2019年1月

あすなろ153 アイスアイス(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2014.07号

 

いやー最近暑いですね。

暑いのでアイスの話でもしましょうか。

それとも季節柄、ウメの方がいいでしょうか。

ん?

どっち?

ウメ?

やっぱウメ?

ウメの方が好きだよね?

 

……ごめん。

アイスの話にします。

 

普段、アイスアイス言っている物には、ソフトクリームからガリガリ君まで全部含まれていると思います。

しかし、本当は色々と分類されているんですよね。

ご存じかとは思いますが。

 

メーカーで製造されて市販されているアイスには、種類別の表記が必ずあります。

「アイスクリーム」「アイスミルク」「ラクトアイス」「氷菓」

という4種類のアレです。

大抵は表側に、大きめの字で書かれているので、誰もが目に入っていると思います。

 

こういった表記は、どんな食品にでもあります。

しかし、大抵が裏側です。

なぜアイスに限って目立つように書いてあるのか、ちょっと不思議だったのですが、調べてみたら見つかりました。

どうやら、日本アイスクリーム協会による「公正競争規約」で、文字の大きさを自主規制しているようですね。

 

そんな分類ですが、先に挙げた4種類のうち、氷菓以外は、乳製品に分類されています。

そこから先は、乳脂肪や乳固形分の含有率によってグレードが決まっています。

 

具体的には、最も乳成分が多いのが「アイスクリーム」です。

次が「アイスミルク」、最後は「ラクトアイス」となります。

もちろん「アイスクリーム」が最もコクのある良い味を出す代わりに、最も高コストとなります。

高級路線のアイスを見ると、確かに揃って「アイスクリーム」との表示がありますね。

 

逆に、安いアイスは「ラクトアイス」の割合が高くなります。

ラクトアイスの場合、乳脂肪の代わりに植物性脂肪が使われることが多いので、見方によってはヘルシーとも言えます。

アイス食っててヘルシーもクソもないですが。

 

ところで、先に挙げたアイスクリームの公正競争規約ですが、よく読むと、結構細かいことまで決まっていることがわかります。

例えば、

 

「ラクトアイス」や「氷菓」では「ミルク」「MILK」の表示禁止

 

とか、逆に

 

「アイスクリーム」では植物性油脂の使用禁止

 

とか。

他にも、

 

「チョコ」と書くならカカオが1.5%以上入っていること

 

とか、

 

「最高」「ベスト」「一番」などは禁止

 

とか。

 

こういう業界ルールはきっと他の商品でも決まっていて、それをみんなで守っているから日本製は安心できるのでしょう。

 

逆に、そういう歯止めのない世界もあります。

例えば韓国ロッテ。

ロッテは元々韓国の会社ですので、当然韓国でもお菓子を売っています。

しかし、日本と同じ商品でも、中身が同じとは限りません。

※値段はほぼ同じ。


日本仕様


少し前までの韓国仕様


リニューアルしました! お値段同じ!


 

……それはともかく、暑い季節に冷たい物が食べたい、というのは誰でも考えることです。

その発想は古代からあって、記録上ではアレクサンダー大王が、乳や蜜などに山から運んできた氷雪を加えて飲んだという話があります。

今から2300年以上前のことです。

 

日本でも、平安時代には「削り氷」というものがあったと、枕草子に記録されています。

江戸時代には、富士山の雪を切り出して、江戸まで運んで将軍が食べた、なんて話を子供の頃に聞いたことがあります。

今回調べていくと、鎌倉時代にも、幕府に雪が献上されていたようですね。

幕府は途中で「富士山の雪の貢進は中止」なんて宣言しているくらいですので、雪は度々送られていたのでしょう。

 

同じ頃、マルコポーロが中国から「凍らせた乳」をヨーロッパに伝えたという話もありますが、まだ「アイスクリーム」よりも「シャーベット」などの氷菓が中心でした。

 

16世紀になると、イタリアでは人工的に氷点下を作り出す方法の発見によって、シャーベットのバリエーションが大幅にアップします。

そんな中、イタリアの大富豪(メディチ家)の娘が、フランスの王家に嫁いでいきます。

そして彼女がお抱えの料理職人や調理道具を一緒にフランスに持ち込んだ結果、フランスの貴族社会にも様々なシャーベットが伝わっていきました。

 

こういう文化の伝播方法は、ヨーロッパではよくある話だったりします。

チョコレートも、最初はスペイン王家の門外不出の技術だったのが、スペイン王女の嫁入りによってフランスに伝わって、そこから広まっています。

あすなろ97チョコレート

 

その後1720年、パリでホイップクリームを凍らせた、現在のアイスクリームの原型とも言えるようなものが登場しました。

 

一方アメリカでは、1851年、牛乳屋ヤコブ・フッセルが、余った生クリームの処理に困って、これを凍らせて販売することを思いつきます。

安価で量産したために、これ以降は一般庶民にもアイスクリームが親しまれるようになりました。

 

アメリカはこれ以降、アイス文化が大きく発展します。

1890年、チョコレートをかけたアイスを日曜限定で売り出す業者が現れ、ここからこのようなアイスがサンデーと呼ばれるようになります。

またアメリカは、1920年から「禁酒法」によってアルコール類が全面禁止されました。

そこで生き残りを図ったビール会社の多くはアイスクリーム産業に参入して、アイスクリーム業界はさらに急速に発展していきます。

 

日本においては、文明開化の明治2年、横浜で「あいすくりん」の製造販売が始まります。

鹿鳴館でも、フルコースのデザートにはアイスクリームが用意されていたようです。

 

大正時代にはアイスクリームの工業生産が始まり、後の雪印もこの頃に製造を開始します。

太平洋戦争時には製造が中止されますが、戦後は誰にでも始められる商売として、アイスキャンデー売りが登場します。

 

昭和30年、ホームランバー登場。

安い上に当たりクジ付きで、大ヒット商品となります。

今でも売っていますよね。

ただコレ、少なくとも私が中学生の頃までは、

 

安いのにちゃんと「アイスクリーム」のスゲエやつ!

 

だったのに、今ではいつのまにか「ラクトアイス」になっちゃっています。

ちょっと残念です。

 

平成元年、筑波大学生物学類の1年1クラスが、学園祭でどら焼きの生地とアイスを仕入れて、アイスどら焼きと名付けて販売します。

その後、地元のどら焼き屋では、いつからかアイスどら焼きという物が売られるようになります。

これは実話なのですが、ウチのカミサンは、アイスどら焼きを最初に売ったのは我々だ、ということを信じてくれません。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ206 グリム童話

あすなろ

 

 

 

2018.12号

 

小学生の頃は、漢字が好きでした。

 

漢和辞典を買ってもらったのは、小学2年生の時です。

以後、それは勉強机の上にずっとあって、たまに開いて眺めていました。

 

それをこじらせた結果、高校生から大学生にかけては、日常的に旧字体(旧漢字)を使うようになりました。

旧字体というのは、例えばこんなのです。

 


数学→數學

社会→社會

体育→體育

図書館→圖書館


 

こういう文字を、例えば学校の授業中にノートを取るときにも使っていたわけです。

乱の旧字「亂」は「マ・ム・ヌ」とか必死で覚えたり。

いやーアホですねー。

 

苗字なら、旧字体を見かける機会もあると思います。

例えば、沢辺さんが自分の名前を「澤邊」と書いたり、斉藤さんが「齋藤」と書いたり。

しかし、飯村さんが「飯村」と書いたり、近藤さんが「近」のしんにょうを点二つの「辶」と書いたりは見かけたことがありません。

先に挙げた斉藤さんも、旧字体の「藤」のくさかんむりは「十」が二つ横に並んだ四画で、下右の上部につく点「ソ」は「ハ」となるのですが、その形で書かれているのを見たことがありません。

 

地名と人名に関しては、別におかしいだの何だのと口を挟むつもりは全くありません。

しかしこのあたりの線引きが、端から見ていて不思議なんですよね。

 

なお、高島さんの「髙嶋」は、二文字共に旧字ではなくて「俗字」「異字体」などと呼ばれるものです。

このあたりもまた、どこから出てきた文字なのか、謎です。

 

さて、異字体はいいとして、そういった旧字体を使うようになったきっかけは、家にあった本です。

昔のパラフィン仕様の文庫本、「グリム童話集」です。

岩波だっけ?

 

もともと昔話関係が好きでしたので、父親が奥にしまってあったこれを本棚に並べた時には、嬉々として読み始めました。

で、この本が旧字体で記述されていたので、読みながら基本的な旧漢字を覚えられてしまったのです。

これが不幸の始まりか。

 

この本の内容は、もちろんグリム童話です。

しかし記述形式としては、ちょうど柳田国男の遠野物語のような本でした。

つまり、口伝を集めただけの資料的な書き方で、中には数行しかない話や、オチの無いような話も、そのまま書かれていました。

 

そうなんです。

グリム童話というのは、元々はグリム兄弟の創作した話ではないんですよ。

当時のドイツに伝わっていた話を集めたものなのです。

 

一応、グリム童話って?という方のために、代表作一覧を挙げておきます。

有名どころといえば、こんなあたりでしょうか。

 


オオカミと七匹の子ヤギ
ラプンツェル
ヘンゼルとグレーテル
灰かぶり(シンデレラ)
赤ずきん
ブレーメンの音楽隊
いばら姫(眠りの森の美女
白雪姫

 

※グリム童話と共に並べられるアンデルセン童話の方は、完全な創作です。

また、「遠野物語のような」と書きましたが本当は逆で、グリム童話の日本版が遠野物語だと思った方がいいでしょう。


グリム兄弟の本職は、言語学者で大学教授です。

兄の方は、ドイツ語の母音の上につく二つの点(「ä ö ü」の点)のことを「ウムラウト」と命名した人でもあります。

 

そんなグリムさん達が若い頃、恩師に頼まれて、民謡の収集を手伝ったことがありました。

その結果は一冊の本として刊行されているのですが、続編として童話集を出そうとしたとき、集めたネタを元の作者に送ったのに返事が来ない、音信不通、となってしまうことが起こりました。

だったらもう自分達で出しちゃおう、と出版したのがグリム童話、とされています。

 

その頃のドイツは、どうもそういう「民衆文化の収集」というのが流行していたようですね。

ナポレオンというフランス人がドイツを支配したために、ドイツの文化を守ろう、という風潮になっていたようです。

 

ただ、グリム兄弟はどうも、柳田国男のようには現地に足を運んでいなかったようです。

謝辞として、取材協力してくれた女性の名前を一人挙げているのですが、それなりに身分の高い人で、しかもフランス出身の人だったことがわかっています。

 

現在では、グリム童話のほとんどの話の取材源が、研究によって判明しています。

その結果、グリム童話の中のいくつかの話は、当時すでに出版されていた「ペロー童話集」との類似が指摘されています。

例を挙げれば、「長靴をはいた猫」「青ひげ」「赤ずきん」「いばら姫」「灰かぶり」などが、初版では同様の話がかぶっていました。

 

グリム自身もそれには気付いたようで、そのうちの「長靴をはいた猫」と「青ひげ」は、二版以降は削除しています。

 

ペローとは、フランスの作家・詩人です。

フランスの詩人の間では、民間伝承の昔話を詩にするのが流行っていたのですが、ペローはそれを子供向けに読みやすくアレンジしていました。

つまり、ペローの童話自体も、やはりどこからか集めた話でした。

 

要するに、グリムが聞いた話のネタ本があったからと言って、ニセ物とは言い切れないのです。

「ドイツ限定」という枠にとらわれなければ、グリム童話とは、

「当時ドイツ近隣で民間伝承されていた昔話の集大成」

なんて解釈もできると思います。

 

グリム童話の初版では、全156篇が収録されました。

その後は版を重ねる毎に話を増やしたり差し替えたりして、最終的な七版では全200篇になっています。

そこに至るまでには、当初の「研究資料」から「子供向け童話」へと性格を変えるべく、会話が増えたり描写が細かくなったり、逆に子供向けでない表現を削除されたりもしています。

 

さらに、二つの話を合成した例もあります。

有名な例では、「赤ずきん」のオチです。

元の話では、赤ずきんは狼に食べられて終わりでしたが、それを七匹の子ヤギのような終わり方にしたのはグリムです。

 

日本でも、似たような例はあります。

小泉八雲の「怪談」には、明らかに雨月物語と同じ話がありますが、あくまで筆者が聞いた話として、そのまま書いて出版されています。

(そもそも小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、雨月物語を知らなかったとは思いますが)

また、伝わる度にアレンジされた例では、日本書紀→万葉集→御伽草子と変遷していった浦島太郎があります。

 

でも口伝なんて、元々そういうものです。

当時流行していた都市伝説だと思って、気楽に読むのが正解だと思います。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ205 白村江の戦い(本編)

あすなろ

 

 

 

2018.11号

 

今回は、先月号「白村江の戦い(前史)」の続きです。

聖徳太子の登場する少し前、蘇我氏全盛期のころまでの話でした。

 

倭国(日本)は、過去に朝鮮半島の南部(伽耶)を支配していた時代があったものの、結局失われます。

これが562年ということですから、蘇我氏が台頭する少し前のことですね。

 

しかしその後も、倭国は百済と新羅に貢ぎ物を献上させていて、ある程度の圧力はかけ続けていました。

 

左は、倭国が朝鮮南部を支配していた頃の地図です。

朝鮮半島三国(高句麗/こうくり・百済/くだら・新羅/しらぎ)の位置関係は、こちらで確認してください。

 

(前回掲載の地図と同じです)



 

その後、チャイナは南北朝時代から隋、唐へと変遷します。

一方の日本は、聖徳太子の時代を経て、大化の改新が始まります。

 

当時の朝鮮半島は、百済と新羅が小競り合いを続けながらも、倭国にはそれぞれの王子を派遣して、忠誠を誓っています。

要するに人質ですね。

しかしこれは、強大な唐の侵攻に対して、いざとなったら倭国に協力してもらうためでもありました。

朝鮮半島の三国は、互いに侵略しながらも、倭国に対しては忠誠を誓う、という構図が続いていたわけです。

 

大化の改新は650年で一通りの改革を終えています。

 

その頃の新羅は、百済と高句麗から攻められ続けた結果、唐に忠誠を誓うことで援軍を頼ろうとしていました。

一方で唐は、高句麗を攻めても落とせないので、先に南方の百済から攻略しようと考え始めたようです。

 

倭国はといえば、630年に遣唐使を派遣することで、唐との関係もそれなりに良好に保ってきたようです。

どこの国とも対立しない、絶妙な外交が続いていたわけですね。

しかしこの不穏な半島情勢は伝わってきたようでして、朝廷内でも百済を助けるか、唐との関係を重視するか、どうも色々と揉めたようです。

651年には、新羅を討伐しようという進言も出されたが却下された、なんて記録もあります。

 

また、唐の状況を窺うためか、630年に一度行かせたっきりだった遣唐使を、653年・654年と2年連続で派遣しています。

もしかしたらこれは、唐と交渉をしに行ったのかもしれません。

 

その次の遣唐使は、659年でした。

しかしこの遣唐使は、帰国禁止措置を受けて661年まで帰れませんでした。

というのも、この時の唐は百済討伐の準備中で、それが倭国にバレないようにしたためでした。

 

そして、その翌年の660年、唐は大軍を派遣して、新羅と共に百済に攻め込みます。

そこからはたった半年ほどの戦闘で、百済王を降伏させて、百済は滅亡します。

唐軍がいかに強力だったかが窺えます。

 

しかし、唐の真の目的は、百済ではありません。

高句麗を後ろから攻めることです。

そこで、百済を滅ぼした唐の主力部隊は、次は高句麗戦のためにさっさと北上して、現地には新羅軍だけが残りました。

 

さて、百済という国は、国王が降伏した時点で敗北が決定しています。

しかし、首都以外にもまだ百済軍の城は残存していて、まだあきらめない百済軍は、国の復興を狙っていました。

 

先述したとおり、当時の百済は王子を人質として倭国に送っています。

今回はそれが幸いして、王子が無傷で残っているわけです。

ですからこの王子を擁立すれば、百済という国は復活するというわけです。

そこで、倭国にその旨の救援を依頼します。

 

当時の倭国の代表は、中大兄皇子でした。

皇子は、百済を助けるという判断を下します。

そして倭国軍は百済の王子を引き連れて、2年にわたって計3回の軍を出しました。

その結果663年には、南部に駐留していた新羅軍の駆逐に成功したのでした。

 

しかしそれに対して、唐は援軍を派遣します。

そして663年10月、白村江における戦いで、倭国軍は唐の大軍に大敗を喫します。

百済の王子は高句麗に逃げ込んで亡命しますが、少し後に高句麗もまた唐に滅ぼされました。

 

さて、中大兄皇子はここで、危機を感じます。

唐は朝鮮半島を確保したわけですので、そこをベースに倭国へと追撃してくる可能性があるからです。

そこで、上陸予想地点である九州北部には城を置いて、軍を駐屯させることにしました。

この拠点の管理機関が太宰府で、そこに常駐する兵が万葉集で有名な防人(さきもり)です。

 

さらに、唐とは戦争回避の交渉を続ける一方で、本土決戦に備えて都を奈良から琵琶湖畔に移転して、指揮系統をまとめるべくさらなる中央集権化を強行しています。

敗因の一つに、作戦・規律の統一なしに軍事行動を展開したこともあったからです。

 

当時の唐を敵に回すのがどれだけヤバいことだったかは、次の地図で理解できると思います。

黄緑色が唐の最大域です。



 

次に即位した天武天皇は、大宝律令を完成させると同時に、倭国を日本と改めます。

これは一説には、唐と交戦した倭国とは別の国だと主張するためだったとも言われています。

同時に、唐には改めて遣唐使を送って、国交正常化を目指したのでした。

 

この敗戦は、日本国存続の三大危機のうちの1つだったという人もいます。

あと2つは元寇と第二次世界大戦です。

 

唐には敗戦したのですが、日本は内政の大改革で危機に備え、外交努力によって乗り越えることができたのでした。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

 


―――参考資料―――



 

中大兄皇子/天智天皇

 

天武天皇(大臣無しで執務)