2019年4月

あすなろ209 何通りもの表現法

あすなろ

 
 
 
2019.03号
 
今回は、フェイスブックの塾ブログに寄せられた質問コメントから、その返答に相当する記事を書くことにします。
 
ネタ切れだからラクしちゃおう、ってわけじゃないですよ。

手抜きではありません。

いいこと? よく聞いてね? 手抜きじゃないからね?
 
……本題です。
 
寄せられたコメントは、こんなものでした。

(意味が変わらない程度に校正してあります)
 


子供ならきっと思う疑問、

「1つのことに色々な表現があるけど、どうしてそれを覚える必要があるのか?」

に答えられません。

例えば、

「使う」「使用する」「用いる」って表現があるけど、「用いる」まで覚える必要があるのか?

みたいな……

確かにその気持ちはわかるし、「用いる」って私も使ったことないな、と。

こういう子どもの疑問に、いい回答はありますか?


 
言葉の専門家みたいには詳しいわけではないのですが、わかる範囲で考えてみます。
 
日本語に限らず英語などでもそうですが、一つの事柄に対しての表現は、確かに何通りもあることが多々あります。

そして、大抵のものについては、我々はほぼ無意識に使い分けていると思います。
 
ただ、その使い分け方は、いくつか種類があると思うんですよね。

ちょっと思いつくままに、朝倉式に分類をしてみます。
 


①・微妙な意味の違いによる使い分け

②・使う主体(使う人)による使い分け

③・使う場面による使い分け

④・口語と文語による使い分け

⑤・趣味や好みによる使い分け


 
……んー。
 
こんなところでしょうか。
 
とりあえずは、ご質問いただいた「使う」「使用する」「用いる」を例に挙げてみます。
 
こういう言葉を調べる時は、普通の国語辞典ですと、どちらにも似たような説明があったり、説明がループしていたりする可能性があります。

こんな時は、「類語大辞典(講談社)」を使ってみようかと思います。
 


塾の国語辞典たち

ただし漢和と古語辞典を除く

……というつもりで並べたのですが、よく見たらベネッセのチャレンジ漢和が混ざっていました。

国語辞典にもそれぞれに特徴がありますので、引く言葉や説明する相手によって、使う順序を変えています。


 
最初に結論を言うと、この三つの言葉は本来、用法が少し違うものらしいです。
 
辞書からちょっと引用してみます。
 


使う

人が何らかの目的をもって物事を役立つようにする。
 
用いる

その機能や能力などを認めて、役立つように使う。

◇「お金を用いる」とは言わないように、消費物は対象としない。
 
使用する

物・場所・人などを使うこと。

◇対象となるのは、材料・薬品・規準・道具などで、消費物や意識は対象とならない。


 
……だそうです。
 
言われてみないと気付きませんが、確かにそういう違いはありますね。

でも言われると気付くと言うことは、いつの間にか無意識に使い分けているのでしょう。
 
これがまず、
 


①・微妙な意味の違いによる使い分け


 
にあたると思います。
 
また、同辞書の別のページ(※)には、「用いる」には「文章的表現」なんて注釈がありました。
 


類語大辞典は、似た意味の言葉を集めて並べるという編集をしています。

その結果、今回の「用いる」は、

「使う」の類語のページ

「採る」の類語のページ

「雇う」の類語のページ

という3カ所に掲載されています。


 
つまり「用いる」は、書かれた文章には使われるものの、会話には使われない言葉である、という意味です。

これが、
 


④・口語と文語による使い分け


 
です。

ここでは「口語=話し言葉」「文語=書き言葉」だと解釈してください。
 
しかしこれは同時に、
 


③・使う場面による使い分け


 
もあるように思えます。

「用いる」という言葉が持つ少々固いイメージが、書かれるシーンを選ぶことになるからです。
 
これについては、「用いる」よりわかりやすい、「使う」と「使用する」の例をあげます。
 
例えば、「使い方」と「使用方法」の二つの言葉を見て、どう思いますか。
 
全く同じ意味の言葉のはずなのですが、「使用方法」は子供向けの文にはあまり書かれませんし、専門家向けの道具の説明書に「使い方」なんて書き方は、まずされないと思います。
 
これが、「使う場面による使い分け」です。

よく小中学生の作文で問題になる接続詞「なので」も同じですよね。

「なので」は、公式の文書には完全に不合格です。
 
そもそも、文章というものには「場面による固さのグレード」と言えるものがあると思うんですよね。

同じことを言いたい文章でも、その固さのグレードによって、表現方法は何種類も使い分けられなければならないと思います。
 
私はよく、こんな感じの「くだけた文」を書いておりますが、「上司に報告する」「お役所に申請する」などのシーンでは、こんな文は書いてはダメでしょうね。

表現方法を替える必要があります。
 
しかし、どの程度でどの言葉を選ぶかは、
 


⑤・趣味や好みによる使い分け


 
もある程度は影響されます。
 
例えば長い文章を書くときは、接続詞を何度も使うことになります。

しかし短い間隔で、同じ言葉が何度も繰り返されると、少々「見苦しい文章」と感じられます。
 
↑今、「しかし」を近いところに2回使ってみました。

私ならば、こんな時は片方を「ところが」または「ですが」に入れ替えると思います。

入れ替えるべきか、そこまでする必要はないか、もしくは、入れ替えるとしたら何に入れ替えるか、という選択は、「趣味や好み」と言ってしまってもいいと思います。
 
最後に残った
 


②・使う主体(使う人)による使い分け


 
は、一番典型的なのは「オレ」と「アタシ」でしょう。

全く同じ物を指していても、使用者が違うだけで表現が入れ替わっています。
 
さて。
 
最初のご質問の回答は、まとめると
 


色々な表現を覚えるのは、表現の幅を広げるため


 
――てなところでしょうか。
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
 
 
 
……とムリヤリしめるつもりだったのですが、もうちょっと付け足します。
 
まず、さらに6番目として
 


⑥・時間的・空間的使い分け


 
があってもいいかもしれません。
 
ただしこれは、
 


⑤・趣味や好みによる使い分け


 
と区別が付きにくい場面もありそうです。

要するに、単に時代の流行だったり、方言や地方性だったりする場合のことです。
 
例えば、命令文の「~したまえ」という表現は、明治大正の文学には会話文としてよく登場しますが、現在では日常会話としては使われません。

これが時間的使い分けと言えるものです。
 
空間的の例としては「方言」がありますが、こちらの説明は不要かと思います。
 
ところが元来は方言として「空間的使い分け」だったものが、現在では
 


②・使う主体(使う人)による使い分け


 
となってしまったものもあります。

第一人称の「ワシ」と「オレ」がそうです。
 
「ワシ」は現在はどういうわけか、ちょっと偉そうなジイサンが自称するときというイメージですが、本来は単なる西の方の方言です。

ですからそういう地方では、おばあさんも自分のことをワシと呼びますし、若者もワシを使います。
 
また、よく「ワシ」とセットで使われる「~じゃ。」も同じで、地方によっては若者でも「それはワシのじゃ~」なんて普通に使います。

別にジジイ専用の言葉ではありません。
 
一方、「オレ」は現在、男性が自分を指すときに使われる言葉として知られていますが、こちらは本来は東の方の方言でして、やはり同じようにおばあさんも使う言葉です。
 
これに限らず、自分を指す言葉と相手を指す言葉については、日本語は非常に多くの種類があります。

その理由は、「相手を指す言葉は尊敬語、自分を指す言葉は謙譲語」として発展したからだと思われます。
 
敬語にはキリがありません。
 
日本人はいつの時代も「もっと丁寧な言い方」を求め続けて来ています。
 
普通に使われていて何も問題ない敬語があったとしても、さらにそれを上回る敬語を作り出すことで自分の丁寧さをアピールする、なんてことが、歴史上で度々起こってきました。

近年では、「こちらでよろしかったですか?」に代表される、謎の過去形がそうですよね。
 
江戸時代、「候(そうろう)」を使えば丁寧だとされた頃は、そのうちやたらに候を付けるようになっていきました。

確か川柳だったか狂歌だったかで、「候候とうるさい」みたいなものがあったはずです。
 
その結果、「そうらえどもそうろう」という二重の候が生み出されたり、手紙を書くときにもそうろうそうろうばっかり書くのが面倒になって、「まいらせそうろう」と読む文字が生み出されたりしています。
 


赤丸内が「まいらせそうろう」


 
これと同様に、もっと尊敬もっと謙譲……と求め続けてきた結果が、今のような人称代名詞のバリエーションにつながったのでしょう。
 
これは日本語だけの話ではありません。

英語でもあります。
 
英語を習っていて、「同じことを言うのに何通りも言い方があってウゼー」なんて思ったことはありませんでしたか。

しかし、教科書に書かれていないだけで実は、微妙に使い分けられていたりすることもあります。
 
例えば、「I want」という表現があります。

しかしこの言い方はガキっぽいので、ちゃんとした大人は「I'd like to」を使うのだそうです。

「I want」より、少しだけ遠回しな言い方(婉曲表現)となっているわけですね。
 
また、公式に使われる「固い文」では、「harder and harder」みたいな繰り返し表現や、「tik-tak」「ding-dong」のような擬音語は敬遠されます。

また、先程書いたしかしのような、近い位置で同じ表現の繰り返しが起こらないように、同じことを言いたい場合でも、できる限り違う表現で書かれます。
 
オトナに多様な表現が必要となる点では、英語も日本語も同じだということですね。
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義