2018年3月

あすなろ59 黄禍論(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2006.09号

 

盆は実家に帰ってきました。

 

例年通り、お寺さんに行って、ご先祖様の位牌にお参りするわけですが、ふと気づいたことがあります。

 

……賽銭箱って、仏教だっけ?

違うよな。

 

この、ところかまわず賽銭を投げたがる国民性は、こうやって醸成されてきたのかとしみじみ感じつつも、宗教ですら何でもありという日本人特有の感覚は、西洋人には理解できないだろうなあと思う今年の夏でした。

 

今はともかく、かつての西洋人にとって、理解を超えた東洋人~特に日本人~がどう見られていたか、そのあたりの話をちょっと書いてみます。

どうも、今の世界史の教科書には、そのあたりが掲載されていないようですので。

 

幕末のあたりから始めてみます。

 

1867年、パリにて第二回万国博覧会が開催されます。

このとき、江戸幕府は万博に参加、出品しました。

出品したものは、養蚕関連・工芸品・紙などだったそうです。

その内容は高く評価され、最高賞であるグランプリメダルを受賞します。

 

1873年、次のウイーン万博が開催された際には、日本は明治政府として正式に参加しています。

そしてこれをきっかけに、ヨーロッパ全土には猛烈なジャパンブームが巻き起こります。

ゴッホやモネが、日本の文化や芸術によって強い影響を受けたのは、ちょうどこのころです。

これは有名な話ですね。

 

ところで、ちょうど同じ頃、アメリカ・カナダ・オーストラリアといった白人の移民・開拓地において、東洋人(特に中国系の移民)が徐々に増えてくるようになりました。

 

中国では清朝が衰退して、西洋諸国に植民地化されたため、半ば難民化した人々が、海外に新たな生活を求めたのでした。

 

中国人達は、先に入植していた白人達のもとで働くことになりました。

彼らは低賃金でも文句を言わず、大変真面目に働きました。

安い賃金でよく働く姿は、今の中国人にも通じるものがあります。

そしてそれは怠慢な西洋人に対して、かなりのカルチャーショックを与えたのでした。

 

結果的に、中国人は白人の雇用を圧迫することとなり、それはやがて、白人の脅威と嫌悪の対象となります。

このまま街に黄色人種があふれつづけたら、将来、逆に白人が追い出されてしまうかもしれない……

 

こうした一連の恐怖妄想のことを、黄禍論(Yellow peril)と呼びます。

 

  

 

このように始まった黄禍論ではありますが、やがてその対象が、当初の中国から少々変わってくることになります。

日本という東洋人国家が、徐々に世界の表舞台に現れ始めたからです。

 

この野蛮な小国は、日清戦争を通じて植民地合戦に参加するようになり、続く日露戦争では、当時世界最強だったロシア帝国の艦隊を、なんと壊滅させてしまいます。

その後の第一次世界大戦のころには、欧米諸国は日本を列強と認めざるを得ないところにまで来ていました。

 

ただ、白人としては、日本の力を認めざるを得ない一方で、劣っているはずの有色人種が発言力を高めるのが、内心おもしろくありません。

その鬱憤は、色々なところであらわれることになります。

当時の風刺画を見ると、その感情の片鱗を見ることができます。

 

 

「猿の惑星」という映画をご存じでしょうか。

「宇宙飛行士のテイラーは、時間を超えてある惑星に不時着した。しかしそこは、猿が人間を奴隷として扱う世界だった」

という話で、その舞台となる星は、実は未来の地球だったというラストを迎えて終わります。

 

この映画の原作者ブールはフランス人で、アジア人労働者を使役するプランテーションを経営していました。

大東亜戦争が始まると、自由フランス軍として諜報活動をしていたのですが、捕虜として日本軍に引き渡され、強制労働に従事することになります。

 

ブールにとって、東洋人とは単なる労働力であり、もしかしたら奴隷と同等だったかもしれません。

それが当時の白人にとって、一般的な考え方でした。

ところがそれが、逆に支配されて働かされてしまうのです。

この主従逆転経験が、この作品を生んだ土壌になったと言われています。

劇中における猿は、日本人をイメージしているのです。

 

つまり猿の惑星も、黄禍論の一種といえるかもしれません。

そしてある意味、第二次世界大戦が、黄禍論の頂点であるともいえます。

 

詳しくはここに書きませんが、白人国同士は、露骨ともいえる方法で共謀して日本を追いつめ、日本を開戦させることに成功しました。

(詳しくは、「ABCD包囲網」「ハルノート」あたりの言葉を調べてみてください)

 

日本降伏後は、対日戦争とはおよそ無関係な白人国家までが戦後賠償を請求しています。

その結果日本は、スイス、スウェーデン、カナダ、ギリシャ、アルゼンチン、イタリアなど、戦争した覚えもない国に対して多額の賠償金を払うことになったのでした。

 

捕鯨規制も似たようなものです。

槍玉に挙げられるのは日本だけで、同じ捕鯨国家であるノルウェーやデンマーク、アイスランド、エスキモー達はまったく非難されていません。

例によって、捕鯨とは無関係の白人国家(海のないスイスとか)及び元植民地(元宗主国の影響が大きい国家)までしゃしゃり出て、日本非難運動を繰り広げました。

 

これもやはり、現代になお残る黄禍論と言えるでしょう。

黄色い猿の作ったソニーやホンダが売れるのが面白くない、という腹いせ以外に見えません。

ちょうど、貿易摩擦とか言われていた頃ですし。

 

ただ、この一連の運動に関しては、最近はだいぶマシになってきたようです。

これは私見ですが、日本の科学的根拠に基づく主張に、徐々に論破されてきたからではないかと思われます。

いわゆる「自然保護団体」の感情論には、実際に調査捕鯨して出した膨大なデータに対抗できるものなんて、最初からありませんからね。

 

西洋人に洗脳されちゃった人もいるかもしれませんので、一応簡単に説明します。

 

鯨(特にハクジラ)は、見ての通り海洋生態系の頂点です。

あの巨体を維持するのには、すさまじいまでの量の魚を必要とします。

 

さて、最近の地球では、人口が増えて漁業資源の需要が増える一方で、環境破壊などによって魚の数は減っています。

そんなときに、大量の魚を馬鹿食いする鯨を大事に大事に保護すると、一体どうなるでしょうねえ?

 

先日、サッカーの中田選手が、イタリアにおいて人種差別的な発言を受けたという記事がありました。

今でもこれが、白人の素直な感情なのかもしれません。

ただ最近では漫画やアニメの影響から、日本を憧れの聖地とみなし、日本人になりたくてたまらない白人もかなり増えているようですので念のため。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ145 蛇の文化史(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2013.11号

 

郵便局が年賀状の予約を始めたようで、私の所にも卒業生(郵便局員)が営業に来ました。

もうそんな季節なんですね。

 

そういえば、今年は巳年だったはずですが、こういうものは年末年始を過ぎると忘れきってしまうものですねと実感しています。

 

聖獣とか神獣とかいう言葉があります。

ヒンドゥー教におけるウシなんかは有名ですよね。

そこまでじゃなくても、十二支の動物も、ある意味聖獣なのだろうと思います。

 

そしてその中でもヘビは、民族を問わず「聖なる動物」として扱われることが多いようです。

 

人類は歴史的に、自身の力の及ばない生物に畏怖し、信仰の対象としてきました。

 

例えば、ライオンはエジプトでは神獣スフィンクスのモデルとなっています。

日本にも獅子として伝わって、正月に獅子舞をやったり、神社の門前で狛犬になってみたり、お寺で文殊菩薩を乗っけたりしています。

 

ゾウは古代インドでは世界を背中に乗せてみたり、ヒンドゥー教のインドラ神を乗せたりしています。

日本では普賢菩薩を乗せています。

また、擬人化したらヒンドゥー教ではガネーシャ神ですし、それが日本まで来ると歓喜天(かんぎてん)となります。

 

同じように、クマも世界各地で信仰の対象となっています。

ただトラは、四獣(四神)の白虎以外では、ワルモノ扱いされることのほうが多いようです。

日本でも、ヌエになって京の街に現れたこともありますし。

 

そして、ヘビも同じように、世界各地で信仰の対象となっています。

 

日本では、神の使いとしての白蛇が有名です。

また昔話では、ヘビが人間の男または女となって、人間と契りを交わす話が多々あります。

人間と契って子を産む動物の話は、ヘビ以外にはあまり聞きませんので、やはり少し特別な動物と考えられていたのかなあ、なんて解釈をしています。

 

中華圏で皇帝の象徴とされる竜も、ヘビをモチーフにしていることは自明でしょう。

先に挙げた四獣の一つである玄武は、ヘビがからみついたカメの姿をしています。

 

諸外国でも、ヘビは神獣として扱われています。

アステカのケツァルコアトルという、羽毛の生えたヘビは有名ですよね。

エジプトのファラオ像の頭にもヘビはくっついています。

インド神話にも、ナーガという名前の蛇神がたびたび出てくるみたいです。

 

と、いろいろあるわけですが、今回私が「ヘビが象徴するもの」として真っ先に思い出したのは、こんなものでした。

 

 

これ、第二次世界大戦中のドイツ軍の階級章(肩章)なのですが、通常の階級章にヘビのモチーフが追加されています。

実はこのヘビは、軍医であることを表しています。

 

本当はヘビの入った部隊マークもあったのですが、インターネットを英語でひっくり返しても、私の実力では見つけられませんでした。

(実家に帰れば資料があるんだけどなあ)

 

そして、このヘビの元ネタはこれです。

 

 

アスクレピオスとは、ギリシャ神話に登場する凄腕の名医です。

あまりに凄腕すぎて、ついには死者まで生き返らせてしまうようになったので、生死の秩序を乱すとしてゼウスに殺され、医学の神となったのだそうです。

そんな話から、今でも西欧諸国では、医療のシンボルとして、ヘビ付きの杖が使われています。

 

 

スターオブライフは、最近では日本でも、病院所有の救急車では見かけることが増えました。

日本医師会も、最近になってヘビのマークを使い始めたようです。

 

ところで、アスクレピオスにはヒュギエイアという娘がいて、父同様にヘビを連れています。

この娘が、アスクレピオスの脇で薬の入った壷や杯を携えていることから、今度は薬学のシンボルとして、ヘビを伴った杯が使われることがあるようです。

 

 

またこれとは別に、ヘルメスの杖というものがあります。

2匹のヘビがからみついていて、さらに翼があるのが特徴です。

 

 

ヘルメスは商売と旅の神なので、こちらはよく商業の象徴として使われています。

日本でも一橋大学や、日本各地の商業高校の校章として採用されています。

ですが、同じヘビ付きの杖ということで、どうもこれとアスクレピオスの杖を混同して使われているような例があります。

そんな恥ずかしい例が、なんと米軍にあります。

 

 

やっちまったか米軍!

……と思ったのですが、同時にこういうマークもあるんですよね。

共に米陸軍なのですが。

 

 

結局、わかっているのかわかっていないのか、よくわかりません。

 

ところでヘルメスは、商売の天才であると同時に、泥棒と嘘の天才でもあります。

つまり、「商売人ならば、嘘つきで泥棒であれ」……ってことですよねコレ。

西洋人が、商売に対してどういう考えを持っているのか、とてもよく分かる好例でした。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ156 「とう」と「とお」の違い(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2014.10号

 

「小人閑居して不善を為す」という言葉があります。
 
小人(しょうじん)とは、
つまらない人間という意味です。
 
閑居はヒマでいること、不善は善の反対ですね。
 
つまり、
「つまらない人間は、ヒマを持てあますと碌(ろく)なことをしない」
という意味です。
 
 
 

要するに私がそれなんですけど、
ヒマになると碌でもないことばかり考えています。
 
今回は、そんな脳内で考えた事の紹介です。
 
 
 
「通り」という言葉があります。
 
ひらがなで書くと「とおり」です。
 
「とうり」ではありません。
 
他にも、「遠い」は「とおい」です。
 
しかし、「冬至」は「とうじ」です。
 
 
 
何が違うんでしょ。
 
何でしょうね。
 
 
 
経験的に、
「オ段」を伸ばすときに
「オ」と表記する言葉は、
「ウ」と表記する言葉に比べて
少数派だろうということはわかります。
 
では、その少数派の
「オ」表記の言葉を集めてみましょう。
 
 
 


とおり(通り)

 

とおる(通る)

 

とおい(遠い)

 

こおり(氷)

 

こおる(凍る)

 

おおきい(大きい)

 

おおい(多い)

 

おおう(覆う)


 
 
 
発見しました。
 
これ、みんな和語ですね。
 
和語とは、漢字が伝わる前から
日本にあったと思われる言葉です。
 
もう少し違う言い方をすると、
訓読みの言葉が和語です。
 
 
 
つまり、日本語の本来の発音は
「トオ」
なんですよ。
 
それが、漢字が大陸から入ってきた時に、
「冬という文字の読み方はトウである」
と伝えられたのでしょう。
 
ということは、最初のうちは、きっと「冬至」も
「トージ」や「トオジ」とは読まずに、
「トウジ」と、
「ウ」をウとはっきり発音していた可能性があります。
 
可能性があるというよりも、
実際にウと発音していたでしょうね。
 
つまり、ゆっくり読むと
「ト・ウ・ジ」です。
 
 
 
かな文字は、漢字から作られたものです。
 
ですから当然、漢字よりも後から使われ始めています。
 
すると、
「とおい」
とひらがなで書いている頃には、
「冬」
という言葉は、日本にもう来ていたはずです。
 
そんな時、
「冬」って漢字に、読み仮名をつけて
読みやすくしようかなーとしましょう。
 
「冬」に「トウ」と読み仮名をつけて、
「これはトオって読むんだよ」
 
……なんてやりませんよね。
 
 
 
そもそもひらがなは、日本語の発音に合わせて
書く文字として登場しています。
 
片仮名なんて、漢字の読み仮名として
書き込んだのが始まりだと聞いています。
 
それなのに「トウはトオと読みましょう」なんて
ルールを作るわけが無いですよね。
 
 
 
ともかく、その後時代を経るに従って、
この二つの読み方は収斂していって、
共に「トオ」と同じ発音になってしまったのでしょう。
 
というわけで、和語はみんな、
オ段の伸ばす音を「オ」と書くのでしたー。
 
はい、無事解決ですねー。
 
 
 


ほうる(放る)

 

もうす(申す)


 
 
 
あれ?
 
いや、あれ?
 
え?
 
 
 
「放る」はともかく、
「申す」が漢語ってわけがないですし、
音読みでもありません。
 
 
 
もしかして、昔は
「もおす」と書いていたとか?
 
古語辞典を引いてみましょう。
 
 
 


「もおす」→なし

 

「まうす(申す)」


 
 
 
あっ……
アホだ俺。
 
そういやそうですよねー。
 
「申す」は昔は「まうす」だったんです。
 
当然読み方も「マウス」だったことでしょう。
 
それが今、
「モース」という発音になってしまっているので、
それに合わせて書き直されているだけなんですね。
 
 
 
ついでに、
「とおり」なども
古語辞典で確認しておきましょうか。
 
 
 


とほり(通り)

 

とほる(通る)

 

とほし(遠し)

 

こほり(氷)

 

こほる(凍る)

 

おほき(大き)

 

おほし(多し)

 

おほふ(覆ふ)


 
 
 
あ~~~~。
 
そっかー。
 
前言撤回。
 
 
 
日本語の本来の発音では、
通りは「トオリ」ではなくて
「トホリ」だったんですね。
 
つまり、
現代語で長音の時に「オ」と書くものは、
昔はみんな「ホ」だったと。
 
ホと発音していた言葉が、
時代を下るに従ってオに変化していったと。
 
そうだったのですか。
 
 
 
今回のように、
古典ではハ行で使われていた言葉が、
現代語ではア行に入れ替わって使われる例は
たくさんあります。
 
例えば、会うは昔は「あふ」でしたし、
臭うは「にほふ」、
食うは「くふ」、
舞うは「まふ」……。
 
 
 
待てよ。
 
 
 
まさか、現代語で「う」で終わる動詞は、
全部「ふ」だったとか……?
 
 
 
古語辞典巻末の活用表を見てみました。
 
四段活用の表に、「ア行」はありません。
 
 
 
もう何年も動詞の活用表を見ているのに、
これまで全く気づいていませんでしたわ。
 
 
 
活用とは、
動詞・形容詞・形容動詞の語尾が、
使われ方によって形を変えることです。
 
その変わり方をまとめて表にしたものが
活用表というものです。
 
 
 
活用の仕方は、
現代語と古語では少々違いがあります。
 
例えば、先ほどの「会ふ」は、
 
 

 
 
と、語尾が「アイウエ」の四段に変化しますので、
四段活用と言われています。
 
これの場合は、
「ハヒフヘ」と変化していますので、
ハ行四段活用と呼ばれています。
 
 
 
それに対して、現代語の「会う」は、
 
 

 
 
あ、ちょと待った。
 
先ほど、古典のハ行がア行になったとしましたが、
違いますね。
 
ハ行はワ行になっていますね。
 
やはりこちらも、時代と共に
発音がそう変化していったのでしょう。
 
先ほど挙げた
「会う」「臭う」「食う」「舞う」は全て、
ワ行五段活用ですから。
 
考えてみれば、
格助詞の「は」を「ワ」と発音するのも、
きっと同じ流れなのでしょう。
 
 

 
 

ということは、もしかして、
現代語でもア行五段活用は無い、
とか。
 
 
 
「行け!国語辞典!」
「ピカー!」
 
 
 
ありませんでした……。
 
 
 
さらに眺めてみると、
ア行で上一段・下一段活用する動詞は、
古典ではそのほとんどが、
ア行ではなかったようですね。
 
例えば、
「悔いる」は古典では「くひる」ですし、
「越える」は「こへる」、
「居る」は「ゐる」です。
 
 
 
例外は、
「射る」が古典でも「いる」なのと、
「得る」が古典で「う」であること
くらいしか見つかりません。
 
しかし、
そのうちの「射る」はヤ行だったのではないか
という説もあるようですので、
「う」→「得る」が、
ア行で活用するほぼ唯一の例外でしょう。
 
 
 
さて、ここまで放置していた「放る」の正体です。
 
放り投げる、放り出すなどと
色々なバリエーションを持つ「放る」ですが、
なんと、「ホウ」は
 
音 読 み
 
でした。
 
ですから、
「放る」という使い方は、
文化庁の常用漢字表に無い読み方、
いわゆる表外音訓だったのです。
 
 
 
もちろん、こんなことはテストに出ません。
 
 
 
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義