横糸を強く張ることで
下半分の変形を高めて、
風を下に誘導する、
 
というわけだったのです。
 
そうだったのですか。
 
 
 
でもおかげさまで、
三年目に一番悔しい思いをしたので、
もう次は完成度の高いものを作れそうです。
 
 
 
んまあ、
幼稚園のイベントは終わりなのですが、
実は小学校でも、
親子イベントとして少しだけあるんですよねー。
 
 
 
ただ、小学校の方は、
いつも「時間が無い」という名目で、
凧の形だけ作って終わりなんですよね。
 
 
 
でもそれは、
今の私から見れば、
単に作業手順が悪いだけです。
 
ベテランとなってしまった私なら、
もっと手早く完成させられます。
 
 
 
ですからその日は糸を持ち込んで、
一人だけ超速制作しちゃって、
みんなが完成しないうちに
飛ばしちゃうのもアリかなー
なんて企んでいます。
 
あー楽しみ。
 
 
 
さらには、
凧の糸目やら強度やら、
はたまた材質やらを、
どう変えると飛び方がどう変わるか
なんて実験を、
夏休みの自由研究……
 
いや何でもありません。
 
今のは忘れてください。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
 


 
追記
2023年1月
 
 
 
これを書いた4年後。
 
小学校が統合して
別の学校となってしまったため、
凧作りは無くなってしまいました。
 
 
 
しかし、
最初に凧を作ってから、
ちょうど10年。
 
中2になった娘に、
学校から
「凧を作れ」
という宿題が出ました。
 



 
10年前、
私が娘に作った凧を
参考にしながら、
今度は娘が作ります。
 






 
教訓を生かして、
糸目糸は長く長く作ります。
 
 
 
そして飛ばしますが、
どうも上手く飛びません。
 
くるくる回ります。
 










 
さて、
どうしたものか。
 
 
 
二日ほど考えて、
凧を引く糸目糸を
増やしてみました。
 
 
 
普通、
ダイヤ凧の糸目糸は、
1本か2本です。
 
どこのインターネットにも、
そう書いてあります。
 
それを、

4本

にしました。
 
回ってしまうのは、
左右の片側だけ押されて
不安定になるからじゃないか、
と思いまして。
 



 
そこからは、
本人の飛ばす様子は
見られないまま
冬休みが終わったのですが、
 
飛ばしても、
回らなくはなったようです。
 
 
 
最初の制作から10年。
 
 
 
どうやら、
ようやく「完成」したようです。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ63 アムンゼン・スコット・白瀬

あすなろ

 
 
 
2007年1月号
 
興味の対象というものは、
人によって本当に違うものですね。
 
それに伴って知識の偏りというものも、
相当の個人差が生じるものだと感じることが、
何度もあります。
 
 
 
その領域も、人物でいうと、
私の場合は「探検家」に
詳しい方になるのでしょうか。
 
 
 
コロンブスやマゼランから始まって、
アジア探検のスウェン=ヘディン。
 
アフリカ探検の
リビングストンやスタンレー。
 
オセアニアからポリネシアを探索したクック。
 
果ては
「地球は青かった」
ユーリ=ガガーリンや
「この一歩は小さな一歩だが」
ニール=アームストロング船長……
 
 
 
このあたりの人物名は
自分としては
一般常識だと思っていたのですが、
どうやら違うようだと、
最近になってようやく気づいてきました。
 
 
 
しかしここは敢えて、それを承知で。
 
 
 
個人的には
是非知って欲しいと思っている話を、
ここで紹介します。
 
 
 
アムンゼンとスコット、
そして白瀬の、
南極探検の話です。
 
 
 
「初踏破」「初渡航」というものは、
国同士などで競い合うことがよくあります。
 
近年では1960年代に、
アメリカとソ連が
宇宙開発競争を
していたこともありました。
 
ソ連が有人飛行をすれば
アメリカが月到達の計画を発表し、
国の威信を賭けて成功させました。
 
 
 
しかし、いくら競争といっても、
これは年単位のものです。
 
同じ日にロケットを飛ばして
競争したわけではありません。
 
が、
南極点の初踏破を目指した
3人のチームは、
全員が同時に南極大陸に立ち、
争っていたのです。
 
それは1911~12年の夏
(南極では年末が夏)のことでした。
 
 
 
南極大陸に最初に上陸したのは、
イギリスのスコット隊でした。
 


ロバート・スコット
イギリス海軍大佐
1868-1912


 
 
 
スコット隊は、
イギリスが国の威信を賭けて
編成したチームで、
最新式の動力式そり(詳細不明)と
小型の馬、
牛革製の防寒具を用意していました。
 
しかもスコットは、
それ以前にも南極点を
目指して進んだこともあります。
 
とにかく、大国のバックアップがついた、
最強のチームだったのです。
 
 
 
スコットが上陸した地点は、
極からは少々遠い地点でした。
 
しかし、
イギリスは前々から
南極の調査を重ねていたので、
地の利がある箇所を
上陸地点に選んだようです。
 
 
 
次に上陸したのは、
ノルウェーのアムンゼンでした。
 


ロアール・アムンゼン
1872-1928


 
 
 
実はアムンゼンは、
北極点を目指していました。
 
彼はその数年前には、
ヨーロッパから北西に出発して、
北米の北を通って
ベーリング海まで出る航路を制覇しています。
 
なおベーリングとは、
この地を探検してここで死んだ
探検家の名前です。
 


ベーリング
1681-1741


 
 
そしてその後、
同じノルウェーの探検家で、
北極海を探検したナンセンから、
氷に潰されない画期的な船
「フラム号」を譲って貰っています。
 


 
ナンセンがフラム号に辿り着くまでの話も、
なかなか面白いです。
 

ナンセン
1861-1930

 
フラム号


 
 
 
次はいよいよ北極点、
というはずでした。
 
 
 
しかしその準備のさなか、
アメリカのピアリーが、
北極点到達を果たしてしまいます。
 
ピアリーもすごい人で、
最初の挑戦から局地到達まで
15年の歳月をかけています。
 


ロバート・ピアリー
1856-1920


 
 
 
それは
アムンゼンが出発を予定していた
前年のことでした。
 
 
 
そのころは、
イギリスが南極を目指す計画が
すでに発表されていました。
 
アムンゼンは
南極行きを密かに決意したものの、
当時の大国であるイギリスを
刺激しない方が得策だと考えます。
 
そして出航から2ヶ月たった後、
入港地にて計画変更を突然発表し、
すでに洋上にあったイギリス隊にも
電報を打ったといわれています。
 
 
 
イギリス隊が本国を出たのは1910年6月、
アムンゼンがノルウェーを出たのは
8月のことです。
 
対して、
日本の白瀬が東京を出発したのは、
すでに11月のことでした。
 


白瀬矗(しらせのぶ)
大日本帝国陸軍中尉
1861-1946


 
 
 
白瀬もまた、
子供の頃から北極を目指していましたが、
ピアリーに先を越されて
計画を変更した一人です。
 
イギリスの計画も聞いていましたので、
とにかく時間がない中で
準備を進めなければなりませんでした。
 
 
 
探検の費用は、
当初は国が出してくれる予定でした。
 
実際に、衆議院では満場一致で
補助金の支出が可決されます。
 
が、明治政府は結局、
まったく資金をだしませんでした。
 
白瀬は、
国民からの義捐金によって全てを準備し、
足りない分は
莫大な借金として背負ったままで
出発することになります。
 
 
 
白瀬が東京を出た頃、
スコット隊とアムンゼン隊は、
それぞれニュージーランドとアフリカを出て、
翌1月には南極に上陸を果たします。
 
しかし出遅れた白瀬は、
氷に阻まれたために
同じ夏には上陸を果たせず、
オーストラリアまで
一時撤退することになってしまいました。
 
そして同年11月に
南極大陸に向けて再出発、
翌1月16日にようやく上陸を果たします。
 
 
 
大陸上陸は、アムンゼン、スコットに
遅れること丸一年でした。
 
他の2隊は上陸後、
半年を費やして
現地で準備をしているのですが、
白瀬にはもう時間がありません。
 
そのまま極点を目指すことになりました。
 
 
 
しかし前進は思うようにならず、
1月28日に進行を断念。
 
その地を
大和雪原(やまとゆきはら)と命名し、
帰途についたのでした。
 


大和雪原における白瀬隊


 
 
 
栄光はなりませんでしたが、
一人の死傷者も出しませんでした。

 
 
 
さて一方、
それに先立つ前年の10月19日、
アムンゼン隊が基地を出発しています。
 
スコット隊は、
10月24日に先発隊が出て、
本体は11月1日に出発します。
 
 
 
しかし、スコット隊自慢の動力車は、
一週間後にはトラブルを起こして
行動不能となります。
 
スコットは馬ぞりで進行しますが、
馬の足は氷上進軍に向かなかった上に、
馬自体も凍死したり、
クレバスに落ちたりして失い、
最終的には人力で
そりをひいて進むことになります。
 
 
 
しかし一方、アムンゼンは、
北極海での経験を生かし、
犬ぞりとエスキモー服を用意し、
さらに前年から、
アザラシなどの肉をあちこちに
あらかじめ配備してありました。
 
その甲斐あって1911年12月14日、
遂に南極点に初到達します。
 


南極点におけるアムンゼン


 
 
 
翌1912年1月18日、
南極点に到達したスコットが見たものは、
ノルウェーの旗でした。
 
その下には小さな箱が埋められており、
箱の中にはアムンゼンの記録と、
スコットへの手紙が入っていました。
 
手紙には、
尊敬するスコットと争うことになった
苦しい胸の内が書かれていたと言われています。
 
 
 
また、近くには小さいキャンプが残され、
中にはスコットのために
食糧が残されていたということです。
 
 
 
スコットは失意の中を帰途につきますが、
途中で猛吹雪に阻まれて進行不能になり、
そのまま全滅します。
 
最後の手記は3月29日。
 
基地まで残り18キロのところでした。
 
 
 
一方、
白瀬は無事に帰国しましたが、
その後の生涯は、
ほぼ借金返済に費やされました。
 
完済までは、
20年をかけることになります。
 
 
 
RPGなどで、
よく「冒険」をするかもしれませんが、
これが、冒険の本当の姿です。
 
 
 
なお、白瀬という名は、
現在も南極観測船に
名を残しています。
 
名称を公募した結果、
圧倒的多数で
「白瀬」になったそうです。
 


南極観測船しらせ(初代)

 
しらせ(2代目・現役)


 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義