2018年3月

あすなろ170 ぼくの知恵袋(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.12号

 

長く生きていると、色々な「俺オリジナル」というものを編み出すようになります。

 

なんて言っても大した話ではなくて、日常の延長のお話です。

一時期、重曹を掃除に使うことが流行しましたけど、まあそんなようなものです。

 

でもそんな、確かに自分で思いついたはずのことが、テレビで紹介されていたり、インターネット上でテクニックとして広まっているのを見ると、

「ああ、自分以外にも同じ事を考える人がいるんだなあ」

と思う反面、

「俺の方が昔から知ってたもんね」

と思ってみたり、逆に

「発表しておけば、いつか誰かの役に立つのかもしれない」

と考えたり。

 

今回は、そんなものを書き出してみます。

 

 


1.製氷皿から氷をきれいに出す方法


 

方法としては、製氷皿をひねる前に、皿の裏側に流水をかけるというもの。

蓋付きならば、開ける前の蓋にも水をかけておきます。

それだけで氷の張り付きが取れるので、蓋は軽く外れますし、氷も割れることもなく簡単に外れてくれます。

 

今時の普通のご家庭の冷蔵庫には自動製氷機がついているでしょうが、私のように敢えて製氷機無しのモデルを選ぶ方にはお勧めの方法としていかがでしょう。

 

この方法、何年か前に中学生に話したら、

「はいはい、テレビでやってましたよね」

と。

いや、俺が確かに思いついたんだといっても、

「いやいや(笑)」

とか言われちゃったり。

私はもうテレビなんて全く見てないので、同じことを考えた人がいるってことでしょう。

 

製氷皿といえば、100円ショップで買ってきたこれをプラモデルの塗料皿とかパレットとして使うと、汚れた時に惜しくもなくどんどん捨てられるので便利です。

 

 


2.パラパラチャーハンの作り方


 

ネット上でたびたび話題になるのが、この「パラパラチャーハンの作り方」。

この手の話で必ず上がるのが、「家庭用のコンロでは火力が弱くてムリ」みたいな書き込みです。

でも、ならば火力の強い業務用ならば簡単にできるのかといえば、そうでもないんですよね。

だって我が家は、建て替えたときにコンロを業務用にしましたけど、簡単じゃないもん。

結局、ポイントは大量の油なんですよね。

 

でも、そんな派手なことをしなくても作る方法を見つけました。

それは、マヨネーズを油代わりに使うというものです。

 

シルバーストーンのフライパンにご飯をあけて、それにマヨネーズをかけて火にかけながらよーく混ぜます。

火力は中火から弱火のあたりでも充分で、ちゃんとパラッパラのチャーハンができます。

ゆっくり混ぜないと周りに飛び散るくらいパラパラになります。

 

もちろん最初はマヨネーズ特有の匂いが出ますが、そんなのは火を通すうちに飛んでいっちゃいます。

それでもなんだか気になるということでしたら、ケチャップをかけて「チキンライス」にしてしまえば、ケチャップの酸味と匂いに混ざってしまって、全くわからなくなります。

 

この方法は、だいたい3年前くらいから、子供の弁当作りに活用していました。

ところが最近、インターネットでたまたま見た2chのまとめサイトに、同じことが書いてありましたよ。

どうやら「とあるシェフの技」として、テレビで紹介されたようです。

やっぱり同じ事を考える奴は必ずいるもの……とも思うのですが、もしかしたらどっかに書き込みしたかなあ俺。

といっても別に起源を主張するつもりはないのですが。

 

この方法を見つけてからは、朝から幼児の弁当用にオムライスを作るのも苦にならなくなりました。

オムライスったって、手を抜けば簡単ですよ。

具なんて基本的に入っていません。

入れたとしても、コーンを十粒とか、前の晩の野菜炒めを一口分残しておいたものをみじん切りにして入れるとかそんなもんです。

だって、完成品のサイズは握り拳程度しかないんですから。

 

そういえば、他にも「プチトマトのきれいな切り方」も、弁当を作っているうちに発見しました。

プチトマトは、よーく見ると縦に線が一本一周しています。

この線に垂直に切ると、種の部分が表面に出ないので弁当向けです。

この線に沿って切ると、種の部分がきれいに見えるので、サラダの飾りに適しています。

ただ、これは実家の母親も知っていました。

 

 


3.チャイルドシートのガチ固定法


 

リクライニングできるシート限定ですが。

 

1. チャイルドシートを、背もたれを少し倒し気味にした座席に置いて、ベルトでテキトーに固定する。

2. 背もたれの先端を持って前に引き起こせばガッチガチ。

 

テコの力を使っていますので、微動だにしないほど締め上げることができます。

ただし、今時のチャイルドシートには、締め上げるためのダイヤルが付いていると思いますので、あんまり役に立たないかもしれません。

というかそもそも、これを読んでいる人で、今後チャイルドシートを固定する機会がある人なんているのかとも思いますが気にしない。

なお、シートスライドではテコが使えないので、そこまで締めることはできません。

 

 


4.運転席から後席の幼児の様子を見る方法


 

条件として、ルームミラーが自動防眩ではない(切り替えのつまみがついている)こと。

 

ルームミラーの防眩切り替えは、本来は標準が下向き――つまり下のつまみを押した状態――で使う物なのですが、これを敢えて上向き――つまみを引いた状態――にして合わせておきます。

そしてそのまま下に切り替えると、まあなんと、後部座席の子供の顔が見えるじゃないですか。

 

時には、ずっと下に切り替えたままで運転していることもありました。

外の天気次第ではありますが、二重写しになった鏡面に、後続車と子供が同時に映るので、慣れればそのまま走れるのです。

ただしこれは、できればリヤガラスにスモークが入っていない車体の方がよろしいかと思います。

 

育児ネタでは他に、「キューブミルクの素速い溶かし方」なんてのも発見して使っていましたが、そこまではもういいですよね。

 

 


5.コップを割った時の片付け方


 

大きいかけらを普通に拾ったら、微細な破片はぬれ雑巾で丸ごと拭き取って雑巾ごとポイ。

安全で手早く終わります。

 

これは実は、カミサンから教わったものでして、私オリジナルというわけではないのですが、似たようなことは小学生の頃に自分で発見しています。

それは、

 

 


6.ミツバチを捕まえるときは厚く折ったハンカチで掴めば針が届かず刺されない


 

来た!

これこそ今日から使える知識!

ミツバチを捕まえる際には、ぜひご活用ください!

ぜひ!

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ65 納豆の効能(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2007.03号

 

申し訳ありませんが、今回は時事ネタから引っ張ってきました。

テレビの話より。

 

つい先日、「あるある捏造発覚」が大々的に報道されましたね。

 

あの番組は、数年前に意味不明のアミノ酸ブームを起こした張本人でもあります。

アミノ酸の「効果」とやらがいかにいい加減で、この番組がいかに適当に作られているかは、実は私もこのあすなろ通信(2003/7・No.21)において、一度取り上げたことがありますので、今回の騒動は今更の感もあります。

 

今回の騒動、きっかけは納豆でした。

 

納豆がダイエットに効くそうな

 

→納豆を毎日食べよう!

 

→ダイエットは実はうっそピョ~ン

 

→納豆を毎日食べたのは馬鹿でした…

 

……というような流れが世間一般にあったようで、これ以後、ちょっと納豆の人気が低下しているような気がしています。

しかし、一茨城県民として、この状態は看過できません。

納豆の名誉を復活させるべく、納豆のすばらしさを説いてみようと思います。

 

といっても、納豆の味や調理法などは、すでに一般に知れ渡っているでしょう。

ここで「納豆に砂糖を入れるとおいしいよ」と説いたところで、「ダイエット」という言葉に煽動された愚民共の流れは、そうそう変わらないでしょう。

ここは「食の怪人」小泉武夫氏の著作に従って、科学的見地から見た、納豆の効能を挙げていこうと思います。

(参考文献…NHK人間講座「発酵は力なり」)

 

・効能その一 消化がいい

 

納豆とは、煮た大豆にとりついた納豆菌が、大豆の蛋白質(たんぱくしつ)を分解(発酵)している、まさにその最中の状態の食品です。

蛋白質は、人間が摂取する際には、まずアミノ酸に分解されてから吸収します。

しかし納豆は、納豆菌によってあらかじめアミノ酸まで分解が進められているのです。

 

それに加えて、納豆には納豆菌が作った澱粉(でんぷん)分解酵素、蛋白質分解酵素、脂肪分解酵素が、たくさん残されています。

これらは人間の消化酵素と基本的に同じですから、栄養分の吸収が、とても助けられることになります。

 

・効能その二 蛋白質

 

大豆が「畑の牛肉」と呼ばれる、と聞いたことがありませんか?

「~と呼ばれる」という言い回しは、「誰も呼ばねえよ」というものが多いのですが、これに関しては本当です。

 

煮た大豆に含まれる蛋白質の量は、平均で全体の17.5~18.5%あります。

それに対して、牛肉の蛋白質は、18~19.5%です。

本当に、牛肉とほぼ同じ割合の蛋白質を含んでいるのです。

しかも先述したとおり、これが消化しやすい状態で摂れるのです。

蛋白質の摂取には、もしかしたら牛肉よりも納豆の方が適しているのかもしれません。

筋肉を付けるのに、市販のプロテインよりも、きな粉(つまり、大豆の粉末)の方が安くて効果が高い、という話を聞いたこともあります。

 

・効能その三 ミネラル

 

大豆には亜鉛、銅、カルシウム、マグネシウム、カリウムといった成分が豊富に入っています。

そして大豆が納豆になることによって、これらがより吸収しやすい状態になっています。

ミネラルの中でも、例えば亜鉛が不足すると、味覚障害、情緒不安、遺伝子形成の阻害などの症状が現れるといわれています。

納豆には、それらを防ぐ効果があるというわけなのです。

 

・効能その四 ビタミン

 

納豆は、ビタミン群も豊富です。

中でも、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンE、ナイアシンなどが多く含まれています。

特にビタミンB2が豊富で、煮ただけの大豆の5~10倍あります。

ビタミンB2の不足は、皮膚炎、脱毛、食欲不振、疲労、成長障害の原因となります。

 

また、ビタミンKも増えます。

ビタミンKは、腸内の大腸菌が作りだすビタミンで、骨とカルシウムを結合させるのに働きます。

私の手元の資料では、納豆自体にビタミンKが入っているのか、大腸菌の働きを活発にするのかがよくわかりませんが、とにかくそういう効果があるそうです。

これにより、骨粗鬆症を防ぐ効果があります。

 

・効能その五 保健的機能

 

よく、ヨーグルトの宣伝文句に「乳酸菌を生きたまま腸内に」というものがありますが、これはなんのためなのかご存じでしょうか。

 

乳酸菌や納豆菌などの菌は、善玉菌と呼ばれることがあります。

これに対して悪玉菌と呼ばれるのが、食べ物を腐らせる腐敗菌を始めとして、病気の原因となる炭疽菌、結核菌などのことです。

 

善玉菌は、悪玉菌の繁殖を阻害することができます。

 

寒天培地に病原性大腸菌のO-157を入れ、そこに納豆菌を同じ数だけ入れて混合培養してみます。

すると、ほとんどの場合で培地は納豆菌に支配され、O-157は増殖できなくなります。

基本的に、細菌などの微生物は異種同士での共存はしません。

同種同士で集団(コロニー)を作り上げ、さらには特殊な物質を出して、異種の増殖を抑えようとします。

 

おもしろいことに、腐敗菌などの悪玉菌と善玉菌を勝負させると、おおかたの実験では善玉菌の方がはるかに強いのです。

だから、善玉菌がいる食品は腐りにくく、食べても病気になりにくいのです。

うまくいけば、繁殖を始めた病原菌を追放することもできます。

 

そして納豆を食べると、納豆菌を生きたまま腸内に入れることができます。

途中、胃を通過する必要があるのですが、納豆の場合は大豆の粒の中に入っていれば、胃酸に侵されずに腸にたどり着くことができます。

また、納豆菌は比較的熱に強いですから、熱を使って調理した納豆でもかまいません。

善玉菌の摂取法に、融通が利くのが納豆なのです。

 

そうやって、腸内に納豆菌を棲み着かせておけば、腸の中で悪い雑菌の繁殖を防げます。

毒素を吐くような悪い菌がいませんから、便秘にも下痢にもなりません。

今回の参考文献の著者である小泉氏は、海外出張する際には乾燥納豆を大量に持って行くのだそうです。

そしてそれを毎日食べていれば、何を食べても食中毒に全くかからないとのことです。

納豆菌で満たされている腸内には、悪玉菌が取り付く隙が無くなってしまう、ということなのです。

 

また最近、納豆に含まれるすばらしい酵素が、新たに二つ発見されました。

 

一つは、アンギオテンシン変換阻害酵素というもの。

これは、高すぎる血圧を下げて、平常にする効果があります。

もう一つは、ナットウキナーゼという、血栓を溶解する酵素です。

これによって、癌よりも恐ろしい、脳梗塞や心臓疾患を防ぐことができます。

実にすばらしいではないですか。

 

本当はまだあるのですが、紙面が尽きてしまいました。

納豆を毎日食べて、健康な毎日を過ごしましょう。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ97 チョコレート(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2009.11号

 

みんな大好きチョコレート。

 

人の好みは様々であるはずですが、その中でもチョコレートは、あまり「嫌い」だという話を聞いたことがありません。

どういうことなんでしょうねえ。

 

チョコレートの原料となるカカオは、中南米を原産とする木の実です。

 

しかし紀元前2000年頃から15世紀までは、カカオの実を粉にして、それを水に溶いたものを飲んでいました。

これにバニラ、ペッパーなどの香辛料を入れて飲んでいたので、苦くて香りの高い飲み物だったようです。

また、水に溶いてはいたものの、カカオには油分が多いためにあまり水には溶けずに、かなり濃厚な液体でした。

また、カカオ特有の酸味もあったようです。

 

赤道付近の国では一般的に、香辛料の強いものを飲食して、汗をかいて体を冷やす食文化があります。

インドのカレーやタイの唐辛子料理がそうですよね。

中南米におけるチョコレートも、やはりそのようなものだったのでしょう。

 

ですからでしょうか、カカオはまた、大変珍重され、貨幣の代わりとして流通した時代もありました。

 

さて、15世紀末に、コロンブスという男が中米を見つけちゃったものですから、そこからは西洋人の侵略が始まります。

そして、スペイン人が持ち帰ったものの中に、カカオの実とチョコレート加工器がありました。

 

スペインの侵略者コルテスとチョコレートとの出会いに関しては、子供の頃に本で読んだことがあります。

それによれば、進軍の途中に出会った現地人から貰った、ということになっていましたが、本当は少し違うようですね。

コルテスがアステカ王国を訪れたとき、国王から客人にふるまわれた高級飲料、というのが真相のようです。

 

ところでこの頃、それまで苦い飲み物だったチョコレートに、砂糖を入れる「発明」がなされています。

ですからスペインが中米を征服したころには、チョコレートは比較的飲みやすい味になっていました。

 

スペインにおけるチョコレートは、暖かい飲み物として普及します。

赤道直下の中米と比べると、スペインは「寒い地域」だからなのかもしれません。

しかしこの飲み物は、スペイン上流階級だけの「秘密の飲み物」であり、およそ一世紀の間は門外不出でした。

 

しかしその後、フランスのルイ13世がチョコレート好きのスペイン王女と結婚したため、フランスにもチョコレートがもたらされることになります。

 

さらにその息子のルイ14世も、同じくチョコレートの好きなスペイン王女と結婚します。

こうやって、スペイン王家からヨーロッパ全土へと、チョコレートが浸透していくことになります。

 

そして1828年、オランダのバンホーテンが、カカオからココアバターを分離する方法を発明します。

さらにその二代目は、アルカリを加えることによって酸味を無くし、水に溶けやすくします。

これにより、それまで油分でドロドロの液体だったチョコレートは、お湯に溶けたさらりとした飲み物になりました。

バンホーテンとはもちろん、有名ココアのブランドの、あのバンホーテンのことです。

 

これがイギリスに伝わると、今度は牛乳が加えられ、夕食後の楽しみとして普及します。

アフヌーンティーとは別のポジションに収まったわけですね。

紅茶を飲む喫茶店のように、チョコレートを飲むチョコレートハウスなるものが流行し、大衆化していきます。

 

1847年、イギリスにて、それまで取り除くだけだった油分のココアバターを、ココアパウダーと合わせて加工して、「食べるチョコレート」を発明します。

そして1876年、今度はスイスで、粉乳を加えた「ミルクチョコレート」が発明されます。

ここからようやく、本格的な固形チョコレートの歴史が始まるのでした。

 

国産チョコレートの第1号は、1878年に米津凮月堂によって作られました。

ただしこれは外国産チョコレートを加工した物で、カカオ豆からの製造は1918年、森永製菓によるものが最初です。

そういえば、「チョコレートはめ♪い♪じ♪」というキャッチフレーズがありますけど、元祖は森永じゃねえか。

何か、うまく騙された気分だわ。

 

先に書いたとおり、カカオ豆はまずココアバターとココアパウダー(非脂肪分)に分離されますが、このうちココアパウダーを使わないで作られたのがホワイトチョコレートです。

日本で最初にホワイトチョコレートを製造したのは、北海道土産のバターサンドで有名な六花亭でした。

ちょっと意外。

 

つまり、原料のカカオマスを脂肪分と非脂肪分にわけたあと、前者を使ったのがココア飲料、後者を使ったのがホワイトチョコレート、両方使うのがミルクチョコレートやダークチョコレート、ということですね。

 

でもここでまた、少しややこしい話をします。

いわゆるココアと、ホットチョコレートという飲料は、別の物だという定義もあります。

 

歴史上の順序で言えば、バンホーテンが今のココアの形を作り出した時点では、まだ固形チョコレートは登場していませんでした。

ですから、その当時は、チョコレートとはすなわち今のココアのことです。

そして現在も、アメリカでは大抵、ホットチョコレート=ホットココア、となっています。

 

しかしイギリスなどでは、ホットチョコレートといえばココアとは別物で、固形チョコレートが溶かし込んであります。

つまり、ココアバターが入っている、昔の形に近い物を指すようです。

 

特に、ヨーロッパ1番のチョコレート伝統国・スペインでは、今でもホットチョコといえばドロドロの飲み物で、中には温かくて柔らかい、半溶けの塊が入っているそうです。

これにチュロスを浸して食べるのが、伝統的な朝食なんだそうです。

おやつとしてはおいしそうですけど、朝からこれ食べて学校に行くのはちょっと抵抗がありますね。

 

それと、バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、日本の菓子メーカーの陰謀だの騙されているだけだのと、よく言われていますよね。

でも本当は、19世紀のイギリスで起こった行事らしいです。

ただ、それを始めたのはチョコレート会社ですけどね。

 

それはいいのですが、その頃になると出回る外国産のチョコレートって、なんで国産に比べて味が悪いんでしょうね。

味が粗雑というかワイルドというか。

舌の繊細さにかけては、日本人が一番だと実感する瞬間です。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉

あすなろ91 鰹節(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2009.05号

 

口内炎ってのは嫌なものですねえ。

ほんと痛いですわ。

 

原因はわかっています。

先日、ケーキ材料用の、チョコレートを一袋買ったんですよ。

で、その三分の二くらいを、一夜にして一人で食べちゃったんですよ。

そしたらこれです。

チョコレートとは、本当に罪深い食べ物です

 

こういうとき、世の皆さんってどういう対策を取るものなのでしょうか?

 

私の場合は、その日の夜から減カロリーな食生活にチェンジしました。

食い過ぎて荒れたわけですから、要するに控えればいいわけですよね。

ならば、さしあたっては油分を摂らない食事にすればいいわけで。

でも別にダイエットをやっているわけではありませんから、炭水化物と蛋白質(たんぱくしつ)は必要分を摂っておきたいと。

 

さあこんなとき、頼りになるのはやっぱり和食ですね。

和食といっても、そんな大層なものの話ではありません。

身近なところからいけば、納豆と味噌汁と鰹節(かつおぶし)なんてあたりでどうでしょうか。

 

納豆の効能については、2年ほど前のこの紙面(2007/3・NO.65)に書いたことがありますので、今回は簡単にしておきます。

 

納豆は、大豆を菌に発酵させた食品です。

大豆はそもそも、牛肉に匹敵するほどの蛋白質を含んでいて、それを消化しやすい形にしたのが納豆だと思ってください。

もちろん、肉と違って脂分は入っていません。

 

さらに納豆にはビタミンやミネラルも豊富で、納豆菌は下痢と便秘を解消し、高血圧のリスクを減らす効能を持つという、まるで怪しい健康食品の宣伝文句並の、奇跡のような食品です。

 

納豆に限らず、大豆製品は基本的に、脂が少なくて高蛋白です。

ですからその点は、味噌汁も同じです。

豆腐も然り、油揚げも然り。

もちろん湯葉(ゆば)も同じです。

 

さて、次に行きましょう。

鰹節です。

 

鰹節といっても、出汁のモトという程度の認識の方が多いかもしれませんが、あれも実は結構すごい食品です。

 

鰹節は、もちろん魚の鰹(かつお)が原料です。

しかし鰹とは、刺身を見ればすぐにわかりますが、大変脂がのった魚です。

ところが、鰹節を出汁にした吸い物には、脂は全く浮きません。

どうなっているのでしょうか。

 

余談ですが、凡世界的には、スープの出汁といえば、主に動物の骨がらや魚を使います。

(ほぼ唯一の例外はトマトです)

もちろん、脂が浮きます。

中華料理や西洋料理、さらにはタイ料理あたりを見ても、そのあたりは共通です。

しかし、日本の代表的な出汁の素である昆布・干し椎茸・鰹節は、全て脂を出しません。

この点をみるだけでも、ガイジンが和食をヘルシーだといってありがたがるのがわかる気がします。

 

それはともかく、鰹節とは簡単に言うと、鰹の脂を細菌に分解させ、蛋白質をアミノ酸の「うまみ」へと変化させたものです。

 

鰹節は、鰹の身の表面に、「カビ」をつけて作ります。

伝統的にカビという呼び名を使いますが、鰹節菌という菌類、といえば、もうちょっとイメージが違うでしょうか。

納豆を発酵させるのは納豆菌、味噌や酒を作るのは麹菌、それと同類と解釈してください。

 

鰹につけられたカビは、鰹の身から、水分をどんどん吸収していきます。

ある程度日数を置いて、充分にカビを繁殖させたところで、一度カビを取り去って日干しします。

そして、またカビをつけて(二番カビ)、同じように表面で繁殖させます。

 

これを三番カビまで繰り返すと、内部はすっかり乾燥がすすんで、あの硬い鰹節ができあがります。

現在、大抵のものは三番カビまでですが、会社によっては五番カビ、七番カビまでつけるところもあるようです。

 

と、こう書くと簡単に終わってしまうのですが、実際ここに至るまでの手間は大変なものです。

ある製造過程を例に挙げてみます。

 

まず、三枚に下ろした鰹を煮るのですが、沸騰する寸前の94~96度を厳密に保って二時間~二時間半かけます。

次に骨抜きをしたら、薪(まき)で一時間余り燻(いぶ)して、三日休ませます。

それを十二回繰り返して、「荒節(あらぶし)」ができあがります。

ここに至るまで、約一ヶ月半かかっています。

 

次に、ようやくカビが登場します。

荒節の表面を削って余計な脂を落とし、形を整えたら、表面にカビをふきつけます。

カビは鰹の蛋白質をアミノ酸に分解し、水分を吸い出し、脂肪分を分解します。

カビが繁殖しやすい環境に二週間ほど置いたら、半日ほど天日干しして、表面を削ります。

これを繰り返して五番カビが終わる頃には、最初からおよそ半年が経過しています。

こうしてできあがったのが「本枯節(ほんかれぶし)」です。

 

これだけ時間と手間をかけてできる鰹節、これからは見直さなくちゃ~と思うでしょうが、少々お待ち下さい。

よく売られている「削り節」は、実は上記の「荒節」を削った物で、カビ付けを全くしていないものなのです。

本枯節からしてみれば、「手抜き」ともいえるシロモノなのでした。

 

最近では削り節のパック技術が高まったために、本枯節は贈答用か本格料理店以外では、ほとんど見なくなってきました。

では、「本物の鰹節」は自分で削るしかないのか、といえば、そうでもないようです。

 

普段見かける削り節は、裏の品質表示欄における名称が「かつお削りぶし」になっているはずです。

しかし、本物の枯節から作られる「削り節」は、「かつおぶし削りぶし」又は「かつおかれぶし削りぶし」になっているそうです。

後者二者は、少々呼び方が違いますが同じ物です。

昨年(2008年)の9月から、呼び名の規格が変わったので、現在でも二つが混在していることがある、というだけのことです。

JIS規格においては、二番カビ以上のものが、後者を名乗れるそうです。

 

今回、「市場調査」を行っていませんので、実際にこの近辺で「かつおかれぶし削り節」が手に入るかどうかわかりませんが、カスミジャスコで売っていなくても、学園のプルシエ(カスミ系・ララガーデンなど)に行けばある可能性が高いです。

何せ、「さいしこみしょうゆ」を売っていたくらいですから。

 

というわけで、ここしばらくかつぶしご飯を中心に食べていた私ですが、そういえば、口内炎には本当はどう対処するのがいいのでしょう?

わが家の医者に聞いてみました。

 

「普通は、口の中を清潔にしておく。

 ビタミンを摂るといいという話もあるけど」

 

え?だって俺が口内炎って言ってかつぶし食っていたときも何も言わなかったじゃな……

 

え―――――――――――――――――――。

 

え―――――――――――――――――――。

 

学塾ヴィッセ―――――――――――――――――――ンブルク あさく

あすなろ165 自転車が倒れない理由(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.07号

 

私の数学の授業は、公式の理屈は原則として「説明抜き」で、結論だけを教えています。

 

もちろん教科書には理屈が書いてありますし、本当は理屈を知っていた方がいいということはわかっています。

 

しかし、実際のテストでは、公式の理屈は得点に繋がりません。

さらに、毎日通って時間をかけられる学校の授業とは違って、私が授業できる時間は週に90分しかないので、割り切っています。

 

が、たまに、公式の理屈を100%理解できないと先に進めなくなる子(大抵が女子)がいます。

特に、中3の因数分解と、高2の三角関数あたりで来ます。

ただ、それを過ぎて微積とか二次曲線あたりになると、全てを理解するのは余りに時間のムダだ、ということがわかってくるようですが。

 

ともかくも、そうやって停滞している子には、こんな説明をして、ムリに納得していただいております。

 


公式は単なる道具。

もちろん道具の理屈を知っていた方が使いこなせるけど、それよりも使い方を覚える方が先。

君は自転車がなぜ倒れないか100%理解できないと、自転車には乗れないのか?


 

公式も道具もそうですが、ある程度使い込んだ後で理屈を見直してみると、改めてよく理解できるし納得できる、ということがよくあります。

まずは使いましょう。

全てはそこからです。

 

自転車がなぜ倒れないかという理屈も、乗り始めた頃にはなかった様々な経験を積んでいくと、理解できるようになります。

 

説明してみましょうか。

 

自転車が倒れない要素は色々とあるのですが、箇条書きにすると

 


1. ジャイロ効果

2. キャスター効果とトレール量

3. セルフステア


 

あたりでしょうね。

強いて挙げれば、

 


4. キャンバースラスト


 

も無関係とは言えませんが、今回は割愛します。

 

順に行きます。

 

ジャイロ効果というのは、

「物体が高速回転していると、向きが変わりにくくなる」

という現象です。

 

これ、我々の世代以上のオッサンだと、「地球ゴマと同じ」といえば一発でわかるのですが、もう屋台では見かけませんし、知らないでしょうねえ。

実際に触ってみるとすぐにわかるのですが、ブウンと回っているものは、どういうわけか向きが変わりづらくなるのです。

この効果を利用しているのが人工衛星で、内部のジャイロを高速回転させることで一定の向きを保つことが出来ます。

 


ところで、地球ゴマは今年の3月で製造中止となったために、現在は価格が高騰中です。

再生産の動きもあるようですので、今は手を出さない方が無難です。


 

自転車の場合は、車輪の回転によって、車体の姿勢の安定を助けています。

車輪が重いほど車体は安定するでしょうが、あんまり重いと加減速や旋回が困難になるでしょう。

 

なお、ジャイロ効果はコマが倒れない理由の一つでもあるのですが、傾いたコマが真っ直ぐに戻る理由はまた別です。

 

次に、キャスターとトレールの話です。

 

キャスターという言葉は、椅子の脚の先についている車輪で聞いたことがあるかもしれません。

押すと勝手に向きを変えるアレです。

アレ正確には「自在キャスタ」と言うのですが、なぜ勝手に向きを変えるかと言えば、向きを決める回転軸と接地点とのずれがあるからです。

要するに、車輪が引きずられることで向きが変わっているわけです。

棒を引きずって歩くと後ろに行くのと同じです。

 

そして実は、自転車の前輪にも同じ効果があります。

 

自転車は、ハンドルが切れる中心軸(ステム軸)の延長上よりも、必ずタイヤの接地面が後ろになるように設計されています。

 

 

上図の赤い線がハンドルの回転軸、青い線が「ずれ」(トレール量)です。

これによって、緑の線のような「曲がった棒」を引きずるのと同じ効果が発生して、車体が前進すると、前輪は勝手に直進しようとするのです。

 

そしてセルフステアとは、車体が右に傾いたら勝手に右にハンドルが切れる力のことです。

これは自転車が、ステム軸の前後では、重量バランスが違うように作ってあることから発生します。

次の図の赤い線(ステム軸)の前後では、明らかに前側の方が重くなるように作られています。

 

 

下側の模式図のように、何かに串を一本だけ刺したら、くるっと回って重い方が下に行きますよね。

これと同じことが起こります。

 

自転車のステム軸は前側が上になるように傾いていて、しかも上(前)が重くなっていますので、車体が傾いてバランスが崩れると、すぐに重い方が下に行こうとします。

これによって、右に傾いた時に右にハンドルが切れるのです。

前かごに重い荷物を載せると、ちょっと傾いただけでハンドルが勝手に切れるようになることはご存じですよね。

 

これに加えて、ハンドルバーをステム軸よりも前にずらして配置(オフセット)することで、さらに腕の重さも前側にかかるようになっています。

これによって、体が右に傾くだけでも、自然に右にハンドルが切れる効果が得られます。

なお、このオフセットは、体重移動で曲がるスポーツタイプでは大きめに設計されてます。

 

 

 

右に傾いた時に右にハンドルが切れると、自転車は右に曲がります。

その際、瞬間的には重心(人間)を残したまま、自転車だけが右に移動するので、自転車は勝手に直立を取り戻します。

片足立ちで右に傾いた時、とっさに右にケンケンしているようなものです。

 

……実はインターネットで「自転車が倒れない理由」を検索しても、セルフステアについて触れている記事はほぼ見つかりません。

セルフステアがなぜ起こるかという理屈に至っては、今のところ皆無です。
何故だ。

 

ともかくも、以上が、自転車が倒れないで走ることができる理由です。

おしまいー。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

 

 

追記:余計な一言

 

今回の自転車の話は、「自転車が勝手にバランスを取るという話」に徹しています。
しかし本当は、今回の話では無視している要素があります。
それは、ペダルを漕いだときのバランスの話です。

 

右足を踏み込んだときには、体はどちらにひねっているのか、
またそのとき、体のバランスは、つまり重心はどこにあるのか、
そしてそのとき、車体はどちらに傾いているのか、
そうなるのはハンドルにどういう力をかけているからなのか、
またハンドルはどちらに向かって曲がろうという力がかかっているのか。

 

考えてみると面白いですよ。

 

そして、それを逆手にとって、わざと乗りにくく設計した自転車というものも存在します。
パナソニックの「ロデオ」という自転車です。
どういうものなのか、ちょっと画像検索してみてください。
一見折りたたみ自転車のようですが、全く趣旨が違う乗り物です。
よく見ると、ステム軸の角度と、ステム軸からハンドルまでのオフセットが頭狂っています。
私も一台持っていますが、渡されて10分以内でペダルを1回転漕げた人はいません。
正確には、ほとんどの人が5分も練習しないうちに、「ムリ」と言ってあきらめます。
もちろん、私は乗れますよ。

練習しましたから。
これでコンビニまで買い物に行って、片手でコンビニ袋を下げて帰ってこられます。

 

これに乗ると、漕ぐときにはハンドルにどういう力を入れているのかが確認できるのですが、
残念ながら、もう10年ほど前に廃盤になってしまいました。

あすなろ130 元寇(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2012.08号

 

まずは、この絵をご覧ください。

 

 

小学六年生以上ならば教科書で見たことがあると思います。

「元寇」の絵ですね。

 

鎌倉時代、大陸からモンゴル帝国(元)が攻めてきました。

およそ700年前のことです。

このモンゴル襲来のことを、教科書的には元寇(げんこう)と呼びます。

→「モンゴル襲来」「蒙古襲来」と書いてある教科書もあります。

 


日本はその頃、名乗りを上げて一騎打ちという戦法でしたが、モンゴルは集団戦法だったために、大変な苦戦をしました。

しかし、モンゴル軍が船に引き返している夜、たまたま台風が来た為にモンゴル軍は全滅して、日本は勝つことができたのです。


 

……なあんて話を、聞いたことがあると思います。

 

もしかしたら、
 


モンゴル軍の弓は強力で、日本の矢の二倍も飛んだため、歯が立ちませんでした。


 

なんて話を聞いた人もいるかもしれません。

 

さて、先ほどの絵ですが、あの場面の左右には、本当はこんな様子が描かれています。

 

 

たいへんだー。
 

にほんまけちゃうー。

 

いっきうちではむりだー。

 
 
……ん?

一騎打ち?
 

いや、日本軍は集団で攻めていますね。
 
で?

苦戦?
 
いや、絵を見る限りでは、モンゴル軍は逃げまどっていますが。

 

もう少し、詳しくあたってみましょうか。

 

この『蒙古襲来絵詞』というのはそもそも、竹崎季長(たけざきすえなが)という武士が、自分の活躍から恩賞を貰うまでの話を描いた物です。

最初に挙げた有名な場面で、血を流した馬に騎乗しているのが、まさにその竹崎さんです。

ですからこの場面は、本人を目立たせる為に、わざと一騎だけ先頭に飛び出させて描いている可能性があります。

 

次に、よく言われる
 
「当時は『やあやあ我こそは』と名乗って戦うのが慣わしだったのだが、そんなことをしているうちに敵兵に討たれた」
 
ですが、これも怪しいです。

 

『八幡愚童訓』という書物には

 


日本の  のように互いに名乗りあって、名を挙げて、 一人だけの勝負 と思っていたところ

(朝倉による意訳)


 

などというような箇所がありまして、これがその根拠となっているようです。

 

しかし、その原本と言われる『八幡ノ蒙古記』では、

 


日本の  のように互いに名乗りあって、名を挙げるのは、 一命限りの勝負 と思って


 

となっていて、「一人の勝負」とは書いてありません。

 

さらに、竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』の中には、

 


葦毛の馬に乗った武者が敵陣を破ってきたのが見えたので、

「どなたでしょうか」

と聞くと、

「肥後国菊池次郎武房と申す者です。そういうあなたは」

と聞けば、

「同じ国の竹崎五郎兵衛季長と言います。見ていてください」

と言って駆けていった。

(朝倉意訳)


 

とあります。

 

つまり、日本人同士で互いに名乗りあっているのであって、敵に向かって名乗りを上げているわけではないのです。

 

当時は、敵に突っ込む前には、友軍(味方)に向かって名乗りを上げていました。

これは、恩賞を貰う際に、互いに活躍をした証人になるためです。

 

『蒙古襲来絵詞』の他の場面でも、『互いに証人に立つ』という表記があります。

『八幡愚童訓』は、『八幡ノ蒙古記』を書き写すときに間違えた、と解釈すべきですね。
 
 
つまり、「モンゴル軍に向かって『やあやあ我こそは』と名乗った」の説は、
 
――――昔の人の書き間違いでした~。――――
 
終わり。
 
 
さらに『八幡ノ蒙古記』には、

 


ここで菊池次郎は、およそ百騎を二手に分けて、散々に駆け散らして勝負を決めた。


 

と、やはり武士が集団戦法をした記述があります。

 

ついでに。
 

竹崎さんの『蒙古襲来絵詞』にある、日本軍に立ち向かっている三人の蒙古兵は、他の逃げまどっている蒙古兵と装備や絵のタッチが違います。

青枠の中の三人だけ、線がちょっと太いですよね。

 
実はこの三人は、あとで書き加えられた絵だ、というのが現在の通説なのだそうです。

ダメじゃん教科書。

 
 

……ただ、最初から最後まで勝ちっぱなしだったというわけではありません。
 

蒙古軍が対馬と壱岐に上陸した時には、地元の武士では歯が立たたなかったために、相当数の日本人が虐殺されました。

『一谷入道御書』には、『一人も助かる者なし』とあります。

 

しかし博多に上陸してからは、――――

 
 
 

というよりそもそもですね、上陸作戦といえば昔も今も、まず陸地に陣を確保することから始めます。
(上陸して作る陣地のことを、「橋頭堡(きょうとうほ)」と言います)

 

蒙古軍は夜になったら船に帰った、ということですが、そんなのは作戦でも何でもなくて、要するに陣が作れなかったということです。

上に、「博多に上陸してから」なんて書きましたが、軍勢としては上陸できてないわけですね。

理由はもちろん、日本軍の攻撃が激しくて、陣を構築できなかったからです。

 

結局、蒙古軍は進軍をあきらめて、夜のうちに撤退をしてしまいました。

翌朝、日本兵が見たのは、置き去りにされた船の残骸と下っ端の兵隊達だった、という話でした。

 

敵は、逃げ帰ったのです。

 

ここまでが一回目、文永の役の話です。

風が吹いたなんて話は、どこにも書いてありません。

 

もう一度書きます。

 

――――風が吹いたなんて話は、どこにも書いてありません。――――

 
 
 

はい、では、二回目の弘安の役です。

 

この時は、日本側には防塁の石垣が造られていたので、上陸をほぼ阻止しています。

しかも今度は、積極的に敵船に乗り込んでガンガン攻め立てています。

 

そんな最中、今度は本当に台風が来ました。
 

というかですね、博多に着いたのが6月始め、そしてこの時は7月末。
すでに2ヶ月が経過しています。
この時期、2ヶ月も海にいれば、台風の1つくらいは来てもおかしくないですよね。

 

そして5日の間、海は荒れ続けます。

その結果、4000あった敵船は、船同士でぶつかりまくって、200にまで激減します。
 
ここで蒙古軍の将軍は、使える船に乗っている兵隊を下ろすと、自分たちだけで乗り込んで、さっさと逃げていってしまったのでした。
そして残されたのは、置き去りにされた下っ端の兵隊達。
 
――――このあたり、「大将は責任を取って腹を切る」という日本とは、文化が全く違うんだなあと感じます。
 

日本勢は、その後の総攻撃によって勝利します。

確かに、台風によってラクできましたが、台風が来なくても勝っていたでしょうね。

 

蒙古軍の敗因として、

「高麗(朝鮮)は仕方なく協力していたので、船の作りが手抜きだった」

などと言い訳している本もありますが、実は日本攻めに一番乗り気だったのは高麗王でした。

なのでこれもウソです。

 

あと、日本の弓は当時世界最大だった上に、弓も矢も作りが丁寧で凝っていて、軽くて強力で命中率が高い、というものでした。

 

また例の「てつはう」は、実は最近、当時のものが海底から引き揚げられたのですが、入れ物だけで、重さが4キロ以上もあったそうです。
 
敵陣に投げ込めるものではなさそうですね。

音で、馬を驚かせるのが目的だったのかもしれません。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ185 学問のすヽめ(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2017.03号

 

福沢諭吉の
「学問のすヽめ」
はご存じかと思います。
 
 
 
教科書ではよく、
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
という部分だけが引用されています。
 
これだけでは平等を説いた本みたいですが、
全然違います。
 
「なぜ勉強するのか」の答えが、
諭吉ならではの非常に高い視点から、
実に明確に書いてあります。
 
 
 
学問のすヽめは全十七編で構成されていて、
一編はそう大した長さではありません。
 
そこで、初編の全文を、
現代語に意訳してみることにします。
 
朝倉による即興ですので、
もしかしたら
変なところがあるかもしれませんが、
そのあたりはご容赦ください。
 
 
 


 
 
学問のすヽめ 初編
福沢諭吉 小幡篤次郎
 
 
 
天は、人の上には人を造らないし、
人の下にも人を造らないそうである。
 
ならば、天から人が生まれる以上は、
誰もが皆同じ地位であり、
生まれつきの身分の違いはなくて、
好きなように楽しく暮らせるはずである。
 
しかし実際に人間社会を見る限りは、
賢い人や愚かな人がいるし、
貧しかったり豊かだったり、
身分が高い人だったり低い人だったりと、
雲泥の差があるのはなぜか。
 
その理由は明らかである。
 
実語教という書物には、
「人は学ばなければ智は無く、
智が無ければ愚か者だ」
とある。
 
つまり賢人と愚人の差は、
学ぶか学ばないかでできるものである。
 
世の中には難しい仕事もあれば、
簡単な仕事もある。
 
難しい仕事をする人を身分の重い人、
簡単な仕事の人は身分の軽い人といい、
頭を使う必要のある仕事は難しくて、
手足を使う仕事は易しい。
 
だから
医者、学者、役人、
大商人、大百姓などは、
身分が重くて貴いのである。
 
身分が重くて貴ければ、
自然にその家も豊かになって、
下々から見れば手が届かないようだが、
元を辿ればただ
学問の力があるかないかだけのことであって、
別に天がそう定めたわけではない。
 
「天は富貴を人に与えず、その働きに与える」
ということわざがある。
 
最初に述べたとおり、
人には生まれつきの貴賤、
貧富の差はないのである。
 
ただ学問に勉めて物事をよく知る者は
貴人、富人となるし、
無学な者は貧人、下人となるのである。
 
 
 
学問とは、古文、和歌、詩などの、
世間で役に立たない文学ばかりではない。
 
これらも結構だが、
昔から言われるほど貴いものではない。
 
漢文や和歌を知っているから
商売が上手くいく、
なんてことはない。
 
だから子供があんまり学問に精を出すと、
身を滅ぼすことになりかねないという
親の心配はわかる。
 
だからそういう
役に立たない学問は後回しにして、
まずは実用的な学問を学んだほうがいい。
 
かなを習って、
手紙文、帳簿の付け方、
そろばんや天秤の使い方など、
学ぶべきことは非常に多い。
 
地理学は、
日本は勿論世界の風土の案内である。
 
究理学(物理学?)とは
天地万物の性質を見て
その働きを知る学問である。
 
歴史とは年代記の詳しいもので
万国古今の有様を詮索する書物である。
 
経済学とは
個人や一世帯から
世間の家計を説明するものである。
 
修身学とは
行いを正しくして人と交わって
この世を渡る際の道理を述べたものである。
 
これらの学問をするには、
いずれも西洋の翻訳書を調べて、
大抵の事は日本の仮名で事足りて、
または年若くして文才がある者へは
横文字をも読ませて、
その内容に従って、
物事の道理を求めて日々を過ごすべきである。
 
以上は人間に共通の実学であって、
人ならば貴賤上下の区別無く
皆が身につけなければならない心得であって、
この心得をもって士農工商それぞれが
身を尽くして家業を営み、
身も家も国家も独立すべきである。
 
 
 
学問をするには
分限をわきまえることが大切である。
 
人は生まれながら、繋がれず縛られず、
一人前の男は男、女は女で自由なのだが、
ただ自由だけを唱えて
分限をわきまえなければ
我が儘でやりたい放題に
なってしまうことが多い。
 
つまりその分限とは、
天の道理に基づき人の情けに従って、
他人の妨げにならないで
自分の自由を達成することである。
 
自由と我が儘の境界は、
他人の妨げになるかないか、
にある。
 
 
 


 
 
 
……あの。
 
ちょっとよろしいでしょうか。
 
 
 
ここまで書いてみたところで、
全文掲載が無理そうだとわかりましたので、
ここからは所々を要約して
進めることにします。
 
※「あすなろ」は通常、A4の紙2枚で収めています。
 
 
 


 
 
 
自分の金を使うならば
何でもやっていいというわけではない。
 
世間の風紀を乱すならば
それは許されない。
 
また、国も自由独立である。
 
わが日本は外国と交流せずに
不足なかったが、
寛永年間にアメリカ人が来て
交易が始まった。
 
開港の後も鎖国攘夷という者がいたが、
井の中の蛙である。
 
日本も西洋諸国も
同じ日に照らされ同じ月を眺める
同じ人間である。
 
だから余った物同士を交換して、
互いに学び合うことは、
恥じることでも誇ることでもない。
 
道理のためには
アフリカの奴隷にも恐縮し、
道のためには
イギリス、アメリカの軍艦も恐れず、
国の恥辱があれば
全国民が命を捨ててでも
国の威光を落とさないことが、
自由独立というものである。
 
しかし支那人のように、
外国人を獣のように馬鹿にして、
逆に外国に苦しめられる始末は、
身の程知らずな我が儘である。
 
わが日本の政治は一新したので、
身分というものは一応なくなった。
 
ただその才能と地位があるだけである。
 
例えば政府の役人は、
その才知で国民のために
貴重な法を扱うから
尊いのであって、
その人自身が尊いわけではない。
 
幕府の理不尽な権威は無くなった。
 
人々は政府に不満があれば、
遠慮無く議論すべきである。
 
道理と人の情に照らして正しければ、
命をも投げ出して争うべきである。
 
 
 
先に述べたとおり
個人も国も自由であるから、
自由のためならば、
政府の役人にも遠慮することはない。
 
とは言っても、
身分相応の知性や品性が
なくてはならない。
 
そのためには道理を知る必要があり、
そのためには学ばなければならない。
 
これが学問が急務である理由である。
 
自己の身分を重いものと思い、
愚劣な行動はしてはならない。
 
無知文盲ほど哀れなものはない。
 
無知が進めば恥を知らず、
無知のために貧乏になれば
自らの反省無しに他を恨み、
さらに徒党を組んで乱暴に至る。
 
身の安全を国家の法律に頼りながら、
私欲のためにこれを破るとは
おかしくないか。
 
資産があっても教育をされない子孫は、
家督を一朝の煙とする者も多い。
 
このような愚民には道理が通じないので、
支配するためには威をもって脅すしかない。
 
これは政府がひどいのでは無く、
愚民が自ら災いを招いているのである。
 
愚民の上に苛政があるならば、
良民の上には良い政府があるということだ。
 
わが日本でも、
仮に人民の徳義が衰えて
無知文盲になれば、
法も厳重になるだろうし、
皆が学問に志せば、
法も寛大になるだろう。
 
自国の善政、富強を望まず、
外国の侮辱に甘んじる者などいないはずだ。
 
そのためには、
ただ身の行いを正し、
学問に志して事を知り、
身分相応の知識や品性を備えて、
政府と人民が共に太平を守るのみで、
私の勧める学問も、
ただこの一点を趣旨とする。
 
 
 


 
 
 
つまり、教育と民度は比例する、と。
 
 
 
昨今の世界情勢を見る限り、
実に納得です。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ155 石鹸(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2014.09号

 

牛乳石鹸という名前をご存じでしょうか。

 

その名も牛乳石鹸共進社という会社の作っている石鹸でして、明治42年から続く商品ブランド「牛乳石鹸」を社名にしています。

 

商品名と会社名が同じという例は、昭和初期のころまでは数多くありました。

しかし高度成長期からバブルにかけて、大手各社では経営を多角化したために、漢字の社名を片仮名のブランド名に変更したり、アルファベットを社名に入れることが流行しました。

その結果、その後は一商品や一業界のみを表す社名が減っています。

 

例えば、鈴木自動車は株式会社スズキという名前になったことによって、不動産をしたり物置を作ったりしても「自動車会社なのに物置かよ」というつっこみを入れられないようにしています。

出版一本から始まった福武書店は、教育関連がすっかり拡大したので、ベネッセという「かっちょええ名前」になりました。

かつての石川島播磨重工は、今やアルファベット三文字のIHIが正式名称となっています。

 

もちろん、昔ながらの社名を守っている会社もあります。

味の素株式会社は、商品名=社名の代表例ですね。

他にも、浅田飴とか、仁丹とか、ブルドッソース、セメダインなどが、明治や大正から続く商品名を、現在もそのまま社名としています。

今では作っていない商品名(シャープペンシル)を社名とし続けているシャープという会社もあります。

 

それはともかく、私は入浴時には、そんな牛乳石鹸を愛用しております。

もちろん、わが家にも液体のボディーソープはあります。

それでもあえて石鹸を使っている理由は、泡立ちが違うから、です。

 

あ、いやちょっと訂正。

牛乳石鹸が特に泡立ちがいい、というわけではなくて、石鹸が一般的に、という意味です。

風呂で使う限りでは、泡立ちや使用後のすっきり感は、どうも固形石鹸の方が液体石鹸に勝る気がします。

 

ただ、手洗いのような少量使用時には、違いは気になりません。

むしろ、使い勝手の面から、液体石鹸の方がいいと思っています。

 

てなことを考えていくと、

「じゃあ固形石鹸を溶かしてボトルに入れておけば最強じゃん」

ということも思いつくかもしれませんが、そうなるとは限らないんですよね。

実はほんのちょっとだけ、成分が違うのです。

 


自由研究のネタってのは、本当はこうやって探すものですよー。

来年あたり、誰か固形石鹸を溶かしてボトルに入れて、使いこごちを比べるなんて実験はいかが?

または、液体石鹸を乾かしたら固形石鹸になるかどうか、なんてのとか。


 

その違いは自分で調べてもらうとして、その前に、まずは石鹸とはどういうものか、石鹸を使うとなぜ手がきれいになるのか、そもそもなぜ手の汚れは水だけでは落ちないのか、という話をします。

 

例えば、外で草むしりをして、手に土が付きます。

そのまま水洗いをするだけでも、時間をかけてがんばれば汚れは落ちますが、石鹸を使った方が早く落ちます。

なんででしょう? という話。

 

皮膚には毛穴があって、そこから毛が生えています。

穴ですから、放置しておくと病原菌の入り口となってしまいますので、それを防ぐために中から皮脂という油を出して保護しています。

この油は、毛穴の保護の他に毛髪表面の保護や、皮膚そのものの保護の役割もあります。

 

というわけで、人間の皮膚は、通常は油分で覆われています。

ここに例えば土が付くと、皮膚の上は油に溶けた土がくっついているという状態になります。

これを落とすためには、油を流し落とさなければいけません。

しかし、水に油は溶けません。

これが、水だけでは汚れが落ちにくい理由です。

 

一方、石鹸には、「油と水を混ぜる」作用があります。

 

石鹸の分子は細長い形をしているのですが、一方が「水に溶ける部分(親水基)」で、もう一方が「油に溶ける部分(疎水基)」となっているために、水と油を「つなぐ」ことができます。

その性質から、石鹸分子は油を取り囲んで、油を水中に「溶かし出す」ことができるのです。

 

なお、石鹸分子が油を囲んだ状態をミセルといいます。

 

 

石鹸のような性質を持った物質を、「界面活性剤」といいます。

なお、肝臓で作られる胆汁も同じ性質を持っていて、消化管内の脂肪を他の物質と混ぜる働きをしています。

 

このような石鹸分子は、脂肪酸(脂肪を消化したときにできるアレ)にちょっと手を加える(鹼化)だけでできあがります。

実は、石鹸は油から作っているのです。

 

さて。

今時は手洗い石鹸といえば、公衆の場所でも大抵が液体石鹸ですが、昔はよく固形の石鹸がそのまま置いてあったりしたものでした。

(「シャボネット」は例外として)

 

そして大抵、長い間放置された石鹸は、表面には同じ方向に何本ものヒビが走っていて、しかもカチカチに固くなっていて、泡が立たないんですよねこれがまた。

でもこの現象にも、ちゃんと理由がありました。

 

まず、同じ方向にヒビが入るのは、工程上の問題でした。

機械練りという方法で石鹸を製造するとき、棒状に押し出すために、結晶の向きが揃ってしまうからだそうです。

枠練りという方法で作られた石鹸では、これは起こらないとのことです。

 

また、石鹸は様々な温度に対応できるように、低温から水に溶けやすい柔らかい成分と、高温で洗浄力を発揮する硬い成分が混ぜてあるのだそうです。

ところが、湿度の多い所に放置しておくと、水に溶けやすい成分だけが流れ出てしまって、硬い成分だけ残った石鹸になってしまうのだそうです。

 

ということは、硬くなってしまった石鹸は、お湯で使えばよかったのですね。

30年前の自分に教えてあげたいです。

 

また当時は、屋外の水道に、ネットに入れた石鹸をかけておくと、よく無くなったものです。

昔の学校の先生とかは、誰が盗っていくのか結構悩んだらしいのですが、この犯人は、今ではカラスだとわかっています。

カラスが石鹸を食っちゃうんですね。

先に述べたとおり、石鹸というものは脂肪をちょっといじっただけのものですから。

 

最後は、最近の若者には縁の無い話でした。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ136 ポンチョ(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2013.02号

 

娘の着る服を、ほとんど父親が選んでいるという家庭があるらしいですが、そんな父親がこんな所にいます。

どうもこんにちは。

 

だって朝、服を選んで着替えさせているのは俺だし。

 

私の趣味に合わない服を貰うこともあるのですが、朝、私が出さなければ、結局ほとんど着ないことになっちゃうわけですから。

 

そんなわけでここ3~4年は、女性のファッションと、その流行にずっと興味を持っています。

キモいよねホント。

俺もそう思う。

 

そんなキモおじさんによると、今年はポンチョ(あれってケープじゃないからね)を着ている女性が特に多いようです。

何年か前から少しずつ流行していましたが、この冬は、これまでになく見かけるようになりました。

流行のピークが近づいた感があります。

 

ご存じの方も多いかと思いますが、ポンチョは、中南米の民族衣装に由来します。

中南米といえば、メキシコとか、ペルーとか、アンデスとか、メキシカンハットとかウクレレとか、チャランゴとかケーナとかフォルクローレとかコンドルは飛んでいくとか、あのあたりを想像していただければ、と思います。

 

 

 

形状についての説明は省きますが、簡単に言うと貫頭衣(かんとうい)の一種です。

貫頭衣とは、布に穴を空けて、頭から被る服のことです。

日本でも、弥生時代は貫頭衣を着ていたとされています。

 

 

ポンチョの場合は、かつては革製だったそうです。

それが後に毛織物となって、現在に至ります。

「本物のポンチョ」の生地の大きさは3.6m×2.4mもあるらしいです。

最近よく見るショールサイズのものとは違って、相当大きいようですね。

地面に座り込むと、足を覆うことができるのだとか。

 

ただ、ポンチョといえば、私にとってのイメージは、民族衣装以外にもあと2つあります。

 

1つはレインポンチョ、もう1つは迷彩ポンチョです。

 

名前からおわかりの通り、レインポンチョは雨具、迷彩ポンチョは軍用品なのですが、この2つには深い関係があります。

 

アメリカ南北戦争の時、軍から兵隊にポンチョが支給されました。

これは、ゴム引きの防水布でできていて、雨具兼「寝るときのシート」として使われたそうです。

 

その後、アメリカ軍に採用されたポンチョは、米比戦争(1900年頃、アメリカがフィリピンを侵略、制圧した戦争)のころには改良されてハイネックが付きます。

第一次世界大戦の時は、背嚢を雨から守ったり、広げて屋根として使われたということです。

(この辺り、元資料が英文なので、もしかしたら少しズレた解釈をしているかもしれません)

 

さらに第二次世界大戦(WW2)の頃から、迷彩模様のものが採用されています。

そしてWW2後には材質がナイロンとなり、現在の米軍でも使われています。

雨具以外としても、野外における隠れ家(shelter)となります。

また資料によると、ハンティング、キャンプ、救助作業にも使われています、とあります。

 

 

また別の資料によれば、軍用ポンチョには内張がボタンでとめてあって、外せば毛布としても使えるのだそうです。

上の図以上に本格的なテントも作れるようになっているとのことです。

 

テントになるポンチョは、WW2のドイツ軍で初めて使われました。

4人で4枚合わせるとテントになるように、ポンチョを三角形にしてあります。

この形状のポンチョは、今でもドイツ軍に採用されています。

 

 

また、このポンチョは「お手軽迷彩服」としても愛用されていたようです。

 

当時のドイツ陸軍の軍服は、緑一色のものでした。

大戦後期には迷彩服の生産も始まるのですが、生産が間に合わなかったために、多くの部隊には行き届きませんでした。

ですから、上からポンチョを被ることで間に合わせていたようです。

 

そういうわけで、ドイツ兵がポンチョを来た写真は、これまでにもさんざん見ていました。

しかし、アメリカ兵の写真で、ポンチョ姿なんて見たことがありません。

ですから、今回調べるまで、WW2のアメリカ軍にポンチョがあったなんて知りませんでした。

そこで、ネットをさんざんひっくり返してみたら、その理由っぽい写真が見つかりました。

WW2アメリカ海兵隊の写真です。

 

 

わかりにくいですが、背中に背負う装備を包んでいる迷彩柄の布がポンチョです。

確かにこんな写真ならば何度も見ましたが、まさかあれがポンチョだとは思いませんでした。

 

そんなわけで、軍用ポンチョ最高という結論が出てしまいましたが、残念ながら、おしゃれに着こなすのは困難に思われます。

 

でも「この上着、テントにも毛布にもなるんだぜ」とか言っちゃうと、小中学生男子は飛びついてくるだろうなあ。

ほぼ間違いなく。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ107 果物(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2010.09号

 

私は筑波大の生物にいたのですが、そのころの恩師(元教授)が現在、学園都市で「サイエンス・キッズ」というものを主催しています。

小学生を対象に理科などの教育活動(といったら少し違うかな?)を行っているのですが、ウチの子も、今年度からこれに参加しています。

 

そしてつい先日、それのキャンプがありました。

その際、「レクリエーション」の時間に、即席の「講師」として、果物についてのウンチクを垂れてきました。

そのために一夜漬けで調べたおかげで、果物についてちょっと詳しくなりましたので、そんな話をしましょう。

 

まず、果物というものの定義から。

 

リンゴ、カキ、キウイ、マンゴー……と、スイカ、メロン、バナナ、イチゴ……。

今、果物を二つのグループに分けてみたのですが、どういう分け方かわかりますか?

 

二つに分けたうち、前者は紛れもない果物です。

しかし、後者は分類法によっては野菜とされるものです。

 

果物とは何か、を決めるとき、その線引きが難しい場合があります。

 

例えば、メロンはウリの仲間です。

普通のウリは野菜に、メロンは果物に分類したとしても、甘いウリであるマクワウリは、どっちに入れればいいのかかなり微妙な存在になってきます。

つまり、厳密な定義が非常に難しいのです。

実際、トマトは野菜か果物か、なんて話は、過去にアメリカで国を相手に裁判にまでなったくらいです。

 

そこで、法律など厳密さを求められる場合は、植物学的分類のうち、「樹木」は果物、「草本」は野菜、と分けることにしています。

それに従うと、一年から数年で枯れてしまう「草」にできる実は、全て野菜ということになりますので、スイカやイチゴは野菜、とも言えるのです。

 

果物は、全てが植物の「実」であることは間違いないのですが、その実のできかたにも、色々な種類があります。

 

例えば、カキの構造を見てみます。

カキには一番外側に薄い皮があり、その内側に厚い層があり、種子の周囲にもう一つ薄い皮があり、さらに中に種があります。

この三層構造を、外から外果皮、中果皮、内果皮と呼びます。

従って、カキの食べる部分は、中果皮ということになります。

(図参照)

 

 

同様に、スイカの場合は一番外の緑色の皮が外果皮ですが、その内部の白い部分が中果皮にあたります。

そして、赤い部分は内果皮であり、スイカは内果皮を食べていることになります。

 

メロンはスイカと同じウリの仲間ですが、こちらは中果皮を食べています。

メロンの場合、中心に種の入った「穴」が開いていますが、その穴の周囲が内果皮になります。

 

ミカンなどの柑橘の場合は、皮のうちの橙色の部分だけが外果皮です。

皮の内側についている、白いスポンジ状の部分は中果皮です。

その内側の、「実」の入った袋が内果皮です。

つまり、ミカンでは「果皮」は食べる部分ではないのです。

 

では、すっぱいあの部分は何かというと、種の周辺の毛が変化したものなのです。

メロンを切ると、種が糸状のもので芯につながっていますが、ああいう糸がふくらんだのが、ミカンの食べる部分となっているのです。

 

 

モモの場合は、カキ同様、中果皮を食べます。

外側の皮が外果皮、食べる部分が中果皮なのですが、内果皮は非常に硬い殻状になっています。

そして、その内側に種子があります。

モモを食べると、中にでっかい「種」が一つ入っているように見えるのですが、あれは実は種そのものではなく、内果皮なのです。

あの中にあるのが、本当の種です。

ウメも同じで、梅干しの「天神様」が種です。

 

モモのように、内部に種の入った殻を持つ植物は、ウメやスモモのような近縁種以外にも、マンゴー、プルーンなどがあります。

このような殻は、核果(かくか)と呼ばれています。

ブドウの種も、同じく核果です。

 

リンゴやナシは、さらに違う構造で成り立っています。

リンゴを切ると、中央の種の周囲だけ少し違う色で、少し酸っぱくて「芯」として捨てますよね。

でも、あそこがリンゴの「本当の実」なのです。

その周囲の、実際に食べる部分は、花床(かしょう)または花托(かたく)と呼ばれる、花の付け根の部分がふくらんだものです。

 

このような実は、中学校で習うような、「子房→果実」という流れとは違う部分が「果実」を覆っていますので、「本来の実ではない」ということで偽果と呼ばれています。

 

 

偽果の例は、他にもイチゴなどがあります。

イチゴの食べる部分も花床です。

イチゴの花は、花床から多数のめしべが出ています。

その一つ一つが実となり、肥大化した花床の表面につきます。

つまり、イチゴの表面にくっついている「種」が、本当の実なのです。

 

これまでは、一つの花からできる実の話でしたが、パイナップルの場合は、また違います。

一つの軸から多数の花が咲き、その実が全部つながってしまったのものが、あのパインとなります。

皮のでこぼこした部分、一つ一つが花のあとです。

パインの断面を見ると、表層付近に穴が開いていますが、あれが内果皮の内部、種のある部分です。

イチジクもそういう意味では似た構造なのですが、内と外がパインとは逆転しています。

 

 

果物に関しては、他にもまだネタはあるのですが、今回はこのへんで。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ141 ウイルスは生物か(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2013.07号

 

生物を学びたくて大学へ行った者です。

 

私に限らないと思うのですが、自分の得意分野に関して、世間様で聞く内容につっこみを入れたくなることがあります。

先日もNHKのラジオで「ウイルス菌が云々」と言っているのを聞いて、「ウイルスは菌じゃねえよ」と一人でつぶやきながら運転する私なのですが、同じようなことってありますよね?

 

菌といえば、20年近く前、当時流行した二十四時間風呂のセールスマンが、「バクテリアという菌が~」という説明を始めたときのことも忘れられません。

菌を英語で言うとバクテリアだよ……と言いかけてやめたあの頃は、何にでも悪態をつく今よりも若かったんだなあ、と感じています。

 

とは書きましたが、普通の人にとっては、菌=バクテリアとウイルスの違いなんて、はっきりいってどうでもいいことだと思います。

カットソーやチュニックの定義なんて知らなくても、買って着ることに対して何も困らないのと同じでしょう。

 

ですが敢えて言います。バクテリアとウイルスは、色々なものが根本的に違います。

なんせ、ウイルスはそもそも、生物とは認められていないのです。

 

ではウイルスは、生きていないのかというと、生きていると言っていいのかどうかが、少し微妙な存在なのです。

ある意味、生きていると考えることもできますので、「生き物」と呼んでも差し支えないのかもしれません。

しかし、生物学的な分類では、「生物とは言えない」ということになっています。

 

生きていても生物とは言えない例は、ほかにもあります。

例えば、人間の細胞。

一つ一つは、確かに生きています。

皮膚を切り落として放置しても、しばらくは個々の細胞が生きていますし、そのうちに死にます。

しかし生きているとはいえ、切り落とした皮膚の一部を一つの「生物」とは呼べません。

生き物イコール生物、というわけではないのです。

 

これは、「虫」と「昆虫」の違いのようなものだと考えてください。

この二つの言葉は、普段は同じような意味で使っていますが、厳密には違います。

 

虫という言葉には、特に定義はありません。

「小さい動物」というくらいのものです。

しかし、昆虫には「節足動物門昆虫綱に分類される生物」という定義があります。

 

これと同様に、生き物という言葉には特に定義がありません。

しかし、生物という言葉に対しては、定義を設けようとする人たちもいます。

 

生物の定義にはまだ諸説あるのですが、地球上の生物に限っては、

1. 自己増殖する
2. 代謝する
3. 恒常性の維持
4. 細胞から構成される
あたりを挙げるのが一般的なようです。

 

各項目について説明します。

 

1. の自己増殖とは、

「自己の体を分離させることで自己と同じ姿の生物を作り出す」

というような定義となっています。

 

2. の代謝とは、

「エネルギー源を内部に取り入れて、それを分解することでエネルギーを作り出すこと=異化」

「エネルギーを使って有機物を作り出すこと=同化」

の総称です。

簡単に言うと、「食べること」と「育つこと」ができるか、ということです。

 

3. の恒常性とは、

「変化に対して内部を保とうとすること」

です。

人間ならば、血圧や体温の調整、病原菌の排除などです。

 

4. の細胞には、

「リン脂質による二重膜に包まれている」

「細胞質で満たされている」

などの決まった特徴があります。

この特徴は、地球上の全ての生物に共通となっています。

 

さて、先に挙げたバクテリアは、この四つの条件を全て満たしますので、余裕で生物と言えます。

しかしウイルスは、知る限りこの4つの条件を満たしてはません。

 

まず 4. から。

ウイルスはDNAなどの遺伝子と、それを覆っている蛋白質のカラしかありませんので、細胞とは言えません。

 

また、ウイルスにはエネルギーを作り出す能力がないので、 2. と 3. が無理なはずです。

が、もしかしたら私の勉強不足だったり、科学的に未解明だったりするかもしれませんので、この2つは保留とさせてください。

 

最後に、 1. に関して。

ウイルスは増えますが、増え方が生物の常識から外れています。

 

ウイルスの増殖法

 

上の図は「ヒトに寄生するウイルス」ですので、それに合わせて説明します。

 

ウイルスは、ヒトの細胞内部に侵入するとまず、自分のカラを開くなどして、中の遺伝子をヒトの細胞内に放出します。

すると、その遺伝子を読み取ったヒトの細胞は、その情報を「上からの指令」と勘違いして、ウイルスのカラと遺伝子を作る作業を始めてしまいます。

そうやって量産されたウイルスが細胞の外に放出されることで増殖するのです。

 

つまり、ウイルスはウソ情報を流しているだけで、量産作業しているのはヒト細胞ですし、ウイルスの材料もヒト細胞のものです。

 

しかも、最初に着ていたカラはさっさと捨てちゃっていますので、侵入してから第1号が完成するまでの間、ウイルスは一時的に細胞内から消滅しているように見えます。

 

こんなのはやっぱり、生物とは言えないと思います。

私からすれば、ウイルスの増殖は生命活動ではなくて、単なる化学変化です。

 

しかし、ウイルスを破壊、もしくは無効化することを「殺す」と表現することもあります。

「ウイルスを滅菌・殺菌」というような言葉は、実際に薬とか医療関係では使われているみたいですので。

殺すことができるなら、やっぱりウイルスも「生き物」ということになってしまいます。

 

え?「殺菌」ですって?

ああ……

また菌という言葉が出てきてしまいました……

 

最初に書いたとおり、生物学的には、ウイルスは菌でないのです。

しかし……

こうなったら、広義の「菌」にはウイルスも含まれる、と解釈することにします。

前言撤回ですわ。

 

だってそうしないと、いくら殺「菌」しても、ウイルスには全く関係ないことになってしまいます。

ぼくの所だけウイルスが「死」んでない、というのは嫌ですからね。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ82 虫博士2008夏(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2008.08号

 

さて、今年も夏休みのいい季節がやってまいりました。

 

それに先だって、先日は子供が通う幼稚園に、虫に関するウンチクを垂れに行って参りました。

一時間近く話していたのですが、最後まで飽きた様子もなかったので、どうやら成功だったようです。

 

それはいいのですが、翌朝から、幼稚園バスが来てドアが開くと、乗っている園児がみんなして「むしはかせ~」と手を振ってくるようになってしまいました。

そこまでされると、次から何か用事があっても、幼稚園に行きにくくなってしまうでありますよ。

うむむ。

 

ともあれ、そんな原稿をせっかく作ったので、こちらでも披露致します。

実際には、100枚近くの画像と10種ほどの鳴き声の音声データを使いました。

また、用語や表現なども、当日はもっとずっと園児向けでした。

 

* * *

 

「むし」ってなんでしょう?

 

象や犬は、違いますよね。

スズメもメダカも違うと思います。

では、トカゲはどうでしょう?

カエルは?

ザリガニ、カニ、カタツムリ、ムカデ、ダンゴムシ、クモ、クワガタ、イモムシ……

どれとどれが虫でしょうか?

 

(画像を見せながら、トカゲ以下は園児に

「虫と思う人ー」「虫じゃないと思う人ー」

と手を挙げさせてみました。

クワガタ以外は、必ず両者に手が挙がりました)

 

まず、象や犬は、「どうぶつの仲間」です。

スズメはとりの仲間です。

メダカはさかなの仲間です。

 

さて、トカゲは、オトナの人達は「小さい動物」と言うことが多いでしょう。

しかし昔は「虫」とされていました。

ですから、虫と言っても虫じゃないと言っても、どちらも正解です。

(トカゲは漢字で「蜥蜴」→虫偏です)

 

以下、ザリガニも同じです。

虫でも虫じゃなくても正解です。

ザリガニとカニは同じ仲間ですね。

(蟹、蝦も「虫」ですね)

 

カタツムリは貝の仲間です。

仲間にナメクジがありますが、あれは貝殻の無くなった貝です。

種類によっては、カラが少し残ったナメクジ(コウラナメクジ)もあります。

また、貝とイカやタコは同じ仲間(軟体動物)です。

 

ムカデは、ゲジなどと共に「足の多い虫」の仲間です。

ダンゴムシは、エビの仲間です。

ヨコエビというエビがいまして、それに近い仲間です。

クモは、サソリと同じ仲間です。

 

 

そしてクワガタやイモムシは、昆虫の仲間です。

幼虫では足の多い(蝶の幼虫など)少ない(ハチの幼虫は無足)もありますが、親では足が六本であることが、まあわかりやすい特徴でしょう。

今日は、昆虫の話をします。

 

まず、カブトムシ、クワガタ、テントウムシ、カミキリ、ホタル、タマムシ、ゲンゴロウ……。

これらは、こうちゅう(甲虫)という、同じ仲間です。

 

次に、ハエ、カ、ガガンボ、ハナアブ……。

こちらも同じ仲間です。

ハナアブはハチに似ていますが、頭をよく見るとハエと同じ形をしています。

ハチにそっくりな模様でいることで、敵から身を守っています。

 

 

モンシロチョウ、アゲハチョウ、シジミチョウは、みんな蝶の仲間です。

また、蛾も蝶と同じ仲間です。

蛾といっても、きれいな羽の蛾もいます。

スズメガという、すばやく飛び回るかっこいい蛾もいます。

ミノムシも、ミノガという蛾の幼虫です。

ただし、雄は成虫になると蛾の形になりますが、雌はミノの中で一生を過ごします。

 

スズメバチ、ミツバチ、クマバチは、ハチの仲間です。

アリも、ハチの仲間です。

みんなで集まって巣を作るところはミツバチと同じですし、よく見ると体の形はアシナガバチによく似ています。

ハチのように針はありませんが、ハチの毒と同じようにアリも毒のようなものを出します。

大きいアリを捕まえると、酸っぱい匂い(蟻酸・HCOOH)を出します。

ハチの中には、クモを捕まえる種類もあります。

他に、バッタを捕まえる種類もあります。

 

カメムシは、カメムシの仲間です。

アメンボも、カメムシの仲間です。

アメンボも、捕まえると匂いを出します。

この匂いが飴の匂いだからアメンボと名付けられた、とも言われています。

アメンボは、水に落ちた虫の血(体液)を吸います。

前足は、虫を捕まえるための形をしています。

水に住むカメムシには、タガメという虫もいます。

魚やカエルを捕まえて、血を吸います。

 

セミは、カメムシに近い仲間です。

カメムシもセミも、木の汁を吸っています。

今の季節に鳴いているのは、ニイニイゼミという種類です。

7月の終わり頃まで鳴いています。

このあと登場するアブラゼミより、澄んだ声で鳴きます。

ヒグラシは、朝と夕方にだけ鳴きます。

鳴き声から、カナカナとも呼ばれています。

8月頃からは、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシが鳴きます。

 

バッタ、コオロギ、キリギリスは同じ仲間です。

カマドウマも同じ仲間です。

今の季節は、ヒメギスというのが昼間から鳴いています。

もう少し経つと、キリギリスが鳴き始めます。

やはり昼間に鳴きます。

ケラも、同じ仲間です。

モグラのように、地面の下に住んでいます。

コオロギの仲間ですので、地面の下で鳴きます。

 

 

その他、トンボの仲間があります。

ゴキブリは、カマキリにとても近い仲間です。

少し前までは同じ仲間とされていました。

ナナフシという虫もいます。

ゴキブリ、カマキリ、ナナフシは、バッタに少し近い仲間です。

アリジゴクは、ウスバカゲロウという虫の幼虫です。

成虫はトンボみたいな形ですが、トンボとは違う仲間です。

 

* * *

 

以上、完全に幼児向けに作った流れなのですが、話している途中に何度も、園児の後ろの方から「へえ~」と感心する先生の声が。

 

これ、お前ら向けじゃないぞ(笑)

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ66 除菌・抗菌(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2007.04号

 

さて。今回は久しぶりに、アヤシイ言葉の検証をしてみようと思います。

 

最近、「除菌」という言葉をよく聞きます。

なんでもかんでも除菌です。

つい先日も、幼稚園のお母ちゃん友達と話をしていて、何かの話をしているときに

「○○って除菌もできるそうだし」

という話が出ました。

 

でもそれを聞いたとき、あれっ?と思ったのです。

 

そういえば、少し前まで流行っていたのは「抗菌」だったはずだよなあ。

 

そもそも、殺菌という言葉があります。

注射をうつ前に、アルコールの脱脂綿で拭くのは、確か消毒と呼んだはずです。

なんで殺菌とか消毒とかいう言葉を使わずに、わざわざ「除菌」なのでしょうか。

 

大抵こういう時には、ウラがあります。

そう思って調べてみたら、すぐに出ました。

 

おほほほほ。

予想通りでしたよ。

 

ま、とりあえず、一通り解説していきたいと思います。

 

最初に、一番よく使う言葉「消毒」です。

関連が深い「殺菌」と「滅菌」も一緒に説明します。

 

殺菌は、言葉通り菌を殺すことです。

ただし、どのくらいのレベルまで殺せば殺菌というか、という定義はありません。

 

しかし、滅菌は違います。

ここには、厳密なレベルの定義があります。

 

もとの意味としては、

「対象物に存在するすべての微生物を、有害無害を問わず除去すること」

ということらしいのですが、完全なる除去というのは非常に困難なので、国際的に「生存確率が百万分の一」と定められているようです。

要するに、ほぼ無菌といえる状態のことでしょう。

ですから、滅菌という言葉が使われるのは、ほとんど医学的な場面に限られてきます。

滅菌ガーゼとかね。

 

で、消毒という言葉なんですが、これは殺菌と滅菌の中間みたいな言葉です。

 

一応定義とされているのは、

「有害な微生物を、害のない数まで減らすこと」

となっています。

この場合、無害な微生物はいてもかまわないようです。

言葉どおりですね。

ですから、「殺菌消毒」といえば消毒を目的とした殺菌でしょうし、「滅菌消毒」ならば、消毒目的の滅菌となります。

 

この辺りまでは、だいたい言葉どおりの定義です。

ただし、以上のうちの「殺菌」に関しては、極端な話ちょっとでも菌を殺すことができれば、もう立派な殺菌作用があると言っても、間違いとは言えません。

 

ということを踏まえると、この先はアヤシイ世界となってくるわけですねえ。

 

まずは、「抗菌」。

 

この言葉は、私は以前から定義を知っていました。

この「抗」という字は、何に抗している意味なのかというと、「細菌の繁殖に対して」というのが正解です。

一応ね。

 

抗菌には、主に銀が用いられます。

銀を表面につけておくことにより、細菌の繁殖を抑えられる、という仕組みのようです。

ただし、その具体的なシステムに関しては、まだ諸説があるようです。

主に二つの説があるのですが、その内容は割愛します。

というのも、書き始めると長くなる上、生物学的な基礎知識が必要な話になるからです。

 

でも結局は、菌に働きかけて殺す、というシステムであり、繁殖を阻害するという仕組みではないようです。

ですから、なぜこの場合に限っては殺菌と言わずに抗菌と言うのか、というのが今ひとつわからないところです。

アヤシイですねえ。

怪しいんですよ。

もしかしたら、「殺菌」ほどは即効性がないから、なのかもしれません。

 

実は、銅や金にも同様の効果があります。

 

しかし、金と銀はほぼ完全に無害であるのに対して、銅は化合物によっては全くの無害とは言えない場合があります。

また、金は溶けにくい物質なので、工業製品として加工しにくいという欠点があります。

金に限っては、銀よりも高価ですしね。

 

というような理由から、抗菌には銀が使われています。

実は古くから、銀食器に水や食べ物を入れると、腐りにくい効果があることは知られていたようです。

 

また、排水口や三角コーナーのような、口に入ることがないような場所に限ってなら、「抗菌」として銅が使われることもあります。

ただしここでもまた、言葉のカラクリがあったりするんですねえ。

 

売り文句としては

「ぬめりの原因となる雑菌の繁殖を抑える」

というのが一般的です。

そして銅は雑菌の繁殖を抑えますし、ぬめりの原因は雑菌の繁殖です。

ここまでは確かです。

しかし、JISの規格によれば、工業製品の「抗菌」の対象には、ぬめり自体は入っていないんだそうです。

つまり、ぬめりがつかないわけではない、という変なことに。

 

抗菌の話は、もうそのあたりでいいでしょう。

次はいよいよ「除菌」です。

 

文字通りにとれば、本来の言葉の意味は、「菌を除く」です。

そして実際に、現時点では各メーカーそれぞれの基準にしたがって、自由に「除菌」を名乗っています。

当然、殺菌効果は必要ありません。

 

フフン。

やっぱりね。

 

要するに、普通の石鹸でも除菌はできるということです。

もっというと、単なる水洗いでも「除菌」で間違っていません。

除菌という言葉に惑わされた方、ざ~んねんでした。

 

ただ一応、前述したとおり「各メーカーによる基準」というものはあるようですから、「当社比」までは信じてもいいでしょう。

 

さて、これではあまりにもアレだということになって、業界では除菌の定義を定めようという方向に向かっています。

この辺りは、さすが日本の企業です。

 

「洗剤・石けん公正取引協議会」において、

「台所用洗剤と住宅用洗剤の除菌表示に関する公正競争規約の追加・改訂案が正式に承認され、

公正取引委員会に申請、同委員会から承認決定されました」

となっています。

 

しかし、これが決定したのが昨年(2006年)の9月のことで、しかも2年の猶予期間が設けられています。

というわけですから、あと2年ほど経つまでは、「除菌」の効果はプラシーボ程度と思ってしまってもいいでしょう。

 

ちなみに、先に挙げた「抗菌」も、同じような経過をたどっています。

すなわち、乱発したあとに統一基準ができ、今では業界内における定義が定まっています。

最近はすっかり抗菌グッズを見なくなりましたが、おそらくこの基準を越えられないものばかりだったのでしょうね。

 

つまりはそういうことです。

 

さ、2年後が楽しみです。

どれだけの物が消滅するでしょう。

またその頃には、どんな新語がひねり出されていることでしょうか。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ180 衣類の名称:レギンス・スパッツ・セーター他(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2016.10号

 

中3生と、英語の話をしていたときのことです。

 


「一枚の紙はa piece of paperだし、ケーキ一切れはa piece of cake」

「ピースって、平和だと思った」

「それはスペルが違う。

ジグソーパズルなんかでピースって言うよね。

そのピースのこと。

かけら。

部品」


なんてことを話していたら、女性衣服のワンピースが何でワンピースというのかを知らなかったということが判明。

「つながっていてひとつの部品だからワンピース」

というと、なんかびっくりしております。

おや、今まで気付いてなかったんですか。

 

でも、案外そんなもんかもしれません。

 

私もつい最近、コインロッカーとかロッカールームのロッカーという言葉は、カギをかけるロック(lock)から来ているということに、初めて気付いたところです。

でも、かばんを置く棚のことをロッカーだと教わったのは何せ幼稚園の頃でしたので、無理もない話です。

というかあの教室の後ろの棚って奴は、フタすら無くて施錠(ロック)とは無縁の形状をしているくせに、よくもいけしゃあしゃあとロッカーなどと名乗れたものです。

 

話を戻しますと、ワンピースはともかく、ファッション関係の用語に関して言えば、次から次へと新語が登場しています。

新しい言葉の方がなんだかオシャレのような気がするという、しょうもない理由によって。

 

でも、ズボンがパンツになっても、ジーパンがデニムになっても、チョッキがベストになっても、モノは同じなんですよね。

だからといって、レギンスを股引(ももひき)と呼べ、というわけではありませんが。

 

今レギンスと言いましたが、少し前まではあれのことはスパッツと呼ばれていました。

厳密には、レギンスとスパッツは使い分けられているらしいのですが、少し前までは確かに全部スパッツでした。

 

しかしスパッツとは、元々は脚絆(きゃはん)のことです。

ゲートルとも言います。

ズボンの裾をまとめて歩きやすいようにしたり、靴に雨水が入らないようにしたりするためのカバーのことです。

登山用具でスパッツといえば、ブーツ上部に付けるカバーのことで、これがこの言葉の本来の姿です。

雪山などで使います。

私も持っていました。

 

 

一方、レギンスの方はといえば、元々は脚絆(きゃはん)のことです。

ゲートルとも言

 

……やっぱり同じなのでした。

 

なお諸外国では、レギンスleggingは日本と同じものを指しますが、スパッツspatsは本来の意味のものを指すようです。

 

 

さて、衣類の名称といえば、以前から不思議なのが「ジャンパー」です。

あ、ジャンーでもいいですよ別に。

私もそう呼んでいますから。

 

英語で書くとjumperです。

スキージャンパーと同じです。

しかし、jumperと画像検索すると、丸首のセーターが大量に引っかかります。

どうやら、諸外国ではこれがjumperと呼ばれているようです。

 

では、防寒の上着はというと、ジャケットjacketというようです。

だから、革ジャン・Gジャン・スタジャンなどという呼び名は、日本だけということになるわけですね。

 

ところが、ジャンパースーツjumpersuitと検索すると、今度は少し涼しげな上下つなぎ姿が現れます。

ジャンプスーツjumpsuitの方が確実です。

こちらはどうやら、パラシュートで降下する兵(空挺兵)を指すジャンパーjumperから来ているようです。

空挺兵がつなぎを着ていたので、つなぎ服のことをジャンパーと呼ぶようになったそうです。

 

ところで、先ほどjumperがセーターなんて話がありましたが、セーターは英語ではsweaterと書きます。

sweatは汗のことですから、sweaterは汗っかきのことです。

 

これはその名の通り、元々はスポーツ選手が汗をかいて減量する時に着た、というところから来ているようです。

 

セーターは、かつては寒い海で漁をする際に着用されたのが始まりで、イギリス海峡のガーンジー島とジャージー島が起源とされています。

また、その編み方をジャージー編みと呼び、そうやって編まれた布はジャージー布、その布でできた服はジャージーと呼ばれ……

つまり、ジャージって、セーターのことだったんですね。

 

でもジャージー編みなんてあったっけ、なんて思ったのですが、これはメリヤス編みのことなのだそうです。

 

あとですね、TシャツはT字型だからそう呼ぶのですが、ワイシャツはYとは関係ないって知ってました?

あれは、ホワイトの「ワイ」なのです。

だから英語でT-shirtはあっても、Y-shirtはありません。

英語では、単にshirtといえばワイシャツのことです。

 

シャツという言葉の由来は古ゲルマン語のskurtaz(短く切る)なんだそうですが、では短く切らない服はといえば、それはチュニックtunicのことです。

チュニックですよ。

 

今やチュニックといえば半端に長い女性用の上衣のことを指しますが、元々は古代ギリシャや古代ローマの服装であるトゥニカtunicaから来ています。

ですからGreek tunicやRoman tunicで画像検索すると、こんなのがいっぱい見られます。

 

 

しかし、これでは少々シンプルすぎて、ちょっと奴隷っぽいですよね。

もうちょっとおしゃれに高級感を演出するためにも、この上にトガtogaを着ることにしましょう。

 

 

うん。ステキですね。

これからは、チュニックにはトガを合わせて外出するようにしましょう。

イッツおすすめ!

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ21 あるある→アミノ酸ブーム(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2003.07号

 

さて、最近の世間様ではまたアヤシイものが流行っているようです。

それは、

 

「アミノ酸飲料」

 

って、いや、ちょとまてくだーさい。

 

アミノ酸って、ただの蛋白質の構成要素ですがな。

肉食ってりゃ足りまっせ。

今時普通に生活していて、肉不足な人なんてきいたことないでげすよ。

 

と云うわけで、なんでこんなもんが流行っているのか調べてみました。

 

最初の出典は、やっぱり例によってテレビ番組でした。

その中で、「体力アップアミノ酸」「脂肪燃焼アミノ酸」と云うものが紹介されています。

 

その効果を「実験」で比較しています。

 


・アミノ酸を摂ったAさんとBさんは運動後の疲労が少ないが、アミノ酸を摂っていないCさんとDさんは疲労が大きい。

・同様に大量の計算をさせると、AさんとBさんは正解数が高いが、CさんとDさんは正解数が低い。

 

結論→アミノ酸には対疲労効果がある!


 

あ~。

 

あのさあ……。

 

あいかわらずテレビって馬鹿なことやっているんですねえ。

 

個人の元々の体力や計算力のデータは?

正解数はいいけど、正解率は?

まずそれがないとお話になりません。

同一人物の同一条件で、せめて10回は比較しないと全く意味がありません。

 

この番組の公式ウェブサイトでは、くだらない生データを恥ずかしげもなく公表しています。

見ると、最初の「運動」は乳酸量の比較をしているわけですが、

 

Aさん:1.8→7.3

Bさん:2→10.9

Cさん:2→12.9

Dさん:2→15.7

 

これを上昇率で比較してみますと、

 

Aさん:405%

Bさん:545%

Cさん:645%

Dさん:785%

 

棒グラフにすればすぐにわかりますが、BさんとCさんの間に線を引くような結果ではありません。

完全に個人差であると断言できます。

 

次に、単純な足し算を30分続けて、正解数を競ったデータはこうでした。

 

Aさん:1067

Bさん:1134

Cさん:286

Dさん:859

 

Cさんを基準(100)としますと、

 

Aさん:373

Bさん:396

Cさん:100

Dさん:300

 

ここで、100と300を同グループに入れておいて、300と373を別グループに分ける理由は一体何でしょうか。

残念ながら私の理解を遙かに超えていて、全くもって意味不明です。

 

最後にはスポーツ選手やモデルの方のインタビューが掲載され、その効果を歌っています。

確かにアミノ酸摂取による効果があると云うことですが、こういう普段からぎりぎりの栄養摂取を心がけている方々と我々とを比べること自体がお笑いです。

 

普段我々が生活していて、今以上にアミノ酸が必要になることなんてありません。

成人男子が一日に必要とする蛋白質は、たったの70gです。

女性なら60gです。

これに足りていないと思いますか?

 

ではアミノ酸を摂りすぎた場合。

大丈夫、体に害はありません。

でも体は、せっかく摂ったものを無駄にはしません。

脂肪に変えて保管しておくことにしましょうか。

蓄えが増えてよかったよかった。

 

よく通販で見かける「ダイエットアミノ酸」に至っては、飲むだけで寝ている間にどんどんやせるそうです。

もう理解不能。

 

一応メーカー側の弁明もしておきますと。

ある特定のアミノ酸を組み合わせは、運動後の筋疲労の回復を補助する効果が見られると云う研究結果もあるそうです。

うまく使えばダイエットにもつながらない訳ではないと云うことです。

 

ただし、ここからが肝心。

どの飲料のウェブサイトを見ても、うまーくごまかされているような印象を受けるのは私だけですか?

 

たとえば、「燃焼系アミノ式」

 


・いわゆる現代人は、(中略)生活スタイルを気にしているのでございます。

こんな皆様には、燃焼系アミノ酸飲料「アミノ式」!

(中略)いつでもどこでも気軽に補給できてしまいます。(後略)

 

・アミノ式には、「燃焼系」をイメージして選りすぐった5種類の(略)


 

アミノ酸にどのような効能があるのか、なぜ必要なのか、一切触れていません。

だいたい燃焼系を「イメージして」ってあんた……

 

テレビCMでも、

「こんな運動しなくても、燃焼系アミノ式」

という文句、私には

「こんな運動しなくても、まあこれでも飲んで落ち着けや」

と聞こえますが。

「おーいお茶」と同レベルですね。

 

さすがに、世界三大アミノ酸メーカーである味の素(もう一つは協和発酵)では、きっちりと「条件付きではやせる」と説明が入っています。

ただしここには「現代人は不足がち」との記述を見つけられません。

おそらくそういうデータが存在しないのでしょう。

 

最後に、我が家の医師の言葉。

 


普通の人でアミノ酸欠乏なんて聞いたことがない。
よっぽど栄養がとれないような病状の患者さんとかならありえないことではないけど、
もうそういう場合は脱水症状をおこしているとか、そういう状態。


 

……今、そういう状態ですか?

 

というわけで結論。

 

・アミノ酸の補給は必要なし。

・ダイエットには運動せよ。

 

以上。

 

学塾ヴィッセンブルク  朝倉智義

あすなろ33 カエル(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2004.07号

 

一応、梅雨だそうです。

 

そう?

ほんと?

 

……雨にちなんで、カエルのお話でもしましょうか。

 

三年前から、庭で稲を育てています。

もちろん商売ではなく、遊びでです。

 

ウチに来る新聞屋さんは、時々オマケとして植物の種を置いていくことがあります。

それがあるとき、「観賞用稲(もちろん食べられます)」と云う種もみでした。

以来、庭に即席の田んぼを作って、育てています。

 

プラ舟ってご存じです?

左官屋さんがコンクリや土を練る時に使う、四角い桶のことです。

今年は、このプラ舟に土と水を入れて田んぼを作りました。

それでも少々作付け面積が不足しましたので、追加で小さいバケツも田んぼにしました。

 

とやっていたら、そのうちの小さいバケツの中に、オタマジャクシが「湧き」ました。

それまでしばらく棲んでいたのがアマガエルだったし、他の鳴き声も聞いていないので、多分このオタマジャクシもアマガエルだと思います。

アマガエルのオタマジャクシは特徴的な顔をしていると聞いていますが、現時点では小さくてよくわかりません。

 

って書くと、また「カエル詳しいんですね」とか云う方がいらっさいますが、そうでもないです。

カエルはどちらかと云えば専門外です。

それでも、この近辺で見られるカエルは、全種類区別できますよん。

ふふん。

しゅごいでしょ。

ふふふん。

 

──でもそれには、ちょっとしたカラクリがあります。

 

日本には、43種類のカエルが生息しています。

こんなのすぐには覚えられません。

ところがそのうち、茨城のこの近辺に棲んでいるカエルは、全部で10種類。

実はたった10種類しかいないんです。

 

鳥や虫に詳しくなろうとすると、膨大な種類の特徴を頭に入れなければいけませんが、カエルはたった10種類。

だから、覚えるのも簡単なんです。

 

そのうち、緑のカエルは2種類のみ。

大型で単色のものがシュレーゲルアオガエルで、小型で目の後ろに黒い帯があるのがアマガエル(ニホンアマガエル)。

シュレーゲルアオガエル

アマガエル

 

簡単でしょ。

 

残り8種類のうち、ヒキガエル(アズマヒキガエル)、いわゆるガマガエルと、ウシガエルは見ればすぐにわかります。

ヒキガエル

ウシガエル

 

なので、残り6種類。

 

ツチガエルも、灰色で体表にイボイボを持つのですぐにわかります。

一度見れば絶対に忘れないのですが、見たことないでしょうか。

ツチガエル

 

というわけで、残り5種類。

 

いわゆるトノサマガエルのような、緑に黒班を持つ色のカエルはトウキョウダルマガエルです。

トウキョウダルマガエル

 

残り4種類。

 

カジカガエルは、渓流にしか生息しません。

また、声がかなり特徴的なのと、どうせ滅多に出会えません。

神経質でなかなか姿を見られないこともあり、見た目を覚えるのは後でいいでしょう。

カジカガエル

これで、残り3種類。

 

残っているのは、赤茶色のカエルです。

そのうち、指先が丸いコブ状になっていて、アゴの下に模様があるのがタゴガエル。

タゴガエル

あと残り2種類。

 

赤茶色で指先がコブになっていないのは、ニホンアカガエルとヤマアカガエルです。

この2種類、背中と脇腹の境目に縫い目のような「スジ」が入っています。

そのラインが、まっすぐなのがニホンアカガエル、目の後ろで外側に曲がっているのがヤマアカガエルです。

ニホンアカガエル

ヤマアカガエル

 

 

はい、以上がこのあたりで見られるカエル、全種類です。

これだけ覚えちゃえば、あなたはカエル博士です。

尊敬されちゃうかも~。

 

とは云っても、この近辺で普通に見られるのは、大抵がアマガエルでしょうね。

あとはせいぜい、見るとしてもウシガエルとトウキョウダルマガエルくらいでしょうか。

他のカエルは、すっかり少なくなりました。

 

例えばアカガエル。

かつては、アマガエルと競合しながら、田んぼにも息していました。

毎年、田植え前の水たまりに産卵するのがアカガエル、田植え後に産卵するのがアマガエルでした。

しかし現在では、このわずかな差が、決定的になってしまったのです。

 

最近の田んぼは、稲がある程度育ってくると、水を抜きます(中干しといいます)。

根に空気を通して、発育をよくするためです。

それ以降、田植えの直前まで水をいれません。

そのため、アカガエルは産卵する場所がなくなってしまったのです。

今ではすっかりアマガエル一色です。

アカガエルもいないってわけではないんですけどね。

 

他にも、数の減ってきている種類が結構あります。

アマガエルならよく見かけるので、カエルが減っていると云っても実感がわかないかもしれません。

しかし考えてみてください。

カエルという生き物は、水と陸地と、両方揃ってないと生きられないのです。

 

淡水があれば陸地があるに決まってる?

でもコンクリートの水路で親になっても、吸盤のあるアマガエル以外、陸地にあがれませんよ。

それどころか、誤って水に落ちたカエルが死ぬこともあります。

カエルなのに溺死です。

変ですよね。

でも日本産のカエルって、水中ではエサを捕れないんですよ。

 

カエルは基本的に、身を守る武器や毒を持ちません。

オタマジャクシも同様です。

そのため、様々な動物の重要なエサとなります。

カエルの多い環境には、捕食者が居着きやすいということなのです。

それが、例えばアマガエル一種類だけになるということは、同時にアマガエルの生活サイクルに合わない動物もいなくなるということなのです。

 

つくば市が、トウキョウダルマガエルを中心とした生息分布調査をしています。

調査結果を見る限り、カジカガエルとタゴガエルは見つかっていません。

もう、いないのかもしれません。

 

これで残り8種類……

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ116 トカゲとイモリ・ヤモリ(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.06号

 

トカゲを見かける季節になりました。

 

トカゲといえば、この近辺の里で見られるのは、まず「ニホンカナヘビ」です。

つやの無い茶色い種類で、尾が特に長いのが特徴です。

 

……なんて書くと、「それ普通のトカゲ」なんて言われそうですが、今書いた二点は、他種にはない特徴なんです。

これが日本の庭先で一番多く見られる種類なんですが、それでも一応、日本列島にしか棲息しない、日本固有種です。

 

筑波の自宅周辺でも、見かけるトカゲは、やっぱりカナヘビばっかりです。

ですから、この近辺にはカナヘビしかいないのかと思っていましたら、筑波山にはニホントカゲがいました。

 

 

ニホントカゲは、カナヘビ類とは違って、体がつやつやのピカピカです。

このツヤっぷりは、ニシキヘビやアオダイショウのような感じです。

尾はカナヘビほどは長くなくて、子供の頃は尾が青い金属のように光っています。

成体になると色が変わって、全体的に赤茶色のピカピカになります。

あと、カナヘビよりも敏感で、すぐに逃げます。

 

子供の頃、愛知県の実家周辺では、ニホントカゲもカナヘビも同じように普通に見ることができました。

ところが、色々と調べてみると、どうやらそういう地域は、少なくとも現在では少数派のようです。

この差が、時代的なものなのか地域的なものなのかはわかりません。

 

しかし一般に、カナヘビの方が「街に強い」ようです。

 

カナヘビは、三メートル程度の立木になら登ることがあります。

しかしニホントカゲは、垂直な壁には登れません。

ですので、ブロック塀に囲まれた空間ができると、カナヘビは出入り自由ですが、その中のニホントカゲは個体数の関係から絶滅してしまうことがあるようです。

 

さらに、「カナヘビは茂みに逃げ込み、ニホントカゲは石の下に逃げ込む」なんて記述も見つかりました。

確かに、筑波山で見たときも、河原のそばでした。

ということは、ブロック塀の少ない田舎になると、今度は田畑と草むらばっかりになるので、やっぱりカナヘビ向けの環境なのかもしれません。

 

こんな差が、庭先で見かける頻度の差になって現れてきているようです。

私の子供の頃は、大抵の家では、裏口同士がこんにちは状態で、敷地が壁で仕切られているなんて滅多にありませんでしたから、今とはやっぱり違うんでしょうね。

 

ウチの子もやっていましたが、カナヘビを飼うのは簡単です。

プラケースは登れませんから、土を敷いて、水を与えて、日向において、適当にエサの虫を放り込むだけで飼えます。

そういう意味では、一番身近な野生動物ともいえるでしょう。

 

以前(2004/7.NO.33)、この近辺に棲(す)むカエルは多分8種類しかいないだろう、なんて記事を書いたことがありますが、トカゲなんて、この2種類だけです。

身近な動物なのに、案外種類がないものです。

 

トカゲは、爬虫類(正確には爬虫綱)の有鱗目(ゆうりんもく)に分類されます。

 

――そうそう。「はちゅうるい」は、「爬虫類」です。

漢字を知らないおこちゃまが、交ぜ書きで「は虫類」と書くのは仕方ありませんが、「ハチュウ類」などと片仮名に直す行為は、日本語では「愚の骨頂」といいます。

 

お前のことだよ文部科学省!

 

現在、理科の教科書では、爬虫類は「ハチュウ類」、哺乳類は「ホニュウ類」という表記になっていますが、なぜか鳥類は「鳥類」だし、魚類は「魚類」だし、両棲類は「両生類」です。

脊椎動物は「セキツイ動物」ですが、節足動物は「節足動物」です。

きっと、

「今時のガキ共は、画数の多い漢字を書けないバカ揃いだろうから、書かずに済むように片仮名にしておいてやるよガハハ」

という、老人達の優しい心遣いなんでしょうね。

反吐が出るわ。

どうせやるなら、チョウ類とかギョ類とかやってみろよ、と常々思っております。

 

バカと思われないように、漢字は書けるようにしておきましょう。

 

閑話休題。

 

爬虫綱の有鱗目には、他にヤモリ、ヘビの仲間が属しています。

 

このうち、ヘビは6~8種ほど棲んでいるようなのですが、ヤモリは、関東ではニホンヤモリ1種のみです。

 

ヤモリというと、多くの人がイモリとヤモリってどっちがどっち? なんて話になってしまうので、ここで紹介します。

 

 

イモリは両棲類で、水中に棲みます。

 

江戸時代、江戸の町中には川から上水が引き込まれていて、所々で「井戸」として活用されていたのですが、ここによくイモリを住まわせていました。

ボウフラを食べてくれるから、というのと、井戸に毒を入れられてもイモリが赤い腹を向けて死ぬのですぐにわかる、というのがその理由だそうです。

だから、「井守」なのです。

 

対するヤモリは、「家守」です。

人里に棲み、かつては時に住居に入って虫を食べていました。

足が吸盤状(正確には吸盤ではない)になっているので、ガラス程度なら登れます。

塾周辺にも、夜になると時々現れて、明かりに来た虫を食べています。

 

しかしニホンヤモリは、どうやら外来種であり、少なくとも江戸時代初期には、関東に棲んでなかったようです。

今でも、下妻駅前にはいるのに、私の自宅周辺のような、田んぼに囲まれた集落には棲んでいません。

森林にもいません。

人間の住みかにくっついて生息域を広げた動物だということです。

 

ヤモリも簡単に飼えます。

飼い方はトカゲと基本的に同じです。

ただしプラケースの壁を登りますので、蓋は必要です。

 

私も2年ほど飼いました。

かわいいですよ。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ59 黄禍論(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2006.09号

 

盆は実家に帰ってきました。

 

例年通り、お寺さんに行って、ご先祖様の位牌にお参りするわけですが、ふと気づいたことがあります。

 

……賽銭箱って、仏教だっけ?

違うよな。

 

この、ところかまわず賽銭を投げたがる国民性は、こうやって醸成されてきたのかとしみじみ感じつつも、宗教ですら何でもありという日本人特有の感覚は、西洋人には理解できないだろうなあと思う今年の夏でした。

 

今はともかく、かつての西洋人にとって、理解を超えた東洋人~特に日本人~がどう見られていたか、そのあたりの話をちょっと書いてみます。

どうも、今の世界史の教科書には、そのあたりが掲載されていないようですので。

 

幕末のあたりから始めてみます。

 

1867年、パリにて第二回万国博覧会が開催されます。

このとき、江戸幕府は万博に参加、出品しました。

出品したものは、養蚕関連・工芸品・紙などだったそうです。

その内容は高く評価され、最高賞であるグランプリメダルを受賞します。

 

1873年、次のウイーン万博が開催された際には、日本は明治政府として正式に参加しています。

そしてこれをきっかけに、ヨーロッパ全土には猛烈なジャパンブームが巻き起こります。

ゴッホやモネが、日本の文化や芸術によって強い影響を受けたのは、ちょうどこのころです。

これは有名な話ですね。

 

ところで、ちょうど同じ頃、アメリカ・カナダ・オーストラリアといった白人の移民・開拓地において、東洋人(特に中国系の移民)が徐々に増えてくるようになりました。

 

中国では清朝が衰退して、西洋諸国に植民地化されたため、半ば難民化した人々が、海外に新たな生活を求めたのでした。

 

中国人達は、先に入植していた白人達のもとで働くことになりました。

彼らは低賃金でも文句を言わず、大変真面目に働きました。

安い賃金でよく働く姿は、今の中国人にも通じるものがあります。

そしてそれは怠慢な西洋人に対して、かなりのカルチャーショックを与えたのでした。

 

結果的に、中国人は白人の雇用を圧迫することとなり、それはやがて、白人の脅威と嫌悪の対象となります。

このまま街に黄色人種があふれつづけたら、将来、逆に白人が追い出されてしまうかもしれない……

 

こうした一連の恐怖妄想のことを、黄禍論(Yellow peril)と呼びます。

 

  

 

このように始まった黄禍論ではありますが、やがてその対象が、当初の中国から少々変わってくることになります。

日本という東洋人国家が、徐々に世界の表舞台に現れ始めたからです。

 

この野蛮な小国は、日清戦争を通じて植民地合戦に参加するようになり、続く日露戦争では、当時世界最強だったロシア帝国の艦隊を、なんと壊滅させてしまいます。

その後の第一次世界大戦のころには、欧米諸国は日本を列強と認めざるを得ないところにまで来ていました。

 

ただ、白人としては、日本の力を認めざるを得ない一方で、劣っているはずの有色人種が発言力を高めるのが、内心おもしろくありません。

その鬱憤は、色々なところであらわれることになります。

当時の風刺画を見ると、その感情の片鱗を見ることができます。

 

 

「猿の惑星」という映画をご存じでしょうか。

「宇宙飛行士のテイラーは、時間を超えてある惑星に不時着した。しかしそこは、猿が人間を奴隷として扱う世界だった」

という話で、その舞台となる星は、実は未来の地球だったというラストを迎えて終わります。

 

この映画の原作者ブールはフランス人で、アジア人労働者を使役するプランテーションを経営していました。

大東亜戦争が始まると、自由フランス軍として諜報活動をしていたのですが、捕虜として日本軍に引き渡され、強制労働に従事することになります。

 

ブールにとって、東洋人とは単なる労働力であり、もしかしたら奴隷と同等だったかもしれません。

それが当時の白人にとって、一般的な考え方でした。

ところがそれが、逆に支配されて働かされてしまうのです。

この主従逆転経験が、この作品を生んだ土壌になったと言われています。

劇中における猿は、日本人をイメージしているのです。

 

つまり猿の惑星も、黄禍論の一種といえるかもしれません。

そしてある意味、第二次世界大戦が、黄禍論の頂点であるともいえます。

 

詳しくはここに書きませんが、白人国同士は、露骨ともいえる方法で共謀して日本を追いつめ、日本を開戦させることに成功しました。

(詳しくは、「ABCD包囲網」「ハルノート」あたりの言葉を調べてみてください)

 

日本降伏後は、対日戦争とはおよそ無関係な白人国家までが戦後賠償を請求しています。

その結果日本は、スイス、スウェーデン、カナダ、ギリシャ、アルゼンチン、イタリアなど、戦争した覚えもない国に対して多額の賠償金を払うことになったのでした。

 

捕鯨規制も似たようなものです。

槍玉に挙げられるのは日本だけで、同じ捕鯨国家であるノルウェーやデンマーク、アイスランド、エスキモー達はまったく非難されていません。

例によって、捕鯨とは無関係の白人国家(海のないスイスとか)及び元植民地(元宗主国の影響が大きい国家)までしゃしゃり出て、日本非難運動を繰り広げました。

 

これもやはり、現代になお残る黄禍論と言えるでしょう。

黄色い猿の作ったソニーやホンダが売れるのが面白くない、という腹いせ以外に見えません。

ちょうど、貿易摩擦とか言われていた頃ですし。

 

ただ、この一連の運動に関しては、最近はだいぶマシになってきたようです。

これは私見ですが、日本の科学的根拠に基づく主張に、徐々に論破されてきたからではないかと思われます。

いわゆる「自然保護団体」の感情論には、実際に調査捕鯨して出した膨大なデータに対抗できるものなんて、最初からありませんからね。

 

西洋人に洗脳されちゃった人もいるかもしれませんので、一応簡単に説明します。

 

鯨(特にハクジラ)は、見ての通り海洋生態系の頂点です。

あの巨体を維持するのには、すさまじいまでの量の魚を必要とします。

 

さて、最近の地球では、人口が増えて漁業資源の需要が増える一方で、環境破壊などによって魚の数は減っています。

そんなときに、大量の魚を馬鹿食いする鯨を大事に大事に保護すると、一体どうなるでしょうねえ?

 

先日、サッカーの中田選手が、イタリアにおいて人種差別的な発言を受けたという記事がありました。

今でもこれが、白人の素直な感情なのかもしれません。

ただ最近では漫画やアニメの影響から、日本を憧れの聖地とみなし、日本人になりたくてたまらない白人もかなり増えているようですので念のため。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ145 蛇の文化史(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2013.11号

 

郵便局が年賀状の予約を始めたようで、私の所にも卒業生(郵便局員)が営業に来ました。

もうそんな季節なんですね。

 

そういえば、今年は巳年だったはずですが、こういうものは年末年始を過ぎると忘れきってしまうものですねと実感しています。

 

聖獣とか神獣とかいう言葉があります。

ヒンドゥー教におけるウシなんかは有名ですよね。

そこまでじゃなくても、十二支の動物も、ある意味聖獣なのだろうと思います。

 

そしてその中でもヘビは、民族を問わず「聖なる動物」として扱われることが多いようです。

 

人類は歴史的に、自身の力の及ばない生物に畏怖し、信仰の対象としてきました。

 

例えば、ライオンはエジプトでは神獣スフィンクスのモデルとなっています。

日本にも獅子として伝わって、正月に獅子舞をやったり、神社の門前で狛犬になってみたり、お寺で文殊菩薩を乗っけたりしています。

 

ゾウは古代インドでは世界を背中に乗せてみたり、ヒンドゥー教のインドラ神を乗せたりしています。

日本では普賢菩薩を乗せています。

また、擬人化したらヒンドゥー教ではガネーシャ神ですし、それが日本まで来ると歓喜天(かんぎてん)となります。

 

同じように、クマも世界各地で信仰の対象となっています。

ただトラは、四獣(四神)の白虎以外では、ワルモノ扱いされることのほうが多いようです。

日本でも、ヌエになって京の街に現れたこともありますし。

 

そして、ヘビも同じように、世界各地で信仰の対象となっています。

 

日本では、神の使いとしての白蛇が有名です。

また昔話では、ヘビが人間の男または女となって、人間と契りを交わす話が多々あります。

人間と契って子を産む動物の話は、ヘビ以外にはあまり聞きませんので、やはり少し特別な動物と考えられていたのかなあ、なんて解釈をしています。

 

中華圏で皇帝の象徴とされる竜も、ヘビをモチーフにしていることは自明でしょう。

先に挙げた四獣の一つである玄武は、ヘビがからみついたカメの姿をしています。

 

諸外国でも、ヘビは神獣として扱われています。

アステカのケツァルコアトルという、羽毛の生えたヘビは有名ですよね。

エジプトのファラオ像の頭にもヘビはくっついています。

インド神話にも、ナーガという名前の蛇神がたびたび出てくるみたいです。

 

と、いろいろあるわけですが、今回私が「ヘビが象徴するもの」として真っ先に思い出したのは、こんなものでした。

 

 

これ、第二次世界大戦中のドイツ軍の階級章(肩章)なのですが、通常の階級章にヘビのモチーフが追加されています。

実はこのヘビは、軍医であることを表しています。

 

本当はヘビの入った部隊マークもあったのですが、インターネットを英語でひっくり返しても、私の実力では見つけられませんでした。

(実家に帰れば資料があるんだけどなあ)

 

そして、このヘビの元ネタはこれです。

 

 

アスクレピオスとは、ギリシャ神話に登場する凄腕の名医です。

あまりに凄腕すぎて、ついには死者まで生き返らせてしまうようになったので、生死の秩序を乱すとしてゼウスに殺され、医学の神となったのだそうです。

そんな話から、今でも西欧諸国では、医療のシンボルとして、ヘビ付きの杖が使われています。

 

 

スターオブライフは、最近では日本でも、病院所有の救急車では見かけることが増えました。

日本医師会も、最近になってヘビのマークを使い始めたようです。

 

ところで、アスクレピオスにはヒュギエイアという娘がいて、父同様にヘビを連れています。

この娘が、アスクレピオスの脇で薬の入った壷や杯を携えていることから、今度は薬学のシンボルとして、ヘビを伴った杯が使われることがあるようです。

 

 

またこれとは別に、ヘルメスの杖というものがあります。

2匹のヘビがからみついていて、さらに翼があるのが特徴です。

 

 

ヘルメスは商売と旅の神なので、こちらはよく商業の象徴として使われています。

日本でも一橋大学や、日本各地の商業高校の校章として採用されています。

ですが、同じヘビ付きの杖ということで、どうもこれとアスクレピオスの杖を混同して使われているような例があります。

そんな恥ずかしい例が、なんと米軍にあります。

 

 

やっちまったか米軍!

……と思ったのですが、同時にこういうマークもあるんですよね。

共に米陸軍なのですが。

 

 

結局、わかっているのかわかっていないのか、よくわかりません。

 

ところでヘルメスは、商売の天才であると同時に、泥棒と嘘の天才でもあります。

つまり、「商売人ならば、嘘つきで泥棒であれ」……ってことですよねコレ。

西洋人が、商売に対してどういう考えを持っているのか、とてもよく分かる好例でした。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ156 「とう」と「とお」の違い(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2014.10号

 

「小人閑居して不善を為す」という言葉があります。
 
小人(しょうじん)とは、
つまらない人間という意味です。
 
閑居はヒマでいること、不善は善の反対ですね。
 
つまり、
「つまらない人間は、ヒマを持てあますと碌(ろく)なことをしない」
という意味です。
 
 
 

要するに私がそれなんですけど、
ヒマになると碌でもないことばかり考えています。
 
今回は、そんな脳内で考えた事の紹介です。
 
 
 
「通り」という言葉があります。
 
ひらがなで書くと「とおり」です。
 
「とうり」ではありません。
 
他にも、「遠い」は「とおい」です。
 
しかし、「冬至」は「とうじ」です。
 
 
 
何が違うんでしょ。
 
何でしょうね。
 
 
 
経験的に、
「オ段」を伸ばすときに
「オ」と表記する言葉は、
「ウ」と表記する言葉に比べて
少数派だろうということはわかります。
 
では、その少数派の
「オ」表記の言葉を集めてみましょう。
 
 
 


とおり(通り)

 

とおる(通る)

 

とおい(遠い)

 

こおり(氷)

 

こおる(凍る)

 

おおきい(大きい)

 

おおい(多い)

 

おおう(覆う)


 
 
 
発見しました。
 
これ、みんな和語ですね。
 
和語とは、漢字が伝わる前から
日本にあったと思われる言葉です。
 
もう少し違う言い方をすると、
訓読みの言葉が和語です。
 
 
 
つまり、日本語の本来の発音は
「トオ」
なんですよ。
 
それが、漢字が大陸から入ってきた時に、
「冬という文字の読み方はトウである」
と伝えられたのでしょう。
 
ということは、最初のうちは、きっと「冬至」も
「トージ」や「トオジ」とは読まずに、
「トウジ」と、
「ウ」をウとはっきり発音していた可能性があります。
 
可能性があるというよりも、
実際にウと発音していたでしょうね。
 
つまり、ゆっくり読むと
「ト・ウ・ジ」です。
 
 
 
かな文字は、漢字から作られたものです。
 
ですから当然、漢字よりも後から使われ始めています。
 
すると、
「とおい」
とひらがなで書いている頃には、
「冬」
という言葉は、日本にもう来ていたはずです。
 
そんな時、
「冬」って漢字に、読み仮名をつけて
読みやすくしようかなーとしましょう。
 
「冬」に「トウ」と読み仮名をつけて、
「これはトオって読むんだよ」
 
……なんてやりませんよね。
 
 
 
そもそもひらがなは、日本語の発音に合わせて
書く文字として登場しています。
 
片仮名なんて、漢字の読み仮名として
書き込んだのが始まりだと聞いています。
 
それなのに「トウはトオと読みましょう」なんて
ルールを作るわけが無いですよね。
 
 
 
ともかく、その後時代を経るに従って、
この二つの読み方は収斂していって、
共に「トオ」と同じ発音になってしまったのでしょう。
 
というわけで、和語はみんな、
オ段の伸ばす音を「オ」と書くのでしたー。
 
はい、無事解決ですねー。
 
 
 


ほうる(放る)

 

もうす(申す)


 
 
 
あれ?
 
いや、あれ?
 
え?
 
 
 
「放る」はともかく、
「申す」が漢語ってわけがないですし、
音読みでもありません。
 
 
 
もしかして、昔は
「もおす」と書いていたとか?
 
古語辞典を引いてみましょう。
 
 
 


「もおす」→なし

 

「まうす(申す)」


 
 
 
あっ……
アホだ俺。
 
そういやそうですよねー。
 
「申す」は昔は「まうす」だったんです。
 
当然読み方も「マウス」だったことでしょう。
 
それが今、
「モース」という発音になってしまっているので、
それに合わせて書き直されているだけなんですね。
 
 
 
ついでに、
「とおり」なども
古語辞典で確認しておきましょうか。
 
 
 


とほり(通り)

 

とほる(通る)

 

とほし(遠し)

 

こほり(氷)

 

こほる(凍る)

 

おほき(大き)

 

おほし(多し)

 

おほふ(覆ふ)


 
 
 
あ~~~~。
 
そっかー。
 
前言撤回。
 
 
 
日本語の本来の発音では、
通りは「トオリ」ではなくて
「トホリ」だったんですね。
 
つまり、
現代語で長音の時に「オ」と書くものは、
昔はみんな「ホ」だったと。
 
ホと発音していた言葉が、
時代を下るに従ってオに変化していったと。
 
そうだったのですか。
 
 
 
今回のように、
古典ではハ行で使われていた言葉が、
現代語ではア行に入れ替わって使われる例は
たくさんあります。
 
例えば、会うは昔は「あふ」でしたし、
臭うは「にほふ」、
食うは「くふ」、
舞うは「まふ」……。
 
 
 
待てよ。
 
 
 
まさか、現代語で「う」で終わる動詞は、
全部「ふ」だったとか……?
 
 
 
古語辞典巻末の活用表を見てみました。
 
四段活用の表に、「ア行」はありません。
 
 
 
もう何年も動詞の活用表を見ているのに、
これまで全く気づいていませんでしたわ。
 
 
 
活用とは、
動詞・形容詞・形容動詞の語尾が、
使われ方によって形を変えることです。
 
その変わり方をまとめて表にしたものが
活用表というものです。
 
 
 
活用の仕方は、
現代語と古語では少々違いがあります。
 
例えば、先ほどの「会ふ」は、
 
 

 
 
と、語尾が「アイウエ」の四段に変化しますので、
四段活用と言われています。
 
これの場合は、
「ハヒフヘ」と変化していますので、
ハ行四段活用と呼ばれています。
 
 
 
それに対して、現代語の「会う」は、
 
 

 
 
あ、ちょと待った。
 
先ほど、古典のハ行がア行になったとしましたが、
違いますね。
 
ハ行はワ行になっていますね。
 
やはりこちらも、時代と共に
発音がそう変化していったのでしょう。
 
先ほど挙げた
「会う」「臭う」「食う」「舞う」は全て、
ワ行五段活用ですから。
 
考えてみれば、
格助詞の「は」を「ワ」と発音するのも、
きっと同じ流れなのでしょう。
 
 

 
 

ということは、もしかして、
現代語でもア行五段活用は無い、
とか。
 
 
 
「行け!国語辞典!」
「ピカー!」
 
 
 
ありませんでした……。
 
 
 
さらに眺めてみると、
ア行で上一段・下一段活用する動詞は、
古典ではそのほとんどが、
ア行ではなかったようですね。
 
例えば、
「悔いる」は古典では「くひる」ですし、
「越える」は「こへる」、
「居る」は「ゐる」です。
 
 
 
例外は、
「射る」が古典でも「いる」なのと、
「得る」が古典で「う」であること
くらいしか見つかりません。
 
しかし、
そのうちの「射る」はヤ行だったのではないか
という説もあるようですので、
「う」→「得る」が、
ア行で活用するほぼ唯一の例外でしょう。
 
 
 
さて、ここまで放置していた「放る」の正体です。
 
放り投げる、放り出すなどと
色々なバリエーションを持つ「放る」ですが、
なんと、「ホウ」は
 
音 読 み
 
でした。
 
ですから、
「放る」という使い方は、
文化庁の常用漢字表に無い読み方、
いわゆる表外音訓だったのです。
 
 
 
もちろん、こんなことはテストに出ません。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

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