2018年2月

あすなろ142 鳥のお話(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2013.08号

 

先日、我が家の四歳児に請われて一冊の本を買いました。
紙工作の本「NEOクラフトぶっく りったいとり館」です。

 

 

さて、それはいいのですが、できあがった鳥で遊び始めて、「白鳥ってなんて鳴くの?」と言われて困りました。
わたしゃ鳥はあまり詳しくないのです。

 

私の中の薄い知識に検索をかけてみたのですが、エサの取り合いをしているときに騒ぐ、ガーガー言う声くらいしかわかりません。
そこで、「確かガーガーいったと思った」と言ったのですが、四歳児様には、その鳴き方はお気に召さなかったようです。

で、結局は、「ハクハク」と鳴くということに決められてしまいました。

 

でも考えてみれば、ピカチュウがピカピカ鳴いてライチュウがライライ鳴くわけですし、それを思えば白鳥がハクハク鳴いてもいいか、ということにしておきます。

 

紙工作では、白鳥の前にはイヌワシを作ったのですが、イヌワシの鳴き声もよくわかりません。
ただ、鷲鷹類は一般にピーとかピャーとか鳴くことは知っています。
トビのピーヒョロロと同じ声です。

 

ですので、イヌワシもきっと同じように、ピーッと鳴くと思うよ、と四歳児にも伝えたのですが、もう既に人の話を聞いていない様子です。

まあいいんですけどね。

 

鳥に関してはですね、大学生の頃に一度、勉強したいなと思ったことはあるんですよ。
ですが、詳しい人を身近に捕まえられなかったために、結局その後10年くらい、そのままになってしまっていました。

 

しかし、その頃までは

 

「ウグイスの鳴き声を聞くと大興奮なマチの人」

 

だったのが、その後、家を買ったりするうちに

 

「ウグイスなんて聞き飽きたイナカの人」

 

となってしまいましたので、普段から鳥を見かける機会が増えて、少しはわかるようになってきました。

 

それでも、鳥は虫よりも難しいです。

 

虫ならば大抵、歩いていたり留まっていたりする様子を、顔を近づけてじっくりと見ることができます。
動きの速いトンボやチョウでも、網で捕まえてしまいさえすれば、図鑑と実物を並べて調べることができます。
網を張ったクモに至っては、一旦家に帰って図鑑を取ってから、また同じ場所に見に戻ってくることだってできます。

 

鳥は、そう簡単にはいきません。

なんせ近づくと逃げてしまいますから、遠くから目を凝らして見て、色などの特徴を必死で頭に叩き込んでおいて、ダッシュで帰って図鑑を開く、なんてことをしないと調べられません。
そんな状態ですから、なかなか見知った鳥が増えてこないのであります。

 

もう一つの難関は、鳴き声です。

 

私は、いわゆる鳴く虫が好きなのですが、実際にどれが何の鳴き声かは、図鑑を見てもわからないものが多いのです。
例えば、マツムシの鳴き声は図鑑では「チンチロリン」と書かれていますが、実際には「ピッピリリ」です。
クツワムシの「ガチャガチャ」は、「ガシャガシャ」と「シャカシャカ」と「シキシキ」の中間の音、といった具合です。

 

(こうやって鳴き声を日本語に書き落とすことを、「聞きなす」と言います)

 

そして、これは鳥も同じです。
「ホーホケキョ」のようなわかりやすいものならいいのですが、ホトトギスの鳴き声なんて、図鑑では「本尊掛けたか」「特許許可局」「テッペンカケタカ」ですよ。
それが実際に聞くと、「キョッキョッキョキョキョキョ」です。
どちらかといえば、「ホットットトギス」と鳴いていると聞きなすのが自然だと思うのですが。
 

 

そのホトトギスも、田舎に住み始めてから親しむようになった鳥です。
我が家の周囲では、家の上を飛びながら大声で叫んでいる声を聞くようになると、「ああ、夏も近いなあ」と季節を感じます。

 

ホトトギスは、季節限定で日本にやってくる「渡り鳥」の仲間です。
その中でも、ホトトギスやツバメのように、夏の間だけ渡ってくるものを「夏鳥」といいます。
逆に、ハクチョウのように、冬の間だけ日本にやってくるものは「冬鳥」です。

 

渡り鳥の中には、日本を通過するだけの「旅鳥」というものもいます。
シギなどのように、日本よりも北の地域で夏を過ごして、日本より南の地域で冬を過ごすために、旅の途中で立ち寄る連中です。

 

渡り鳥以外でも、移動をして暮らしている鳥は多いようです。

 

例えば、ウグイスやヒヨドリは、一年中日本国内で見られます。
しかし、暑い季節には山の方へ、寒い季節には平地へと移動して暮らしています。
こういう鳥は、「漂鳥」と呼ばれています。
これに対して、カラスやスズメのように、年中同じ場所で見られる鳥は、「留鳥」と呼ばれています。

 

 

ただ留鳥でも、地域によってはあまり移動しなかったりしている場合もありますので、「漂鳥または留鳥」という記述も多く見かけます。
また、留鳥といっても、その場に同じ鳥たちが留まっているとは限らないようで、ある程度の移動をしている場合もあるということです。
新潟で足輪を付けたスズメが、岡山で回収されたこともあるとか。

 

と、こんなことをウェブで調べていたら、ハクチョウの鳴き声を見つけました。
今はyoutubeなどがあるから便利ですよね。
聞いてみると、ああこれかって感じです。
なんというか、ガチョウのような声です。

 

早速、四歳児に聞かせてみました。

 

「めえめえだ」

「ひつじ」

「ひつじのなかまだ」

 

今日から、ハクチョウはヒツジの仲間です。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義


関連記事:あすなろ201 鳥の名の由来
→ホトトギスの名前などの話を、もう少しつっこんで書いています。


あすなろ150 イソップ(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2014.04号

「うさぎとかめ」ってご存じですよね。

 

日本人にとっては、「遅い動物=カメ」という共通認識を定着させるほど身近な話(注:西洋人にとっては、遅い動物=カタツムリです)ですが、これがイソップ童話と認識している人って、どのくらいの割合でいるものでしょうか。

 

日本の歴史も古いですので、昔話の歴史も相当長いです。

 

例えばかぐや姫(竹取物語)の話は、遅くとも平安初期の10世紀には成立していたと考えられています。

それ以外の代表的な昔話(さるかに、かちかち山、花咲じいなど)は、室町時代には完成していたようです。

桃太郎と浦島太郎に至っては、元ネタが神話ですから、古事記の完成した712年には、すでに日本のどこかに伝わっていた話です。

つまりこの2つは、1300年以上前からあった話だということになります。

 


古事記とは、日本各地に伝わる神話を一本化したものだと思ってください。

古事記の中には多くの神が登場しますが、一つの神に対して「またの名は○○といふ」と複数の名前が書かれていることがよくあります。

これは、別の地域で信仰されている別の神を同一の神として扱うことで、一つの流れに組み込んでいるためと思われます。

なお、神話と言えば日本書紀という書物もあります。
中に入っている話の内容もほぼ同じなのですが、こちらは
「だから天皇には日本を治める正統性がある」
と「証明」するための「論文」です。


 

これに対して、イソップ童話の作者といわれるイソップは、紀元前6世紀の人です。

現在は21世紀ですから、ということは、今から2600年くらい前のことです。

古事記では到底勝てそうにない古さです。


(6+21=26? さあ何故でしょう)


イソップさんは、元々はある主人に仕える奴隷だったそうです。

しかし、主人の行動に対して、

「これはこうした方がいいですよ。何故なら~」

と語る例え話が秀逸だったので、後に、その例え話(寓話)を集めたのがイソップ童話の原型だったようです。

 

と、ここで一応注釈しておきます。

 

奴隷という言葉を使いましたが、一言で奴隷といっても、様々な形態がありました。

奴隷と聞くと、足首の鎖に鉄球とムチなんて連想をするかもしれませんが、実際にはそんなものばっかりとは限りません。

借金、敗戦、犯罪などで売られた身分というだけで、労働内容は賃金で雇われた人と同じ、ということもよくありました。

 

また一般市民にとっては、高価な農機や自動車を買って使うようなものだったようです。

もちろん維持費がかかるのは当たり前ですし、大金を出して買った物ですから、荒っぽい使い方をして壊れてしまっては元も子もありません。

 

農耕馬のようなものと考えてもいいでしょう。

昔の農家では、馬や牛が大事な労働力で、家族同様に暮らした人もいる、ということを考えれば、家族同様に過ごした奴隷がいても変ではないということが、おわかりいただけるかと思います。

 

今回のイソップも、たびたび主人に意見していたようですし、主人もイソップの意見を参考にしていたようですから、この主従関係も良好なものだったのでしょう。

少なくとも、よく漫画などで見かける
 
「待ってください! この人は熱があるんです!」
 
「ええいうるさい! ビシッ!」
 
「ああっ!」バッタリ。
 
「フン。死んだか」
 
なんてイメージにはあたらない、ということです。

 

というように、イソップさん自体は実在の人物なのですが、その話が全てイソップ作のものとは限らないようです。

どうも、その周辺に伝わっていた様々な話を、あれもこれもイソップ伝説にしちゃった、というようなこともあったみたいです。

 

ただ、これは別に珍しいことではありません。

例えば、「一休さん」というテレビアニメの元ネタの大半が、実際には「彦一とんち話」を初めとする古今東西の話の引用だった、なんてこともありました。

もちろん、一休禅師は実在の人物なんですけどね。
※一休さんについては、こちらに詳しく書きました。

 

ともかく、そんなイソップ童話ですが、あまりにも日本にとけ込んでいて、まるで日本の昔話のような気がしてくるものまであります。

イソップ童話の中では、以下に挙げるあたりが有名どころかと思いますが、それぞれのお話を想像できますか?

 

「アリとキリギリス」

「田舎のネズミと街のネズミ」

「犬と肉」

「ウサギとカメ」

「オオカミと少年」

「北風と太陽」

「黄金の卵を産むガチョウ」

「キツネとツルのごちそう」

「金の斧と銀の斧」

「3本の棒」

「すっぱいブドウ」

「ネズミの相談」

「卑怯なコウモリ」

 

......もちろんまだまだあります。

 

このうち「3本の棒」は、毛利元就の「3本の矢」と、ほぼ同じ話です。

また、「ネズミの相談」は、誰がネコに鈴を付けるか、の話です。

ここから、「鈴を付ける」ということわざ?慣用句?にまでなっていますよね。

「オオカミ少年」は言わずもがなです。

 

では、なぜこれほどまでに日本に定着しているかというと、イソップ物語が最初に日本に伝わってきたのが、秀吉の時代にまで遡るからなのです。

その後の江戸時代には、翻訳本が庶民の読み物として多数出回っていました。

その名も「伊曾保物語(いそほものがたり)」です。

さらに、明治の初期にも新たな翻訳本「通俗伊蘇普物語」が登場して、しかもそれが修身(現在の道徳)の教科書に採用されたので、そこからは、ますます日本人におなじみとなったのです。

 

ところで、「伊曾保物語」は、およそこんな感じの本でした。

私が持っている「絵入り伊曽保物語を読む」という本からです。

 

 

上が「京都の鼠と田舎の鼠」、下が「鼠、談合する話(ネズミの相談)」です。

 

うん。

どう見たって日本の昔話ですね。

 

なお当時は、「いろはかるた」にも「京の夢大阪の夢」「京に田舎有り」とあるように、都会=京都でした。

 

また、伊曾保物語にはイソップ自身の話もいくつかあるのですが、そこにはイソップ本人も描かれています。

それがこちらです。

 

 

ほら、右上の枠内にちゃんと「いそほ」って書いてあります。

お、よく見ると帯刀していますね。

ということはつまり、いそほさんは江戸時代、ギリシャのお侍だったということですね。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ149 味覚のお話(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2014.03号

 

「しょっぱい」ですか?

「塩辛い」ですか?

塩味がきついときの表現です。

 

どうも関東近辺の方は、ほぼ「しょっぱい」のようですが、私が育った愛知県では、「塩辛い」もしくは単に「からい」でした。

 

そういうわけで、家でも塩が強いときに思わず「からい」など言ってしまうわけですが、そういうことを言うと、カミサン(神奈川出身)に「え~?」などと反発されてしまうわけです。

 

ですが少々言わせていただきますと、「しょっぱい」という言葉は、日本語においてはいわゆる俗語(=話し言葉)にあたります。

ですから、公式文書に使うには少々くだけすぎていますし、実際に使われません。

同じ意味の言葉を使うとしたら「塩辛い」か「塩味が強い」あたりでしょうね。

 

そう考えると、「しょっぱい」は方言の一種だと言ってしまっても、大きく間違ってはいないと思います。

逆に、「塩辛い」の方が主流の言葉なのです。

わかったか。

 

と思って調べたら、「しょっぱい」は、やっぱり関東の方言となっていました。

標準語ではないそうです。

わかったか。

 

私としては、「からい」という言葉は本来、漠然と「味の刺激が強い」という意味だったのではないか、と考えています。

関東基準でうっかり判断すると、

「辛い=唐辛子・胡椒・山葵(わさび)などの味」

つまり「ピリ辛」ということになるのでしょうが、それだけの解釈では、「辛口の酒」という言葉が説明できません。

 

この例からも、本来は、「ピリ辛」以外の意味も含む言葉だと、おわかりかと思います。

同様に、炭酸が強いことも「からい」と表現できますよね。

 

日本語は古い言語ですので、他にもこのような言葉があります。

例えば、「青」という色と表す言葉は、「緑色」という意味も含んでいますよね。

これも、元々は「あお」が広い意味を持つ言葉だった名残で、「からい」と同じでしょう。

 

「あお」という日本語は、元来は

『明るい色(白・赤)と暗い色(黒)以外の中途半端な色』

を表す言葉でした。

ですから、グリーンもブルーも、日本語では「あお」なのです。

その後、「若い」という意味を持つ「みどり」を若葉の色に当てはめて、「緑色」という言葉ができました。

(→色のお話

 

ところで、「からいの反対はあまい」と、子供の頃は考えていました。

子供の皆さんは、実際にそう考えている方がほとんどでしょうし、大人の皆様も、大抵はかつてそう思っていたと思います。

後に、自分で色々と調理をするようになってからは、経験的にそれは間違いだとわかってきます。

しかしなぜこう考えてしまうのかというと、それもどうやら、日本語そのものに原因があるようです。

 

日本語では、味覚という枠を超えて「からい」という言葉を使うとき、「厳しい」という意味になります。

それに対する言葉は「あまい」です。

「評価・点数が辛い/甘い」といったあたりでおわかりかと思います。

 

決定的なのが、カレーの「甘口/辛口」という表示でしょう。

これを見た子供は、疑いなく「あまいの反対はからい」と解釈するでしょうし、「塩が多い時は砂糖を足せばいい」などと思ってしまうわけです。

でしょ?

 

でも現実には当然、味が混ざるだけで打ち消されることはありませんよね。

 

その理由は実に単純で、一つには、食塩(NaCl)と砂糖(ショ糖C12H22O11など)の水溶液を混ぜても、化学反応が起きないことです。

混ぜても塩は塩のままなのです。

 

そしてもう一つは、舌がそれぞれの味を感じる時は、「塩味用の受容体」「甘味用の受容体」というように、別の部品を使っているからです。

つまり、塩と砂糖が入っていれば、両方のセンサーが反応するので、両方の味を感じるわけです。

片方が多いともう片方が反応しない、ということは起こりません。

 

人間の舌には、その他に少なくとも三種類の味を感じるセンサーがついていまして、それぞれ「苦味」「酸味」「うま味」を感じることができます。

そして、そんな五種類のセンサーが一セットになった部品を味蕾(みらい)といいます。

人間の舌には、約10000個の味蕾がついているとのことです。

 

ここで、味蕾の感じる味をもう一度見てみましょう。

すなわち、「塩味」「甘味」「苦味」「酸味」「うま味」の5種類です。

 

――「辛味(ピリ辛味)」がありません。

 

実は、生理学的には、辛味は「味」とはいえないものなのです。

これは、味蕾とは別のセンサーによって感じられて、「痛み」として伝えられます。

人間は、この刺激を他の味と混ぜることで、「辛味」と感じています。

 

この辛味用のセンサーは、舌以外の皮膚にもついています。

唐辛子スプレーが目に入ると激痛を感じますし、皮膚に触れてもピリピリとした痛みを感じます。

また、タイの激辛料理には、唇まで熱く感じるものもあります。

このように、辛味は舌以外でも感じられる感覚ですので、味覚とは呼べないようです。

 

また、味の種類の中に「うま味」なんてものも入っています。

この名前だけを見ると、「うまいかまずいかの基準」みたいな響きがあって、私も昔これを初めて聞いたときは、「またバカ科学か」と思いました。

ですが本当は、そういう意味ではありません。

 

これは、強いて言えば「アミノ酸の味」、つまり平たく言うと「だし味」のことです。

 

この味に関する研究は、昔から日本がずっと最先端でした。

理由はあります。

 

日本料理では、食材とは別に「だし」を取ることがあるために、日本人は「だしの有無で味が変わる」ということを経験的に知っていました。

しかし西洋人は、味が足りないときには肉やチーズなどの、だしがよく出るものを入れてしまうので、「だしそのものの味」があるとは信じられなかったのです。

 

日本の研究者は、うま味の正体の追究を続けて、昆布などから「うま味の素」を取り出すことに成功します。

1908年のことでした。

これがいわゆる「化学調味料」「アミノ酸等」で、商品名でいうところの「味の素」です。

「うま味」という呼び方は、このときにつけられました。

英語圏には無かった言葉ですので、今でも英語でumamiと書きます。

 

そして2000年、このうま味を感じるセンサーを味蕾に発見したのも日本人です。

舌に専用センサーがあるとわかったので、これ以降、うま味は味覚の一つと認めらています。

 

そうそう。

 

今回調べていって発見したのですが、味覚に一番敏感なのは中学生くらいの年頃なのだそうです。

ですから中学生は、今後の人生のためにも、うまかったものの味をよく覚えておくといいかと思います。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ番外編 祝辞とか挨拶とか(再掲)

未分類

今回は、私が過去におこなった挨拶(祝辞・謝辞)のお話です。

年が明けるとすぐに年度末ですね。
教科書の残りページを見る度に、
卒業や入学シーズンが近づいてきていることを実感します。

 

入学式や卒業式に出る度に思うのですが、
決まって行われる「祝電代読」と「保護者代表挨拶」は、
二大眠くなるタイムだと感じています。
特に祝電の市長挨拶。
あれもっと短くならないものでしょうか。
校長の挨拶は聞いていて面白いこともあります。
でも保護者代表挨拶は、どうしても無難な定型文になりがちですので、
申し訳ないですけどつまらないです。
すみません。

 

さて、私は自分でそう思っていますので、自分で挨拶をする際には、
少しでも「眠くならない挨拶」を目標に文を作成しております。
実はこれまでに、

 

幼稚園卒園式の保護者代表挨拶を1回
小学校入学式の保護者代表挨拶を2回
中学校入学式の保護者代表挨拶を1回

 

やっております。
小学校卒業式のPTA会長挨拶
なんてものも経験しております。
さらに、上記とは少々違うかもしれませんが、
卒園後の謝恩会での挨拶も1回やりました。
こちらは思いつくまましゃべっただけですが。

 

でも私も最初は、何を言ったらいいのかわからなくて、
ネット検索で色々と参考にさせていただきました。
その恩返しも含めて、私が実際に行った挨拶を、ネットにあげてみようと思います。

 

ただ、私の挨拶は上記の理由により、
結局あまり普通じゃない挨拶に成り果てておりますので、こんなのを参考にするよりは、
別にネット検索した方が確実で堅実かもしれません。

 

でもネットで引っかかるのって、内容がつまんないんですよね。
眠くなるんですよ。
それもありまして、こんなのもあるのかというつもりで、まあ読んでみてくださいませ。

 

ただし、重ねて書きますが、定型文や例文としてはあまり期待しないでください。

 

古い順に出していきます。

 

 

1.H21小学校入学式 保護者代表挨拶


新入生保護者代表挨拶

 

暖かくゆるむ気候の中、ウグイスの鳴き声も聞こえる、
筑波の春がやってまいりました。

 

わが家でも、先月頃から家の中で、
意味もなくランドセルをかついでうろつく子供の姿が見受けられ、
すっかり春を感じておりました。

 

名前を書こうとさんすうセットを用意すれば、早速部品の整頓を始め、
名前を書けばあと何個とせかし、そんなに急がせると字が曲がるぞと
言いたいところを我慢する、そういった春が、
わが家の他にも十何軒ものご家庭に来たことでしょう。

 

そんな皆様達と一緒に、今日から菅間小学校の一年生となれることに、
この上ない喜びを感じております。

 

わが子がもう小学生になってしまっていいものだろうかと思いながらも、
アルバムを見返してみれば、いつの間にか随分成長していました。

 

思えば、わが子が産まれた頃はまだイラク戦争の開戦前で、
朝青龍も横綱になっていませんでした。

 

つい昨日のように思えるあの頃からも、随分と時が経っていたことを、
今更ながら実感しております。

 

子供達はこれから六年間、この菅間小学校に通うことになります。

 

六年間という時間は、これまでの子供達の人生に匹敵する長さです。

 

この小学校を卒業する頃には、わが子達がどこまで成長しているのか、
全く想像がつきません。

 

教員の方々の指導力に、心から期待しております。
よろしくお願い致します。

 

同時に、上級生の皆様にもご迷惑をおかけすると思いますが、
正しき指導を期待しております。

 

特に六年生は、わが子等がよちよち歩きをしていた頃から小学生一筋に打ち込んできた、
いわばベテラン小学生です。
何もわからない一年生ですが、よろしくお願い致します。

 

最後に、この緑多き地理、及び少人数のすばらしい教育環境に感謝しつつ、
もう一度皆様に感謝申し上げることで、新入生保護者代表の挨拶と致します。

 

平成二十一年四月七日
新入生保護者代表 朝倉智義


 

2.H24小学校運動会 PTA会長挨拶(原稿なしでしゃべったので内容だけ)


<最初に今日を迎えたことに対する学校・保護者の方々・地域の方々に謝辞>

 

さてみなさん、今日は良い天気になりましたが、三日ほど前は雨でしたね。

 

よく、日頃の行いが良いと晴れるなんて言いますので、
雨を見て「だめじゃん菅間」なんて思ったのですが、見事今日に間に合いました。
実によかったです。

 

ところで、春の天気というのは、数日ごとに晴れたり曇ったりするものです。

 

中学校で習うのですが、移動性高気圧とかなんとかのために、
元々、晴れと雨を繰り返すものなんですね。
ですから、今日が晴れに当たったのは、本当に偶然で、
皆さんは実に運がいい!

 

......いや、運が良いんじゃなくて、日頃の行いが良いんでしたね。
大変失礼しました。

 

本日は、皆様の活躍を心より楽しみにしております。


 

3.H25小学校卒業式 PTA会長挨拶


祝辞

 

梅が満開の花をつけています。

 

今年もまた、筑波の春がやってきました。

 

卒業生の皆様、ご卒業おめでとうございます。
そして保護者の皆様、本日は誠におめでとうございます。
また本日まで、PTA活動にご協力いたヾだき、ありがとうございました。
地域の方々にも、大変お世話になりました。
この場を借りて、深くお礼申し上げます。

 

さて、卒業生の皆さん。

 

思えば君達は、これまでの十二年間の人生のうち、その半分にあたる六年間を、
この菅間小の児童として過ごしてきたことになります。

 

よい六年間を過ごせましたでしょうか。

 

今日から、さらに六年間が過ぎたころには、もう高校卒業です。
またさらに六年後は、恐らく立派な社会人となっていることでしょう。
そのころの君達は、どんな大人になって、どんな社会を生きていることでしょうか。

 

世界では、「二十世紀は日本の世紀だった」と言われているそうです。

 

世界の片隅にあった日本という小国が、あっという間に世界の列強へと名を連ねて、
世界中を相手に戦って、植民地時代を終わらせたのが、
二十世紀前半という時代でした。

 

そして、その戦争で徹底的に叩き潰されたはずだったのに、
今度は技術と経済で、また世界を席巻したのが、二十世紀後半。

 

そんな激動の二十世紀が終わり、二十一世紀へと変わる頃、君達が生まれました。

 

これから、日本はどういう歴史を作っていくのか、日本は世界をどう変えていくのか、
それは、君達次第です。
君達が、日本の歴史を作り、世界を変えていくのです。
日本には、その力があり、君達にはその力があります。

 

君達の今後の活躍に、心から期待しています。

 

最後になりましたが、今日のこの日まで、
この素晴らしい教育環境を整えてくださいました校長以下諸先生方に、
深い感謝を申し上げて、私の祝辞といたします。

 

平成二十五年三月十九日
菅間小学校PTA会長 朝倉智義


 

4.H27幼稚園卒園式 保護者代表挨拶


卒園生保護者代表挨拶

 

暖かく緩む気候の中、筑波山では梅が咲き、すっかり春めいてまいりました。

 

今日、この良き日に、ここに並ぶ十四人の子供達は、
小友幼稚園を卒園することになりました。
これまで、園長、副園長を始めとする、幼稚園の先生方には、
大変お世話になりました。
心よりお礼を申し上げます。

 

今日の謝恩会のために昔の写真を見返してみれば、
ああそういえばこんな顔だったよなあ、などと、
現在との違いに驚き、成長を実感しております。

 

思えば、わが子が生まれた2008年は、北京オリンピックの年でした。
百メートル走でボルトが驚異的な記録を出した、あの年です。
いつの間にか、随分と時間が流れていたことを、改めて感じております。

 

あの頃から今まで、わが子の写真を見ながら、
大人になったらどういう顔つきになるのだろうと、何度も想像してきました。
が、現在の、前歯が何本も抜けた顔は、さすがに考えてはいませんでした。
これもまた良い思い出になるのでしょう。

 

入園当初は、周りのお友達がみんな優秀に見えて、
ウチだけダメかもなんて不安に思っていたものでした。
しかし、先生方のご尽力により、様々なことを覚えて、様々な技術を身につけました。
精神的にも、随分と成長を遂げることができたようです。
重ね重ね、お礼を申し上げます。

 

おかげさまで今では、ランドセルをニヤニヤしながら出してきて、
ふたを開けて中を覗いて、なにやら入れてふたを閉めて、また開けて中を覗き込んで、
という多忙な休日を過ごしているようです。
言うまでもありませんが、その満面の笑顔に、前歯はありません。

 

さて、今年の卒園生は、四月からは、夫々が夫々の小学校に進学することになります。
寂しくないと言えば嘘になりますが、この小友幼稚園がある限り、
またいつでも仲間達とは集まれるでしょう。
この幼稚園を心の拠り所としながら、新しい小学校生活を楽しんでいこうと考えています。
ゆり組さん、すみれ組さん、小友幼稚園をよろしくお願いいたします。

 

最後に、この幼稚園のすばらしき教育精神に感謝しつつ、
もう一度皆様に感謝申し上げることで、卒園生保護者代表の挨拶といたします。

 

平成二十七年三月十八日
卒園生保護者代表 朝倉智義


 

5.H27小学校入学式 保護者代表挨拶


新入生保護者代表挨拶

 

桜が舞い散る中、ウグイスも鳴き、筑波の里には、今年も春がやってまいりました。

 

我が家におきましても、前歯のない子供が一人、
ニヤニヤしながらカラのランドセルを開けたり閉めたりする光景が見られるようになり、
すっかり春を感じていたところです。

 

そんな我が子も、今日、この良き日に、ここに並ぶお友達と共に、
菅間小学校に入学することになりました。

 

本当に小学生になってしまっていいものか、信じられないような思いもあります。
知人に対して、四月から小学生ですよ、などと言うと、何人もの方から、
赤ちゃんだったのにねえ、というお返事をされました。

 

しかし、我が子が生まれたのは、北京オリンピックの年であり、福田首相の頃です。
それから今までの世の中を考えると、もう随分と時が経ったのだなあと、
今更ながら実感しております。

 

子供達はこれから六年間、菅間の小学生です。
菅間小学校があと何年あるかはわかりませんが、それでも菅間の小学生です。
上級生の皆様、今年の菅間の新人達を、新しい仲間達を、
どうかよろしくお願いいたします。

 

また、校長以下教員の方々、及び地域の方々の指導力にも、
心から期待しております。

 

菅間小学校は、実によい小学校です。
菅間小の児童は、近隣の他の小学生よりも、様々な点において優秀であることは、
私もこれまで、よく存じ上げております。
これはお世辞ではなくて、真実です。
我が子がそんな小学生の一人となれることに、心より感謝しております。
よろしくお願いいたします。

 

最後に、この緑多き地理、および少人数のすばらしい教育環境に感謝しつつ、
もう一度皆様に感謝申し上げることで、新入生保護者代表の挨拶といたします。

 

平成二十七年四月八日
新入生保護者代表 朝倉智義


 

6.H27中学校入学式 保護者代表挨拶


新入生保護者代表挨拶

 

暖かい風に桜が舞い散る中、筑波の里には、今年も春がやってまいりました。

 

つい先月まで、ランドセルと黄色い帽子で小学校へと通っていた子供達も、
無事小学校を卒業し、本日、この筑波西中学校へ入学いたします。

 

今日、ここに並ぶ新入生は、作岡、田水山、菅間の各小学校において、
六年という長い時間を、別々に過ごしてきました。
しかし今日からは、新しい仲間として、新しい集団となって、新しい三年間を過ごします。
貴重な三年間がよい時間となるよう、保護者として、心より祈っております。

 

思えば、算数セットに延々と名前を書き続けたあの日から、
もう六年が経ってしまったのですね。
あの頃、あんなに可愛かった我が子も、六年を経てすっかりゴツくなってしまったなあと、
小学校の中では感じておりました。
しかし今日、同じ制服を着る上級生と比べてみると、
新入生は、まだまだ子供の顔をしています。
つまり、まだゴツくなるんですね。

 

三年後には、この西中学校という場で、どんな成長を遂げていることでしょうか。
頼もしい上級生になれるのでしょうか。
校長以下教員の方々、そして地域の方々には、その指導力を期待しております。
何卒よろしくお願いいたします。

 

上級生の方々にも、正しい指導を期待しております。
私が知る限り、今の九年生が入学した当時より、
西中学校の雰囲気はよくなって来ています。
この調子で、もっとよい中学校にするために、新入生共々がんばってください。
応援しております。

 

最後に、この中学校のすばらしき教育精神に感謝しつつ、
もう一度皆様に感謝申し上げることで、新入生保護者代表の挨拶といたします。

 

平成二十七年四月八日
新入生保護者代表 朝倉智義


 

以上、入学式卒業式関係は、全てちゃんとした「用紙」に全文を筆書きしました。
どれもほぼ最後まで使い切ったので、結果的に文章の長さも同じくらいになっています。

 

こんな挨拶ですが......

 

後日、児童/生徒にウケたという報告が2回。

 

職員室で話題になったという報告が1回。

 

挨拶した式が終わった直後、まだ顔を覚えていない保護者の方が
「とてもよかったです」とわざわざ言いに来てくださったのが1回。

 

挨拶から約1年後、当時来賓席にいたPTA役員に
「挨拶でこういうこと言ってたよね」と言われたのが1回。

 

挨拶から約5年後、
「入学式のときは朝倉さんが挨拶したよね。よく覚えてるよ」と言われたのが1回、
約6年後に別の方に1回。

 

そして、聞いていて超恥ずかしかったという報告が1回。
これはウチの子供ですが。

 

もしかしたら、黙って怒りをためていた方もいらっしゃるのかもしれませんが、
とりあえず何件かの好評は頂いております。

 

 

1ミリでもお役に立てば幸いです。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ195 カタツムリの触角

あすなろ

 

 

 

2018.01号

 

中学受験対策として、六年生に理科の総復習をしていたときのことです。

 

小学三年生の理科では、昆虫の特徴として「頭・胸・腹に分かれている」などを習うわけですが、教科書には昆虫以外の虫として、クモとダンゴムシの図が入っています。

 

こういうときに私は、つい余計な情報を付け足しちゃったりするわけですね。

『ダンゴムシは関節が切り替わっているところが胸と腹の境目』

『ダイオウグソクムシとダンゴムシは同じ仲間』

『クモの最大の特徴は触覚がないこと。節足動物で触角がないのは、あとはサソリくらいで、クモとサソリは同じ仲間』

とかなんとか。

 

すると、六年生から質問が来ます。

 

「カタツムリの、触角?の、目じゃない方、下の短いの、あれってなんて言うんですか」

 

んー。そういえば知りませんでした。

 

……というわけで、カタツムリのことを調べてみました。

 

まずは、質問の答えからですよね。

 

短いのは、小触角(しょうしょっかく)といいます。

長くて先端に目がついている方は、大触角(だいしょっかく)といいます。

なんか、ひねりもなく、そのまんまの名前でした。

 

では、その触角の機能ですが。

とあるカタツムリの解説本には、

「大触角の先端には目があるが、明暗くらいしか見えていない。どちらかというと杖のような役割」

「小触角はにおいや味の識別」

などの記述があります。

 

しかし、別の論文中の引用を見る限りでは、カタツムリの大触角は

「遠方から漂ってくるにおい物質の検出とそれに基づく進行方向の決定などに関与」

していて、小触角の方は

「目の前に存在する食べ物や化学物質の検出および他個体が残した粘液の検知などに関わっている」

となっています。

 

要するに、触角は確かに大小で使い分けされてはいますが、どちらでもにおいを感じているというのが正解のようです。

 

※本当は、大小触角の機能的意味に関する論文があったのですが、今回は英文を読んでいる時間がないので断念しました。

 

また、ある小学生の自由研究によると、大きい音が聞こえた時には音の方に触角を向けるそうですので、他にもまだ知られていない機能があるかもしれません。

 

一方、目の性能に関しては、イマイチ信用できる記述が見つかりませんでした。

ただ次図の構造を見る限りでは、少なくとも、光の方向くらいはわかると思われます。

「明暗くらいしか」は、少々言い過ぎだと思います。

 



軟体動物の目の構造
右上がカタツムリ


 

先述の小学生の研究によると、障害物が突然現れた時は、カタツムリは触角に触れてから回避するのに対して、ナメクジは触れる前に回避するようです。

また、カタツムリは大触角を縮める(ひっこめる)か伸ばすかの二択なのに対して、ナメクジは目を出したままで伸縮できるとのことです。

ここから、同じ大触角でも、「主に杖として使うカタツムリ」と、「主に目として使うナメクジ(だからひっこめない)」という違いがありそうです。

 

言い忘れておりましたが、カタツムリは軟体動物の巻き貝の仲間です。

陸の貝ですので陸貝(りくがい)とも呼ばれています。

 

巻き貝には、他にも触角や目がついている種類は多いのですが、触角が二対(四本)あるのはカタツムリの仲間(有肺目・柄眼上科)だけです。

というわけで、触角が四本あるナメクジも、カタツムリの一種なのでした。

 



上:モノアラガイ
触角の根元に目がある例
→巻き貝はこの方が多い
下:マガキガイ
触角先端の目は少数派


 

さてこの触角、切除されても再生できることがわかっています。

普通のカタツムリ類は数十週間とのことですが、ナメクジの場合はは8週間ほどで再生されます。

当然、その先端にある目も再生されます。

 

※以下、再生実験に使われたのは、カタツムリではなくてナメクジです。

 

目を再生できる動物は、他にも例えばエビやカニなどがあります。

触角の再生自体も、昆虫で例があります。

しかし、カタツムリ――ではなくてナメクジの場合は、ただ再生できるだけではなくて、例えば小触角が二本とも無くなると、それまで小触角が担当していたにおいは、再生が終わるまでは大触角が代わりに受け持つようになります。

 

これを実現させるために、ナメクジは、脳を増やしたり減らしたりして、脳の機能を一時的に振り分け直すということをします。

 

人間の脳細胞は、生まれてから死ぬまで減り続けているという話を聞いたことがあるかもしれません。

しかし、ナメクジは必要に応じて、脳を増やすことができるのです。

 

脳を増やせるわけですから、脳の一部を破壊されても、やはり再生できます。

もちろん、そこに入っていた記憶は失われてしまいますが、少なくとも匂いの記憶に関しては、「左に入れたら次は右、次は左」というように、順に振り分けているので、脳の左右半分が無くなっても、半分のことは覚えているのだそうです。

 

ただ、脳が半分になった状態のナメクジは、新たな記憶も相変わらず左右順に記憶させようとするために、新たな情報のうちの半分は残らないのだとか。

ちょっとドジっ子です。

 

脳については、

「食べ放題にさせて肥大化したナメクジは、脳まで肥大化する」

という実験結果もあります。

 

ナメクジは、オトナになってからでもエサを与え続けると、元の十倍近くまで増加するということですが、その巨体に対応するために、脳細胞そのものが巨大化するらしいです。

 

巨大化した脳細胞には、これまた巨大化した核があります。

その理由は、核内のDNAの量が増えるからです。

アメフラシ(これも巻き貝の仲間です)の例では、通常の20万倍のDNA量だったということです。

 

ちなみに、学校の生物学では、

「一つの生物では、どの細胞のDNA量も全て同じ」

と習います。

人間だったら、2倍になった時点で病気です。

それが敢えての20万倍。

 

一体どうなっちゃっているのでしょう。

 

カタツムリにはまだ面白いネタがありますが、紙面の都合上、今回はここまでです。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
 
 
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