2019年1月

あすなろ133 色のお話(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2012.11号

 

色のお話です。

 

日本語には、様々な色を表す言葉があります。

日常的に使われる赤、青などの言葉以外に、緋色、小豆色、浅葱色、江戸紫、などなど、名前を聞いてもすぐにイメージできないものもたくさんあります。

 

ですが、その最も基本となる色は、日本語においては白、黒、赤、青の四色です。

この四つだけは、他の色を表す言葉よりも、古くからある言葉です。

 

なぜこの四つが古いとわかるのでしょう。

 

もちろん、昔に書かれた文を逐一探していけば、時代が下るに連れて新しい言葉が増えていくことはわかるでしょう。

しかしそれをしなくても、今の日本語からも、この四つだけは特別だということが、文法的にも判断できます。

 

白、黒、赤、青には、色名に直接、語尾「い」をつけて、形容詞にすることができます。

すなわち「白い」「黒い」「赤い」「青い」という形になる、ということです。

しかし、他の色にはこういう使い方が(正しい日本語としては)ありません。

 

さらに、それを重ねて強調する副詞的用法があるのも、この四つの色だけです。

すなわち「しらじらと」「くろぐろと」「あかあかと」「あおあおと」という変形ですね。

 

ただ、形容詞となる色名は、実は他にもあります。

黄色い、茶色い、の二つです。

しかしこの通り、この二色は最初の四色と違って、形容詞になるためには「色」という語が必要となります。

 

それ以外の色、例えば緑、紫、水色、などの色名は、「い」で終わる形容詞とは成り得ません。

そういうところからも、黄色と茶色は、最初の四色の次に古い言葉だということがわかります。

 

では、最初の四色の語源は、どこから来ているのでしょう。

 

まず、赤からいきます。

 

「赤」は、「あかるい」と語源が同じだと考えられています。

「夜が明ける」の「あける」にも通じています。

 

では、その反対の色はというと、「日が暮れる」の「くれる」と、夜を表す「くらい」を語源とする言葉です。

つまり、これが「黒」になるわけですね。

 

おや?

赤の反対が黒?

白は?

 

白はどうなのかというと、「知る」「印(しるし)」「記す」などの言葉と語源と同じとするらしいです。

この言葉に共通するのは、「物事をはっきりとさせる」という意味ですので、「はっきりした色=白」というのが本来の意味である、と考えられているようです。

 

はっきりした色が白ならば、その反対は、最後の一つの「青」となります。

青は植物の「藍(あい)」と語源が同じで、そこから転用されたと考えられています。

 

なんではっきりしないと青なのか、その説明が書かれている文は見つかりませんでしたが、そのヒントは、日本語における「青」と「緑」の関係にありそうな気がします。

 

日本語では本来、「青」という言葉は、緑もカバーする広い意味を持っていました。

それは今でも「青葉」「青信号」「青リンゴ」などの使い方からわかります。

 

ということは、昔の日本語でいうと、山を見れば「青」、空を見ても「青」、海を眺めても「青」となってしまうわけです。

つまり、自然界に一番溢れている色が「青」ということになります。

 

ですから、着物を青く(または緑に)染めれば、それは目立たない色、つまりはっきりしない色、ということになるのでしょう。

だから、はっきりしない色は「青」なのだ、と。

 

それでは逆に、自然界において一番はっきりした色とは何か、と考えてみます。

 

色の中で、一番人間の目を引く「目立つ色」は、赤だと考えられています。

それは今でも、危険・注意を表す表示には赤が使われていることからわかります。

(私はこれに関して、赤は血の色だから本能的に危険信号として働くのだろう、と推測しています)

 

危険を表す色としては、黄色と黒という組み合わせなどもありますが、単色では、やはり赤が一番使われます。

赤信号や自動車のブレーキランプ、消火器、非常ボタンなど、見逃してはいけないものやとっさに見つける必要があるものは、必ず赤いはずです。

 

そこから、本来白を表す意味の「はっきりした色」という定義を、赤に転用するという解釈が生まれた可能性があります。

 

逆に、白の語源である「知る」は、「知識に明るくなる」ところから、「明るい=知る=白」となっていったかもしれない、とのことです。

 

白と黒を対とする使い方は、奈良時代には早くも登場するようです。

このころには、今の白と黒が確定していたのでしょう。

 

こういった言葉の逆転は、日本語においては他にも例があります。

 

有名どころでは、「すずむし」「まつむし」と「こおろぎ」「きりぎりす」が挙げられます。

これは、古くから続く言語ならではのトラブルだ、ということにしておきましょう。

 

では、次点となった茶色と黄色です。

 

茶色は、お茶で染めた布の色から来ています。

実際に飲むときのお茶の色はもちろん違いますし、茶の実の色(茶色ですよ)でもないんだそうです。

なあんだ。

 

黄色は、木色から来ていると思われますが、ネギ(葱=き)の食べる部分から来ているという説もあります。

これだけだとよくわからないのですが、ネギの芽の色である「萌葱色」、つまり黄緑色とも関係があると言われると、ああなるほどという感じがします。

 

それでは、緑という言葉はどこからかというと、どうも本来は「みずみずしい」という意味を持った言葉だったようです。

現在にも、赤ん坊を表す「嬰児(みどりご)」という言葉にその名残があります。

そこから転じて、若葉色=緑となったのでしょう。

 

以上に挙げた七色以外の色名は、全てが別の物の名前を転用したものだそうです。

紫色は「ムラサキ」という植物から、橙色は「ダイダイ」という柑橘から、灰色は灰から、などなど。

 

じゃあ朱色の「しゅ」って何? と思って辞書見たら、朱(しゅ)は音読みでした。

同じ意味を持つ良い日本語が無かったために、そのまま外来語を使ったのでしょう。

今でいえば、カーキやベージュみたいなものなのでしょうね。

 

ところで、色といえば。

子供が適度に伸びてくると、男の子は勝手に青黒い格好になってきて、女の子は目にまぶしいピンクを選び始めます。

どうしてなんでしょうねアレ。

 

→関連項目(?):味覚のお話

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ120 百匹目の猿(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2011.10号

 

疑似科学というものがあります。

エセ科学とも呼ばれています。

いかにも科学的な話に聞こえるが、実は科学的根拠は無い、という話です。

私はこういうものが大嫌いなので、この場では何度も何度も取り上げて糾弾しているのですが、この手のネタは、本当に次から次へと尽きることがありませんね。

 

ごく最近でも、マイナスイオンがあまりに叩かれたので、プラズマクラスターとかナノイーとか、色々と新しい名前を考え出しては怪しい商売に走り続けていますよ電器屋さん達は。

あと10年経ったら、きっとこれも一斉に無くなって、また新しいカタカナが登場するのでしょう。

 

ま、仮に百歩譲ってそういうものに除菌効果があるとしても、問題はそれが家庭で効果を発揮するかなんですけどね。

 

公式サイトやパンフなどにある「実験結果」では、空気中の菌を「99%抑制」とか「100%分解」とか、確かに書いてあります。

しかしそのデータをよーーく見ると、ペトリ皿に入れた菌だの45リットルの空間だの、何言ってんだこいつってレベルです。

 

ペトリ皿って、手のひらに乗る大きさですよ。

45リットル?

冷蔵庫だって200リットルくらいあるのに?

そんな微細な空間の菌が殺せたとして、だから何?

ところで、八畳間は40000リットルくらいあるわけですが、どうしてこういう空間で実験しないんですかメーカー様?

 

あと、プラズマクラスターの売りは、インフルエンザウイルスを無毒化することのようですが、インフルエンザって空気感染じゃなくて、飛沫感染なんですけど。

空気中のウイルスを無毒化したって防げないんですけど。

それに、普通は外でうつされるんですけど。

 

もっと言えば、東京大学が2009年から2010年までに行った実験では有意差が出なかったと、今年の初めに日本疫学会で発表してるんですけど。

 

……とまあ、こんな私ではありますが、それでも何年もの間、疑似科学ということに気づかずにいた「知識」というものも、たまにあります。

 

そのうちの一つが、今回お話しする「百匹目の猿」の話です。

 

「百匹目の猿」の話は、ご存じでしょうか。

こんな話です。

 


宮崎県串間市の幸島(こうじま)に、ニホンザルが棲息しています。

そのうちの一頭が、ある時、イモを海水で洗って食べることを発見しました。

すると、他の猿もこれを真似(まね)して洗うことを始めて、イモを洗う猿が増えていきます。

 

そうしているうちに、ある一定以上の数(例えば百匹)の猿がこの行動をするようになった時、この行動が群れ全体に一斉に伝わったのです。

しかもその時、そこから遠く離れた、大分県の高崎山に住んでいる猿の群れでも、突然この行動が見られるようになりました。

 

このように、ある行動、考えなどが、ある一定数超えると、これが接触のない同類にも伝わるという、不思議な現象です。


 

冷静に考えれば、あり得ない話です。

しかしこういう話というものは、子供の頃に聞いてしまうと信じてしまうんですよね。

 

私がこの話を初めて聞いたのがいつかは覚えていませんが、多分高校生以下だったはずです。

今の私みたいに、世の中にウソがあふれていることは知りませんでしたので、もっと素直だったのですよ。

ええ。

 

この話は、ライアル・ワトソンという人の著書の中で紹介されました。

 

この話が他の疑似科学と違ってやっかいな点は、この著者が、生物学者だってことです。

しかもご丁寧に、観察された具体的な地名まで書いてあって、論文の引用元もちゃんと書かれているのです。

もちろん、論文は実在するものです。

普通、そこまで書いてあれば、信用しちゃいますよね。

 

元ネタとなった研究は、地名からも分かる通り日本で行われました。

幸島でサルの研究を行ってきたのは、京都大学の今西錦司教授です。

この研究が画期的だったのは、同じ種類の動物の観察が同時に二カ所で行われて、地域差というものを見極めようとしたことでした。

サル群れの文化的構造がわかるとして、世界中から注目を集めていた研究でした。

 

野生のニホンザルの餌付けに成功した研究チームは、色々なエサを与えてみます。

その中に、サツマイモがありました。

サツマイモは、幸島には元々無かったもので、最初は興味を持った若いメスのサルがあれこれ工夫しているうちに、水で洗って砂を落とすことを発見します。

さらに、洗い水が海水だと、面白い味になることを発見します。

 

この、新たな「発明」は、同じ群れの同年代のサルも真似をするようになります。

さらに、その世代のサルが子供を持つと、今度は子供に「教育」することで、次世代に行動が伝わっていった、という話です。

 

しかし、元の論文によると、イモ洗いを始めた世代よりも上の世代は、最後までイモ洗いをしなかったそうです。

もちろん、空間を超えて高崎山まで伝わったなんて話はありません。

 

ライアル・ワトソンは、その語り口によって熱狂的な信者を多く作ったのですが、皮肉なことに、その嘘を暴いたのも信者でした。

ワトソンの提示する論文を調べてみたら、彼の言っているような内容はどこにも無かったのです。

そしてワトソン自身も、晩年にはその嘘を認めています。

 

ところが、一旦広まったこの手の「学説」は、もう止まらないんですよ。

あとで嘘だとわかっても、「嘘だった」という話は「発見された!」という時ほどは話題に上がりませんから、信じたままの人が残るんですよね。

 

かくして、嘘を書いて本を売った奴は勝ち逃げして、さらにそれを引用して嘘を広げる奴らが大量に現れ、その嘘は世に「定説」として残るのです。

 

嘘の内容によっては、それが政治的に使われちゃったりすることもあります。

実際に中国・韓国・北朝鮮の三国は、現在進行形で自国民を嘘で洗脳して、日本が悪いとか未だにやってますよね。

騙されちゃダメですよ。

 

とにかく、怪しい話はもとの情報源を辿っていくことで、真偽が確かめられるのです。

血液型で人格を決めつける人たちは、その話がどこから始まってどう広まったのか、一度「歴史」を調べてみることをお勧めします。

 

私の書いているこれだって、もしかしたらどこかに嘘が混ざっているかもしれません。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義