2019年5月
あすなろ210 コーヒー
2019.04号
コーヒー大好きおじさんです。
なんか気付くと毎日毎日飲んでいますね。
でも私に限らず、日本のおじさん達はコーヒーが大好きなのです。
民族ごとの匂いというものがあるそうです。
体臭もそうですが、空港に降り立った時から、もうその国の匂いがするんだそうですね。
私は海外に行っていませんので知りませんが。
そんな話を外人さんに言わせると、日本と言えば醤油の匂いなんだそうです。
そして以前の日本人も、やっぱり醤油臭かったんだそうです。
しかし現在、日本人ビジネスマンといえば、コーヒーの匂いがするのだそうです。
ある市場調査会社が2013年に調査した結果では、16歳以上の日本人の64%が「コーヒーを毎日飲む」と回答したようです。
ただ、これ以上の詳細データは見つからないのでわかりませんが、調査対象を「仕事しているおじさん」限定にすれば、もっと割合が上がるんではないでしょうか。
というわけでした。
みんなコーヒーが好きなんですよ。
とはいえ、コーヒーを飲んでいる人の何割かは、眠気覚ましが目的だと思います。
要は、カフェインの摂取ですよね。
カフェインは、名前の通りコーヒーから発見された物質です。
これの効果は、ウィキペディアくんによりますと、
カフェインの主な作用は、中枢神経を興奮させることによる覚醒作用および強心作用、脂肪酸増加作用による呼吸量と熱発生作用による皮下脂肪燃焼効果、脳細動脈収縮作用、利尿作用などである。医薬品にも使われ、眠気、倦怠感に効果があるが、副作用として不眠、めまいなどの症状が現れることもある。
となっています。
はい。
……で終わりにするのもアレですので、ちょっと説明します。
ウィキペディアくんが「カフェインが中枢神経を興奮云々」と言っていますが、カフェインを摂取して眠くならない理由は、「睡眠を阻害」という作用が第一に効いているようです。
興奮作用も確かにあるのですが、それよりも睡眠を阻害する効果の方が大きいようです。
これはどうも、神経細胞のアデノシン受容体が関係しているようですね。
なるほどー、神経細胞のアデノシン受容体ですか-。
そうですかー。アデノシンねー。
へー。
……ったって、「アデノシン」なんて知りませんよね。
高校生で生物を取っている人だと、もしかしたらATP(=アデノシン3リン酸)の方で名前を聞いたことがあるかもしれません。
要は、ATPの材料です。
ATPってのは、体内のエネルギー通貨とも呼べるものでして……
詳しい説明は避けますが、生物が体内でエネルギーを運ぶためには必須となる物質です。
また、アデノシンは実はアデニン+リボースのことでして、つまりRNAにも使われている部品なんですよね。
(ここで生物選択の人は「へ~」と言うんだよ)
で、それはいいのですが、ではアデノシン自体は体内で何をするかというと、わかりません。
はい。
わかりません。
いや、本当によくわからないんですよ。
試しに生物学事典を2冊引いてみて、ネットでも調べたのですが、イマイチわからないんですよね。
ただし、カフェインの効能を説明するサイトによりますと、アデノシンってのは
「疲れが溜まってくると増えてくるもの」
であり、
「寝ると減るもの」
らしいです。
で、脳のアデノシンを受け止める部位が「アデノシン受容体」で、これにアデノシンがたくさんくっつくと眠くなる、と。
ところが、カフェインはアデノシンと似た構造をしているために、摂取したカフェインは、本来はアデノシンがくっつくはずの受容体にくっついてしまうと。
そうすると、アデノシンが受容体にくっつけなくなるので、眠くならない、と。
上:アデノシンが付くと眠くなる
下:代わりにカフェインがくっつく
→眠くならない
とにかくなんか、そういうシステムらしいです。
じゃあ、アデノシンなんてない方がいいのかというと、アデノシン配合のクリームが、老化によるシワ消しに使われていたりするみたいです。
ということは逆に、カフェインを取ると老けるのかといえば、そういう話はどこにも見つからないわけでして。
うーん。
なんかイマイチすっきりしませんが、ともかくカフェインはそうやって眠気を抑えるようです。
で、これについてはこれで終わりにしちゃってもいいのですが、一応私なりに少し考えてみました。
もしかしたらこういうことかな、と。
1.疲労がたまると、それを回復させるために作る「何か」(ATP?)の材料とするために、アデノシンを増産する。
2.生産されたアデノシンは、血液によって運搬。
3.脳の神経細胞が、運搬中のアデノシンを感知すると、「何か」の生産効率(または疲労回復効果)を上げるために、睡眠を命令する。
(または、その生産には多くの酸素・血糖を必要とするために、脳に回す血液流量を減らす)
4.眠くなる。
体内の他の生理的反応システムから推測する限りでは、だいたいこんな流れなんじゃないかなあと思うのですが、どうでしょう。
要は、「腹一杯になると眠くなる」と、似たような仕組みではないかと。
ともかく、そんなような仕組みによって、カフェインは眠気を抑えているとのことです。
そして、この仕組みを上手く利用することで、カフェインの効果をより効率よく発揮させる方法があるのだそうです。
これを「コーヒーナップCoffee nap」といいます。
やり方は簡単です。
コーヒーナップの方法
1.コーヒーを飲む。
2.すぐに20分間の睡眠を取る。
3.すっきり。
そしてその理屈は、こんな感じらしいです。
1.アデノシンが残ったままでカフェインを取るのは効率が悪い。(カフェインが切れると眠気が一気に来る)
2.コーヒーを飲んでからカフェインが脳に届くまで、つまりコーヒーがその効力を発揮するまでは、20分くらい時間がかかる。
3.だからその間に睡眠を取って、アデノシンを無くしてしまうのが良い。
4.ただし、睡眠時間が30分を超えると、眠りが深くなってしまうのでお勧めしない。20分で起きること。
このコーヒーナップですが、実験でデータを取ってみると、実際にミスが減ったり記憶量が上がったり眠気が減ったりと、色々と良い結果が出るようです。
以下は、
・コーヒーのみ
・昼寝のみ
・コーヒー+昼寝(コーヒーナップ)
・カフェインレスのプラシーボ(コーヒーと騙してカフェインレスコーヒーを飲ませた場合)
を比較した結果、コーヒーナップが最もよい結果が出ているというデータです。
just coffee:コーヒーのみ
decaf placebo:カフェインレスコーヒー(プラシーボ)
coffee+nap:コーヒー+昼寝
errors:ミスした数
decaf placebo:カフェインレスコーヒー(プラシーボ)
nap:昼寝のみ
coffee:コーヒーのみ
coffee+nap:コーヒー+昼寝
この時、より効果的にカフェインを取るためには、エスプレッソやアイスコーヒーを、短時間で一気に飲んでしまうのが良いそうです。
この2つは、共に濃いコーヒーですからね。
ところで、脳をすっきりさせるために20分の昼寝がいいという話は、私は中学か高校の頃から聞いて知っていました。
ですからこのコーヒーナップ、そこから考えても信用してもいいのではないかと思います。
試す価値はありそうですね。
そうですね。
……いや、本当はもう今すぐ試したいのですが、もうコーヒー飲んじゃったんですよね。
というわけでまた今度。
なお、カフェインはコーヒー以外にも、
紅茶・緑茶・チョコレート・ココア
などにも含まれていますが、数値を見る限り結局は、コーヒーに一番多く含まれているみたいです。
……レッドブル?
ああいうのはまた別ですので。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
2019.05追記
コーヒーナップ、何度か試しています。
こういうのは、比較対象が無いとどのくらい効率が上がったのかは結局わかりませんが、悪くないかと思います。
ただ私の場合、胃が荒れるのでブラックは避けるように言われていまして、必ず牛乳を入れて飲んでいます。
コーヒーには致死量もあるとのことですので、人によってはそういう注意も必要かと思います。
あとですね、カフェインの効果は4~5時間持続するとのことです。
ということはつまり!
これを4時間おきに繰り返し続ければ、1日の睡眠時間は
20分×6=2時間!
で収まる!
すげー俺天才!
……ってわけにはいかないということは、もう学びましたので大丈夫です。
ほんと、よーくわかりましたから。
当たり前ですよね……はい……。
あすなろ209 何通りもの表現法
2019.03号
今回は、フェイスブックの塾ブログに寄せられた質問コメントから、その返答に相当する記事を書くことにします。
ネタ切れだからラクしちゃおう、ってわけじゃないですよ。
手抜きではありません。
いいこと? よく聞いてね? 手抜きじゃないからね?
……本題です。
寄せられたコメントは、こんなものでした。
(意味が変わらない程度に校正してあります)
子供ならきっと思う疑問、
「1つのことに色々な表現があるけど、どうしてそれを覚える必要があるのか?」
に答えられません。
例えば、
「使う」「使用する」「用いる」って表現があるけど、「用いる」まで覚える必要があるのか?
みたいな……
確かにその気持ちはわかるし、「用いる」って私も使ったことないな、と。
こういう子どもの疑問に、いい回答はありますか?
言葉の専門家みたいには詳しいわけではないのですが、わかる範囲で考えてみます。
日本語に限らず英語などでもそうですが、一つの事柄に対しての表現は、確かに何通りもあることが多々あります。
そして、大抵のものについては、我々はほぼ無意識に使い分けていると思います。
ただ、その使い分け方は、いくつか種類があると思うんですよね。
ちょっと思いつくままに、朝倉式に分類をしてみます。
①・微妙な意味の違いによる使い分け
②・使う主体(使う人)による使い分け
③・使う場面による使い分け
④・口語と文語による使い分け
⑤・趣味や好みによる使い分け
……んー。
こんなところでしょうか。
とりあえずは、ご質問いただいた「使う」「使用する」「用いる」を例に挙げてみます。
こういう言葉を調べる時は、普通の国語辞典ですと、どちらにも似たような説明があったり、説明がループしていたりする可能性があります。
こんな時は、「類語大辞典(講談社)」を使ってみようかと思います。
塾の国語辞典たち
ただし漢和と古語辞典を除く
……というつもりで並べたのですが、よく見たらベネッセのチャレンジ漢和が混ざっていました。
国語辞典にもそれぞれに特徴がありますので、引く言葉や説明する相手によって、使う順序を変えています。
最初に結論を言うと、この三つの言葉は本来、用法が少し違うものらしいです。
辞書からちょっと引用してみます。
使う
人が何らかの目的をもって物事を役立つようにする。
用いる
その機能や能力などを認めて、役立つように使う。
◇「お金を用いる」とは言わないように、消費物は対象としない。
使用する
物・場所・人などを使うこと。
◇対象となるのは、材料・薬品・規準・道具などで、消費物や意識は対象とならない。
……だそうです。
言われてみないと気付きませんが、確かにそういう違いはありますね。
でも言われると気付くと言うことは、いつの間にか無意識に使い分けているのでしょう。
これがまず、
①・微妙な意味の違いによる使い分け
にあたると思います。
また、同辞書の別のページ(※)には、「用いる」には「文章的表現」なんて注釈がありました。
※
類語大辞典は、似た意味の言葉を集めて並べるという編集をしています。
その結果、今回の「用いる」は、
「使う」の類語のページ
「採る」の類語のページ
「雇う」の類語のページ
という3カ所に掲載されています。
つまり「用いる」は、書かれた文章には使われるものの、会話には使われない言葉である、という意味です。
これが、
④・口語と文語による使い分け
です。
ここでは「口語=話し言葉」「文語=書き言葉」だと解釈してください。
しかしこれは同時に、
③・使う場面による使い分け
もあるように思えます。
「用いる」という言葉が持つ少々固いイメージが、書かれるシーンを選ぶことになるからです。
これについては、「用いる」よりわかりやすい、「使う」と「使用する」の例をあげます。
例えば、「使い方」と「使用方法」の二つの言葉を見て、どう思いますか。
全く同じ意味の言葉のはずなのですが、「使用方法」は子供向けの文にはあまり書かれませんし、専門家向けの道具の説明書に「使い方」なんて書き方は、まずされないと思います。
これが、「使う場面による使い分け」です。
よく小中学生の作文で問題になる接続詞「なので」も同じですよね。
「なので」は、公式の文書には完全に不合格です。
そもそも、文章というものには「場面による固さのグレード」と言えるものがあると思うんですよね。
同じことを言いたい文章でも、その固さのグレードによって、表現方法は何種類も使い分けられなければならないと思います。
私はよく、こんな感じの「くだけた文」を書いておりますが、「上司に報告する」「お役所に申請する」などのシーンでは、こんな文は書いてはダメでしょうね。
表現方法を替える必要があります。
しかし、どの程度でどの言葉を選ぶかは、
⑤・趣味や好みによる使い分け
もある程度は影響されます。
例えば長い文章を書くときは、接続詞を何度も使うことになります。
しかし短い間隔で、同じ言葉が何度も繰り返されると、少々「見苦しい文章」と感じられます。
↑今、「しかし」を近いところに2回使ってみました。
私ならば、こんな時は片方を「ところが」または「ですが」に入れ替えると思います。
入れ替えるべきか、そこまでする必要はないか、もしくは、入れ替えるとしたら何に入れ替えるか、という選択は、「趣味や好み」と言ってしまってもいいと思います。
最後に残った
②・使う主体(使う人)による使い分け
は、一番典型的なのは「オレ」と「アタシ」でしょう。
全く同じ物を指していても、使用者が違うだけで表現が入れ替わっています。
さて。
最初のご質問の回答は、まとめると
色々な表現を覚えるのは、表現の幅を広げるため
――てなところでしょうか。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
……とムリヤリしめるつもりだったのですが、もうちょっと付け足します。
まず、さらに6番目として
⑥・時間的・空間的使い分け
があってもいいかもしれません。
ただしこれは、
⑤・趣味や好みによる使い分け
と区別が付きにくい場面もありそうです。
要するに、単に時代の流行だったり、方言や地方性だったりする場合のことです。
例えば、命令文の「~したまえ」という表現は、明治大正の文学には会話文としてよく登場しますが、現在では日常会話としては使われません。
これが時間的使い分けと言えるものです。
空間的の例としては「方言」がありますが、こちらの説明は不要かと思います。
ところが元来は方言として「空間的使い分け」だったものが、現在では
②・使う主体(使う人)による使い分け
となってしまったものもあります。
第一人称の「ワシ」と「オレ」がそうです。
「ワシ」は現在はどういうわけか、ちょっと偉そうなジイサンが自称するときというイメージですが、本来は単なる西の方の方言です。
ですからそういう地方では、おばあさんも自分のことをワシと呼びますし、若者もワシを使います。
また、よく「ワシ」とセットで使われる「~じゃ。」も同じで、地方によっては若者でも「それはワシのじゃ~」なんて普通に使います。
別にジジイ専用の言葉ではありません。
一方、「オレ」は現在、男性が自分を指すときに使われる言葉として知られていますが、こちらは本来は東の方の方言でして、やはり同じようにおばあさんも使う言葉です。
これに限らず、自分を指す言葉と相手を指す言葉については、日本語は非常に多くの種類があります。
その理由は、「相手を指す言葉は尊敬語、自分を指す言葉は謙譲語」として発展したからだと思われます。
敬語にはキリがありません。
日本人はいつの時代も「もっと丁寧な言い方」を求め続けて来ています。
普通に使われていて何も問題ない敬語があったとしても、さらにそれを上回る敬語を作り出すことで自分の丁寧さをアピールする、なんてことが、歴史上で度々起こってきました。
近年では、「こちらでよろしかったですか?」に代表される、謎の過去形がそうですよね。
江戸時代、「候(そうろう)」を使えば丁寧だとされた頃は、そのうちやたらに候を付けるようになっていきました。
確か川柳だったか狂歌だったかで、「候候とうるさい」みたいなものがあったはずです。
その結果、「そうらえどもそうろう」という二重の候が生み出されたり、手紙を書くときにもそうろうそうろうばっかり書くのが面倒になって、「まいらせそうろう」と読む文字が生み出されたりしています。
赤丸内が「まいらせそうろう」
これと同様に、もっと尊敬もっと謙譲……と求め続けてきた結果が、今のような人称代名詞のバリエーションにつながったのでしょう。
これは日本語だけの話ではありません。
英語でもあります。
英語を習っていて、「同じことを言うのに何通りも言い方があってウゼー」なんて思ったことはありませんでしたか。
しかし、教科書に書かれていないだけで実は、微妙に使い分けられていたりすることもあります。
例えば、「I want」という表現があります。
しかしこの言い方はガキっぽいので、ちゃんとした大人は「I'd like to」を使うのだそうです。
「I want」より、少しだけ遠回しな言い方(婉曲表現)となっているわけですね。
また、公式に使われる「固い文」では、「harder and harder」みたいな繰り返し表現や、「tik-tak」「ding-dong」のような擬音語は敬遠されます。
また、先程書いたしかしのような、近い位置で同じ表現の繰り返しが起こらないように、同じことを言いたい場合でも、できる限り違う表現で書かれます。
オトナに多様な表現が必要となる点では、英語も日本語も同じだということですね。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ208 家紋・紋章
2019.02号
自分の家の家紋を知らない人って、案外多いみたいです。
私は、小学生の頃から、自分の家の家紋は知っていましたし、意識していました。
しかし、小学6年生の頃だったか中学生の頃だったか、何かのきっかけで、同級生では家紋を知らない子の方が多いということがわかって、結構驚きました。
だって、お墓についてるよね?
もしかしたら、墓参りには滅多に行かないとか、滅多に行けないとか、子供は連れて行かないとか、そういう家が多かったのかもしれません。
我が家の家紋は、「丸に井桁(いげた)」です。
寺に納められた位牌を見る限り、厳密には「丸に組み井桁」のようなのですが、周辺の朝倉さんの位牌はみんな「丸に井桁」の中、ウチだけが「組み井桁」になっています。
しかもですね、黒い位牌がずらりと並ぶ中で、ウチの位牌だけが金色。
超目立つ。
丸に井桁
丸に組み井桁
私が思うに、我が家も元々は普通の井桁だったと思うんですよ。
それを、どうやらひいじいちゃんだか誰かが、「こっちの方がいいじゃん」ってノリで、「組み井桁」にしてしまったのだろうかと。
なんせただ一軒だけ金色の位牌を選んじゃうような人ですから、きっとそういう人で、そのあたりが真相だと思うんですよね。
家紋というのは、確かにその家の伝統なのですが、こういうことも起こり得ます。
だって、変えたらダメっていうルールがないんですから。
そもそも、戦国時代とか江戸時代とかまで遡(さかのぼ)ると、家紋を家来に与えたり、逆に家来から召し上げたり、朝廷から賜ったり、交換したり、分家は形をアレンジしたり、とまあ色々とあったわけです。
家紋をもらっちゃった結果、複数持ちになる場合もありました。
織田信長も、元々織田家に伝わる家紋以外に、趣味で使い始めたり将軍家からもらったり朝廷からもらったりした結果、家紋を七つ持っていました。
伊達政宗は十を超えていたとか。
現在、我が国の家紋は、伝統的なものだけでも五千以上あって、確認されているものは二万を超えているとのことです。
日本に於ける家紋の起こりは、平安時代のようです。
貴族が自分の牛車や調度品につけた自分マークが始まりのようです。
しかしそれが、敵味方を区別する旗印として使えると判明してからは、武家にとっては必須のものとなりました。
江戸時代になって合戦がなくなっても、「礼服は紋付き」という風習が庶民にまで広がると、農民だろうと誰だろうと家紋を持つ必要性が生じてきました。
こんな具合に、家紋は日本の文化には欠かせないものとして、どこの家にも普通は伝わっているわけです。
最初に、墓についているなんて例を挙げましたが、日本人ならきっと、キリスト教徒でも家紋は持っているはずです。
なんせ、日本の文化に組み込まれているものですので。
実際、家紋を研究している人は、同時に苗字も研究している場合がほとんどで、文化的には家紋は苗字と同じレベルで「当たり前のもの」と思ってもいいようです。
ところで、「家紋にはルールがない」というような書き方をしたのですが、厳密には全く無いというわけではありません。
例えば江戸時代は、葵の紋は徳川家以外は絶対に使用禁止でした。
「水戸黄門」で葵入りの印籠があれだけ効くのは、そんな理由なのです。
※ 葵の紋については、本多家の「立葵」だけは例外的に許可されていました。
三つ葉葵(徳川家)
丸に立葵(本多家)
※私の祖母は本多家出身で、家紋も立葵だったそうです。
また現在では、天皇家を表す菊花紋章が、国旗と同じ扱いとされています。
そのため、これに類似したデザインも含めて、商標登録を禁止されています。
十六八重表菊(天皇家)
十六菊(パスポートなど)
さて、家紋に類するものとしては、西洋諸国の「紋章」があるのですが、日本と西洋諸国以外の地域では現在、こういった文化はありません。
例えば、チャイナに建てられた国家では、皇帝の証として「五爪の竜」が好んで使われましたが、清を最後に途絶えています。
五爪の竜とは、四足に爪(指)が五本ずつある竜のことです。
皇帝以外には使うことは許されず、周辺国の王は四爪の竜を使うことが許されていました。
西洋の「紋章」は、日本の家紋と似てはいますが、同じではありません。
家紋は一家・一族の印ですが、紋章は個人の印として使われます。
ただし、家の印も組み合わされていますので、日本の家紋と通じる点もあります。
紋章とは元々、中世の騎士が、甲冑を着て顔が隠れても区別できるように、個人ごとに盾を塗り分けたのが始まりとされています。
その頃、日本では平安時代でした。
偶然、日本と同じ時代に、同じような目的で興ったのです。
また、紋章がさらに家紋と違う点は、細かいルールの存在です。
例えば、
・盾を中心として、その周囲に配置するものの位置と種類
・そこに使える色の種類
・その色同士の組み合わせ方
・家と家が婚姻関係を結ぶときにはその配置の組み合わせ方
などの規則が、かなり細かく定められています。
そして、同じ時代に別の個人が、同じ紋章を使うことは許されません。
(親の死後、親の紋章を受け継ぐことならできます)
各国には、このようなルールを管理するお役所も作られました。
イギリスには現在も「紋章院」という国王直属の機関がありまして、紋章を管理しています。
紋章院の設立は1484年。
日本では室町時代で、ちょうど銀閣が建てられた頃です。
すごいですね。
で、今回、これを書くにあたってその紋章のルールを調べてみたわけですが、いやあ、またこれが複雑で、読んでいても眠くなるばっかりでちっともわからないんですわ。
なんとか寝ないようにがんばって読んだ結果、まあ、部分的にはわかったのですが、全部をマスターするのは無理ですね。
ちなみに、日本語版ウィキペディアの「紋章学」の項目も、多分よく理解していない人が、英語をただ翻訳しただけのものを貼り付けたようです。
いや、ほんとこれ、そうだとしか思えません。
だって見てくださいよ、この文。
紋章のこの専門的な説明は、紋章の特定の描写において、たとえどんな芸術的な解釈がなされるかもしれなくても、厳守されなければならない標準である。
こりゃあ、いくらなんでもダメでしょ。
こんなの日本語とは認めませんよ私は。
では、紋章の例です。
この二つは、上はヘンリー王子、下はヘンリーと結婚したメーガン妃の紋章です。
下のメーガンの紋章の盾は真ん中から左右に分割されていますが、そのうちの左半分は、上のヘンリーの盾の模様をコピーして押し込んだものだというのがわかるでしょうか。
一方で右半分の青は、出身地のカリフォルニアを示すものだそうです。
盾の左には、ヘンリーを守るライオンが受け継がれています。
また、右側の鳥はメーガン自身を表しています。
今回は、メーガンさんの家に紋章がなかったのでこれで済んでいます。
しかしこれが王家同士の婚姻ですと、このヘンリーのような紋章同士が二つ組み合わさって、さらに細かい模様となっていきます。
そうやって受け継がれていった結果、次のハプスブルク家のような、非常に複雑な紋章ができあがることがあります。
しかしその代わり、複雑になったこの細かい紋章を調べていけば、これまでにどこの家とつながってきたのか、その歴史がわかります。
つまりこれは、家系図のようなものだと言えます。
このような紋章を調べるのが、上でwikiの変な直訳をご紹介した「紋章学」です。
紋章については、今回詳しく書かなかったルールがいっぱいあります。
一応の概要と、あといくつかのルールは理解したのですが、今回は書き切れませんでした。
調べていくと面白いみたいですよ。
眠気に強い方は。
一方、日本の家紋については、学生の頃にもそんな本を何冊も買ったことがあるのですが、こちらは本当にキリがないですね。
そういうわけで、家紋はそこそこ知っている方だという自信はあったのですが、今回色々と調べていくと、まだ知らない家紋がいっぱい見つかりました。
ちょっと悔しい。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ168 きのこ(過去記事)
2015.10号
以前書いたことがありますが、私は文を書く際に、動植物名を科学として書く場合は片仮名で、文化や生活として書く場合は平仮名もしくは漢字で書いています。
例えば、
「庭に近所の猫が入ってきた」
「ネコの仲間は爪を格納できるが、チーターだけは格納できない」
などなど。
他にも、片仮名を平仮名を意図的に使い分けている言葉はあります。
例えば、我が家という意味の「うち」は「ウチ」としていますし、自動車という意味の「くるま」は「クルマ」としています。
なんでかって言われても、たいした理由ではないのですが、
「漢字では本来の意味から外れるが、さりとて平仮名表記すると文に紛れて読みにくいから」
といったところでしょうか。
どうでもいいことですのでダラダラ書くのはヤメにしますが、←この文のように漢字が少ない文は、「ダラダラ」「ヤメ」を片仮名表記することで、メリハリが効いて読みやすくなります。
片仮名、便利ですね。
さて、そんな風に片仮名を使い分けている私ですが、最近、片仮名と平仮名で別のものをイメージしてしまう単語を発見しました。
えのき
エノキ
皆様は、この二つを読んで、何を連想しますか?
私の場合、前者はエノキダケというキノコ、後者はエノキという樹木を連想します。
自分でも無意識に、先に書いた「平仮名は文化生活ジャンル」という俺ルールが適用されていたなんて、本当にびっくりです。
木なんて連想しない?
まあそういう人の方が多いでしょうね。
でも下妻の人なら、エノキはオオムラサキの幼虫の食樹(エサ)だということを知っていてもいいと思います。
オオムラサキ(シモンちゃん)
日本の国蝶とされています。
キノコといえば、他にもマツタケ、シイタケ、エノキダケなどがありますが、この名前はそれぞれマツ、シイ、エノキの木と関係あります。
マツタケはマツに生えますし、シイタケはシイに生えます。そしてエノキダケはエノキに生えます。
ところが上記三種のうち、シイタケとエノキダケは倒木から生えるのですが、マツタケは生きた木からしか生えません。
ですから、シイタケとエノキダケは、栽培用の原木さえあれば狭い場所でも量産が容易に可能となるのですが、マツタケは生きた松、つまり松林が無いと「生産」できません。
マツタケの価格が高いのは、そういった理由です。
しかし終戦直後の頃までは、マツタケといえば比較的安いキノコでした。
マツタケが良く生えるためには、アカマツの木の根元付近がきれいに掃除されている必要があります。
そして当時は、松葉や松の枝を燃料などとして利用していたために、マツタケの生えやすい環境が常に整っていたのです。
アカマツの木自体も、旧街道沿いには松並木として残っていたり、未開発の松林が各地にあったりして、ありふれたものでした。
しかし近年、松林が切り開かれたり、松並木が病害虫によって枯らされたりした結果、マツタケが希少なものとなっていったわけです。
一方で、シイタケは昔からずっと、日本で最も愛されてきたキノコと言えるでしょう。
現在でも、日本で最も出荷額が高いキノコとなっています。
なお、和食で出汁といえば、鰹節、昆布、干し椎茸の三つが代表で、はるか昔から精進料理に欠かせない食材でした。
ところが、現在のように原木に菌を植え込む栽培法が確立したのは、昭和になってからの話です。
それまでは、ほとんどが天然物でした。
江戸時代には、原木を用意して天然の菌が付くのを待つ、という栽培方法もあったようで、藩の事業としても行われていたようです。
エノキダケは、出荷額はシイタケに負けるものの、現在は出荷量が最大のキノコです。
なのですが、こちらをご覧ください。
はい、エノキダケです。
……マジっすか。
実は、天然のエノキダケは、こんな立派なキノコだったのです。
では、あの売っている白い細いのはなあに?というと、アレはエノキダケの「モヤシ」なのです。
どうやら、暗いところで育てると、ああいう色形になるんだそうです。
いやあ、びっくりですね。
食用のきのこといえば、他にもマイタケ、エリンギ、ナメコ、シメジなどがあります。
中でもシメジは、
「昔、『味しめじ』という名前で売っていたのは、実はヒラタケ」
「その後、『ホンシメジ』という名前で売っていたのは、実はブナシメジ」
「名前の由来はかつては『湿地』からだと国語学者が書いていたのを『そうじゃない、占地だ』と主張したのは、かの牧野富太郎」
「『香りマツタケ味シメジ』というのは、かつては高価なシメジが買えなくて安価なマツタケで我慢した庶民の負け惜しみか」
……など、面白い逸話の多いキノコなのですが、今回は割愛します。
そんなわけでスーパーに並ぶきのこ達ですが、きのこって、野菜……ですよね……。
野菜の定義を求めて、辞書を7つほど引いてみました。
そのうち5つには、「食用とするために畑などで育てる植物」などとなっていまして、残り2つは「植物」という言葉の代わりに「草本」という言葉が使われています。
植物かあ……。
またこの問題に来ちゃったなあ。
分類学上は、キノコは植物とは言い切れないんですよねえ。
それならば、お役所に聞いてみることにしましょう。
日本政府さまこんにちは。
総務省の「日本標準商品分類」を見てみました。
こちらでは、きのこは穀類・肥料用作物・野菜・花木・樹木のいずれにも入ってなくて、別項目として扱われていました。
やっぱりアレは、野菜とは別扱いなんですね。
一方、農林水産省の統計情報でも、野菜の中にきのこの名はありません。
どこなのか探しまくった結果、「特用林産物」という項目が。
開いてみると、しいたけ、なめこ、たけのこ、くり、わさび、ぜんまい、木炭……。
きのこ栽培は、林業でした。
林業!
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ164 寿司(過去記事)
2015.06号
その日の朝倉は、ちらし寿司が猛烈に食いたくなったわけです。
しかし、重大なことに気付いてしまいました。
そういえば、ちらし寿司って、どこに行けば食えるのだろうか……。
そんな話をカミサンとしていて、そこでさらに気付く事実。
「この辺って、ちらし寿司ってないよね」
「いや、あるよ」
「寿司の上に刺身がみっしり詰まっている奴をちらし寿司と呼んでる店なら知ってるけど、そんくらいかなあ」
「いや、ちらし寿司ってそういうのでいいんじゃないの? なんか別に違うちらし寿司があるわけ?」
なんと、「ちらし寿司」という料理がどんなものなのか、夫婦で共通認識ではないことが判明したのです。
私の考える「ちらし寿司」は……
酢飯
シイタケ、レンコン、ニンジン、エンドウあたりの煮染め
錦糸卵
を混ぜ込んであるもので、そこには刺身はおろか、海産物はひとつも入っておりません。
強いて海産物の具を挙げるとしたら、海苔くらいのものです。
これを書きながら、そういえばどこかの店で、これに近い物にイクラを乗せたものを見たことがあるなあ、なんてことを思い出しました。
しかし、私の知る正統派「ちらし寿司」には、イクラもありませんでした。
そもそも「ちらし寿司」というものはですね、
花見などで、桶のまま風呂敷に下げて持って行って、現地でよそっていただくもの
などという食べものなのです。
運動会でも、寿司桶でお弁当、なんてのがありましたよね。
ですから、刺身だのイクラだのという生ものが乗っているはずがないんですよね。
イメージ的に、こんな感じです。
ところが、そういった私の考える「ちらし寿司」は、どうやら、関西風の呼び方なのだそうです。
関東式と区別するために、「五目ちらし」「五目寿司」という呼び方もあるようですね。
「ばら寿司」と呼ぶ地域もあるそうです。
元来「ちらし寿司」とは、元々は酢飯の上に刺身をちらしたもの……
つまり、関東近辺で見る「ちらし寿司」を指す言葉なのだそうです。
そうでしたか。
私は母親が大阪出身で、父親もしばらく京都にいたことがあったために、いつの間にか関西風の呼び名で覚えたのかもしれません。
ちなみにウチのカミサンは神奈川育ちです。
なお、関東で「ちらし寿司」と呼ばれる刺身みっちりのアレ――私に言わせれば「海鮮丼」――は、愛知県の寿司屋では「ばくだん」という名前で出されています。
アレを「ちらし寿司」と呼ぶのは、やはり関東ローカルなルール……なんだと思うんですけどねえ。
もう少し言ってしまうと、そもそも酢飯に刺身をちょいと乗せるだけの、いわゆる握り寿司は「江戸前寿司」であって、要は「江戸地方の寿司」です。
つまり、酢飯に刺身を乗せるだけという形式自体が、元は異端だったはずなのですが。
関西では伝統的に、江戸前よりも押し寿司の方が親しまれています。
「バッテラ」や「鯖寿司」は、典型的な関西風の押し寿司です。
関西以外でも、北陸の方の「鱒寿司」は、やはり押し寿司ですよね。
私の母親のさらに親は奈良出身ということもあって、子供の頃には何度か、奈良名物の「柿の葉寿司」を作ってもらったこともあります。
柿の葉寿司も、やはり押し寿司です。
そんなわけで、私は押し寿司が結構好きなのですが、10年くらい前までは、関東では「日本各地の名店フェア」のような所でしか見かけることはありませんでした。
しかし数年前から、コンビニで鱒寿司が売られるようになったので、いつでも食べられるようになって嬉しい限りです。
まあそんなふうに、地域によって呼び名が変わってしまうほど、寿司にはバリエーションがあるわけです。
これは、寿司という食べ物の歴史が長くて、日本に深く根付いている故に起こってしまった現象なのだと解釈しています。
それにしても、寿司と言えば今では、世界的にはすっかり日本食として有名になっています。
しかし、確かに魚を生食するのは日本だけかもしれませんが、酢飯の素になる米も酢も、アジア一帯で普遍的な食材です。
それなのに、これを組み合わせた食文化を作ったのは日本だけ、というのも不思議なものです。
しかし寿司の原型は、日本以外にあるのです。
東南アジアで、魚を長期保存するために、米や塩と一緒にして乳酸発酵させる、という方法が発明されました。
乳酸発酵とは、乳酸菌の働きによって、タンパク質を保存の利く状態に変化させることです。
ヨーグルトを作る菌も乳酸菌です。
そんな発酵食品は、その後東アジア各地に広まっていきました。
例えば中国、台湾、カンボジア、フィリピン、タイなどでは、今でも伝統料理として残っているとのことです。
同様に日本にも、東南アジアから南西諸島経由で伝わってきました。
この料理は、日本では「熟れ鮨(なれずし)」と呼ばれています。
これがいつごろ伝わってきたのかは不明ですが、奈良時代にはすでにあったようです。
平安時代の調(租・庸・調のアレね)の記録によれば、当時の西日本各地には、何種類かの熟れ鮨があったことがわかっています。
この熟れ鮨、ヨーグルトと同じ菌が作るというところからも想像できると思いますが、こうやって発酵させた魚は、酸っぱくなります。
他の国では、この酸っぱくなった魚を、主にスープや炒め物の具として使うということです。
すると、とても良い味が出て旨いのだそうです。
昔の日本人も、最初は同じように調理して食べていたのかもしれません。
しかし室町の頃から、日本では魚を発酵させる「漬け床」として入れた米までも、一緒に食べるようになってきました。
これは例えれば、ぬか漬けのぬかを喜んで食べているようなものです。
もちろん食べられるものですから食べてもいいのですが、まあ何というか、ケチというか意地汚いというか、おかしな民族ですね。
そして江戸時代になると、酢が単体で製造されるようになります。
こうなると、米を一から乳酸発酵させるのではなくて、いきなり酢をかけて短時間で酢飯を作ることが可能になります。
きっとそこから、酢味の魚にこだわらない、様々な寿司文化が花開いたのでしょう。
酢飯を素材とした巻き寿司、押し寿司が生まれたのは、恐らくこれ以降だと思われます。
そしてさらに、究極の早作り法として発明されたのが、江戸前のにぎり寿司です。
江戸前寿司は、最も近代的な寿司の進化形だと言えるわけですね。
さて。
外食で「ちらし寿司」を期待できないと悟った私は、「永谷園のすし太郎」を買ってきて解決したのでした~やった~。
でも、カミサンも子供達も、反応はイマイチなのです。
どうやらこの食べ物は、「寿司」というイメージに合わない模様。
食文化って、難しいですね。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
※2019.02追記
今、インターネットで「ちらし寿司」を画像検索すると、刺身と錦糸卵がごちゃ混ぜになったものが多数ヒットします。
色々な人の創作により、徐々にどっちという区別がなくなってきているのかもしれません。
また、「ひな祭りと言えばちらし寿司」という風習もあるらしいことを発見しましたが、これは知りませんでした。
なんせ男兄弟の我が家には、ひな祭り自体がありませんでしたので。
あすなろ207 船首
2019.01号
つい先日、マンガを読んでいて初めて知ったのですが、城門を破壊する時に突くでかい丸太のことって、ラム(battering ram)って言うんですね。
上:ラムの使い方
下:屋根と車輪の付いたラム(屋根は矢よけ)
ラム(ram)といえば、昔の軍船についていた「衝角」も同様に突いて破壊する兵器ですが、これの語源がこんな所にあったとは知りませんでした。
ちょっと感激しました。
と書いても、そんな言葉知らないと言う方がほとんどかと思いますので、ご紹介します。
古代ギリシャエジプト時代から第二次世界大戦に至るまで、海戦では相手の船を沈めてしまえば勝ちです。
そのために有効な戦法の一つが、舳先を相手の腹に当てて破壊することでした。
その効果を高めるために、船の喫水線より下側を前方に突き出した形状にすることがありました。
これがラムです。
ラム戦は、元はといえば紀元前の戦法です。
しかし16世紀ごろまでは、大砲の威力と精度が低かったために、ずっと主力の戦法として使われ続けていました。
※ 日本の伝統的な船は構造上、体当たりができるような強度がなかったために、ラムは発達しませんでした。
上:ラムを備えた軍船(古代ギリシャ)
下:戦艦 三笠(日露戦争)
しかし日露戦争以降の海戦では、敵艦との距離が縮まる前に砲撃戦で決着がつくようになったので、ラムは廃れていきます。
その結果、単純な形状の船首「クリッパー・バウ」が主流になります。
クリッパーとは大航海時代の大型帆船で、ティークリッパーとして活躍したカティサークが有名です。
まあ要するに、横から見ると直線的なシルエットの船首となったわけです。
その傾斜がきついものはアトランティック・バウなんて呼ばれることもあるようですが、明確な境界はありません。
上:クリッパー・バウ(カティサーク)
下:アトランティック・バウ(ドイツ戦艦 グナイセナウ)
しかし当時の日本の技術者は、新しい船首を開発して、軍艦に採用するようになります。
それがスプーン・バウ(またはカッター・バウ)です。
横から見ると、クリッパー・バウよりも丸く湾曲した形をしています。
スプーン・バウの例
上:駆逐艦 若竹
下:軽巡洋艦 長良
スプーン・バウが採用された理由は、機雷避けだとか軽量化だとか高速化だとか諸説あって、どうもよくわかりませんでした。
しかし当時の海軍はこの形状が気に入ったようで、十年ほどは作られ続けています。
ところがその一方で、問題点も見つかりました。
この形状では波を甲板までもろに被りやすくなるのです。
ひどいときには、巻き上げた水煙で砲撃ができなくなりました。
波を大きく巻き上げる(戦艦 陸奥)
そこで今度は、上部の張り出し(フレア)を大きく作って、波を上まで上げないような形状へ変更していきます。
それがダブルカーブド・バウです。
下の写真で、水面から甲板に向かって、大きく開くようにカーブしている様子がわかるでしょうか。
こうして日本の軍艦の船首は、特有の複雑な形となっていったのです。
先にあげたグナイセナウは同じ時代の戦艦です。
形状を比べてみてください。
上:重巡洋艦 足柄
下:戦艦 大和
ところで、ここにあげた戦艦大和は、喫水線の下が前方に丸く出っ張っています。
この部分は、バルバス・バウと呼ばれています。
バルバス・バウを本格的に採用したのは、日本海軍が始まりです。
原案を考案したのは日本人ではありませんが、その形状と効果の関係を算出したのは日本の研究者です。
現在ではその改良型が、貨物船・大型漁船・大型客船などに数多く採用されています。
新旧のバルバス・バウ
上:戦艦 大和(大戦中)
下:大型客船 飛鳥II(現在)
バルバス・バウは、船首によって発生する波を押さえる働きをしています。
バルバス・バウがない船首では、下図の4のような波がおこります。
一方で、棒だけを水中に入れて進めると、3のような波がおこります。
この波のおこり方をうまく調整して、3の波と4の波が打ち消し合うようにすれば、船にかかる波の抵抗が減って、速度も燃費も上がるというわけです。
バルバス・バウの働き
3:バルバス・バウが作る波
4:バルバス・バウがない場合に発生する波
5:合成された波
※反対の波を発生させることで元の波を打ち消すという手法は、ノイズキャンセリングヘッドホンや、レシプロエンジンの一次振動減少にも使われている。
今回は、ちょっとオタクな話でした。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ133 色のお話(過去記事)
2012.11号
色のお話です。
日本語には、様々な色を表す言葉があります。
日常的に使われる赤、青などの言葉以外に、緋色、小豆色、浅葱色、江戸紫、などなど、名前を聞いてもすぐにイメージできないものもたくさんあります。
ですが、その最も基本となる色は、日本語においては白、黒、赤、青の四色です。
この四つだけは、他の色を表す言葉よりも、古くからある言葉です。
なぜこの四つが古いとわかるのでしょう。
もちろん、昔に書かれた文を逐一探していけば、時代が下るに連れて新しい言葉が増えていくことはわかるでしょう。
しかしそれをしなくても、今の日本語からも、この四つだけは特別だということが、文法的にも判断できます。
白、黒、赤、青には、色名に直接、語尾「い」をつけて、形容詞にすることができます。
すなわち「白い」「黒い」「赤い」「青い」という形になる、ということです。
しかし、他の色にはこういう使い方が(正しい日本語としては)ありません。
さらに、それを重ねて強調する副詞的用法があるのも、この四つの色だけです。
すなわち「しらじらと」「くろぐろと」「あかあかと」「あおあおと」という変形ですね。
ただ、形容詞となる色名は、実は他にもあります。
黄色い、茶色い、の二つです。
しかしこの通り、この二色は最初の四色と違って、形容詞になるためには「色」という語が必要となります。
それ以外の色、例えば緑、紫、水色、などの色名は、「い」で終わる形容詞とは成り得ません。
そういうところからも、黄色と茶色は、最初の四色の次に古い言葉だということがわかります。
では、最初の四色の語源は、どこから来ているのでしょう。
まず、赤からいきます。
「赤」は、「あかるい」と語源が同じだと考えられています。
「夜が明ける」の「あける」にも通じています。
では、その反対の色はというと、「日が暮れる」の「くれる」と、夜を表す「くらい」を語源とする言葉です。
つまり、これが「黒」になるわけですね。
おや?
赤の反対が黒?
白は?
白はどうなのかというと、「知る」「印(しるし)」「記す」などの言葉と語源と同じとするらしいです。
この言葉に共通するのは、「物事をはっきりとさせる」という意味ですので、「はっきりした色=白」というのが本来の意味である、と考えられているようです。
はっきりした色が白ならば、その反対は、最後の一つの「青」となります。
青は植物の「藍(あい)」と語源が同じで、そこから転用されたと考えられています。
なんではっきりしないと青なのか、その説明が書かれている文は見つかりませんでしたが、そのヒントは、日本語における「青」と「緑」の関係にありそうな気がします。
日本語では本来、「青」という言葉は、緑もカバーする広い意味を持っていました。
それは今でも「青葉」「青信号」「青リンゴ」などの使い方からわかります。
ということは、昔の日本語でいうと、山を見れば「青」、空を見ても「青」、海を眺めても「青」となってしまうわけです。
つまり、自然界に一番溢れている色が「青」ということになります。
ですから、着物を青く(または緑に)染めれば、それは目立たない色、つまりはっきりしない色、ということになるのでしょう。
だから、はっきりしない色は「青」なのだ、と。
それでは逆に、自然界において一番はっきりした色とは何か、と考えてみます。
色の中で、一番人間の目を引く「目立つ色」は、赤だと考えられています。
それは今でも、危険・注意を表す表示には赤が使われていることからわかります。
(私はこれに関して、赤は血の色だから本能的に危険信号として働くのだろう、と推測しています)
危険を表す色としては、黄色と黒という組み合わせなどもありますが、単色では、やはり赤が一番使われます。
赤信号や自動車のブレーキランプ、消火器、非常ボタンなど、見逃してはいけないものやとっさに見つける必要があるものは、必ず赤いはずです。
そこから、本来白を表す意味の「はっきりした色」という定義を、赤に転用するという解釈が生まれた可能性があります。
逆に、白の語源である「知る」は、「知識に明るくなる」ところから、「明るい=知る=白」となっていったかもしれない、とのことです。
白と黒を対とする使い方は、奈良時代には早くも登場するようです。
このころには、今の白と黒が確定していたのでしょう。
こういった言葉の逆転は、日本語においては他にも例があります。
有名どころでは、「すずむし」「まつむし」と「こおろぎ」「きりぎりす」が挙げられます。
これは、古くから続く言語ならではのトラブルだ、ということにしておきましょう。
では、次点となった茶色と黄色です。
茶色は、お茶で染めた布の色から来ています。
実際に飲むときのお茶の色はもちろん違いますし、茶の実の色(茶色ですよ)でもないんだそうです。
なあんだ。
黄色は、木色から来ていると思われますが、ネギ(葱=き)の食べる部分から来ているという説もあります。
これだけだとよくわからないのですが、ネギの芽の色である「萌葱色」、つまり黄緑色とも関係があると言われると、ああなるほどという感じがします。
それでは、緑という言葉はどこからかというと、どうも本来は「みずみずしい」という意味を持った言葉だったようです。
現在にも、赤ん坊を表す「嬰児(みどりご)」という言葉にその名残があります。
そこから転じて、若葉色=緑となったのでしょう。
以上に挙げた七色以外の色名は、全てが別の物の名前を転用したものだそうです。
紫色は「ムラサキ」という植物から、橙色は「ダイダイ」という柑橘から、灰色は灰から、などなど。
じゃあ朱色の「しゅ」って何? と思って辞書見たら、朱(しゅ)は音読みでした。
同じ意味を持つ良い日本語が無かったために、そのまま外来語を使ったのでしょう。
今でいえば、カーキやベージュみたいなものなのでしょうね。
ところで、色といえば。
子供が適度に伸びてくると、男の子は勝手に青黒い格好になってきて、女の子は目にまぶしいピンクを選び始めます。
どうしてなんでしょうねアレ。
→関連項目(?):味覚のお話
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ120 百匹目の猿(過去記事)
2011.10号
疑似科学というものがあります。
エセ科学とも呼ばれています。
いかにも科学的な話に聞こえるが、実は科学的根拠は無い、という話です。
私はこういうものが大嫌いなので、この場では何度も何度も取り上げて糾弾しているのですが、この手のネタは、本当に次から次へと尽きることがありませんね。
ごく最近でも、マイナスイオンがあまりに叩かれたので、プラズマクラスターとかナノイーとか、色々と新しい名前を考え出しては怪しい商売に走り続けていますよ電器屋さん達は。
あと10年経ったら、きっとこれも一斉に無くなって、また新しいカタカナが登場するのでしょう。
ま、仮に百歩譲ってそういうものに除菌効果があるとしても、問題はそれが家庭で効果を発揮するかなんですけどね。
公式サイトやパンフなどにある「実験結果」では、空気中の菌を「99%抑制」とか「100%分解」とか、確かに書いてあります。
しかしそのデータをよーーく見ると、ペトリ皿に入れた菌だの45リットルの空間だの、何言ってんだこいつってレベルです。
ペトリ皿って、手のひらに乗る大きさですよ。
45リットル?
冷蔵庫だって200リットルくらいあるのに?
そんな微細な空間の菌が殺せたとして、だから何?
ところで、八畳間は40000リットルくらいあるわけですが、どうしてこういう空間で実験しないんですかメーカー様?
あと、プラズマクラスターの売りは、インフルエンザウイルスを無毒化することのようですが、インフルエンザって空気感染じゃなくて、飛沫感染なんですけど。
空気中のウイルスを無毒化したって防げないんですけど。
それに、普通は外でうつされるんですけど。
もっと言えば、東京大学が2009年から2010年までに行った実験では有意差が出なかったと、今年の初めに日本疫学会で発表してるんですけど。
……とまあ、こんな私ではありますが、それでも何年もの間、疑似科学ということに気づかずにいた「知識」というものも、たまにあります。
そのうちの一つが、今回お話しする「百匹目の猿」の話です。
「百匹目の猿」の話は、ご存じでしょうか。
こんな話です。
宮崎県串間市の幸島(こうじま)に、ニホンザルが棲息しています。
そのうちの一頭が、ある時、イモを海水で洗って食べることを発見しました。
すると、他の猿もこれを真似(まね)して洗うことを始めて、イモを洗う猿が増えていきます。
そうしているうちに、ある一定以上の数(例えば百匹)の猿がこの行動をするようになった時、この行動が群れ全体に一斉に伝わったのです。
しかもその時、そこから遠く離れた、大分県の高崎山に住んでいる猿の群れでも、突然この行動が見られるようになりました。
このように、ある行動、考えなどが、ある一定数超えると、これが接触のない同類にも伝わるという、不思議な現象です。
冷静に考えれば、あり得ない話です。
しかしこういう話というものは、子供の頃に聞いてしまうと信じてしまうんですよね。
私がこの話を初めて聞いたのがいつかは覚えていませんが、多分高校生以下だったはずです。
今の私みたいに、世の中にウソがあふれていることは知りませんでしたので、もっと素直だったのですよ。
ええ。
この話は、ライアル・ワトソンという人の著書の中で紹介されました。
この話が他の疑似科学と違ってやっかいな点は、この著者が、生物学者だってことです。
しかもご丁寧に、観察された具体的な地名まで書いてあって、論文の引用元もちゃんと書かれているのです。
もちろん、論文は実在するものです。
普通、そこまで書いてあれば、信用しちゃいますよね。
元ネタとなった研究は、地名からも分かる通り日本で行われました。
幸島でサルの研究を行ってきたのは、京都大学の今西錦司教授です。
この研究が画期的だったのは、同じ種類の動物の観察が同時に二カ所で行われて、地域差というものを見極めようとしたことでした。
サル群れの文化的構造がわかるとして、世界中から注目を集めていた研究でした。
野生のニホンザルの餌付けに成功した研究チームは、色々なエサを与えてみます。
その中に、サツマイモがありました。
サツマイモは、幸島には元々無かったもので、最初は興味を持った若いメスのサルがあれこれ工夫しているうちに、水で洗って砂を落とすことを発見します。
さらに、洗い水が海水だと、面白い味になることを発見します。
この、新たな「発明」は、同じ群れの同年代のサルも真似をするようになります。
さらに、その世代のサルが子供を持つと、今度は子供に「教育」することで、次世代に行動が伝わっていった、という話です。
しかし、元の論文によると、イモ洗いを始めた世代よりも上の世代は、最後までイモ洗いをしなかったそうです。
もちろん、空間を超えて高崎山まで伝わったなんて話はありません。
ライアル・ワトソンは、その語り口によって熱狂的な信者を多く作ったのですが、皮肉なことに、その嘘を暴いたのも信者でした。
ワトソンの提示する論文を調べてみたら、彼の言っているような内容はどこにも無かったのです。
そしてワトソン自身も、晩年にはその嘘を認めています。
ところが、一旦広まったこの手の「学説」は、もう止まらないんですよ。
あとで嘘だとわかっても、「嘘だった」という話は「発見された!」という時ほどは話題に上がりませんから、信じたままの人が残るんですよね。
かくして、嘘を書いて本を売った奴は勝ち逃げして、さらにそれを引用して嘘を広げる奴らが大量に現れ、その嘘は世に「定説」として残るのです。
嘘の内容によっては、それが政治的に使われちゃったりすることもあります。
実際に中国・韓国・北朝鮮の三国は、現在進行形で自国民を嘘で洗脳して、日本が悪いとか未だにやってますよね。
騙されちゃダメですよ。
とにかく、怪しい話はもとの情報源を辿っていくことで、真偽が確かめられるのです。
血液型で人格を決めつける人たちは、その話がどこから始まってどう広まったのか、一度「歴史」を調べてみることをお勧めします。
私の書いているこれだって、もしかしたらどこかに嘘が混ざっているかもしれません。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ153 アイスアイス(過去記事)
2014.07号
いやー最近暑いですね。
暑いのでアイスの話でもしましょうか。
それとも季節柄、ウメの方がいいでしょうか。
ん?
どっち?
ウメ?
やっぱウメ?
ウメの方が好きだよね?
……ごめん。
アイスの話にします。
普段、アイスアイス言っている物には、ソフトクリームからガリガリ君まで全部含まれていると思います。
しかし、本当は色々と分類されているんですよね。
ご存じかとは思いますが。
メーカーで製造されて市販されているアイスには、種類別の表記が必ずあります。
「アイスクリーム」「アイスミルク」「ラクトアイス」「氷菓」
という4種類のアレです。
大抵は表側に、大きめの字で書かれているので、誰もが目に入っていると思います。
こういった表記は、どんな食品にでもあります。
しかし、大抵が裏側です。
なぜアイスに限って目立つように書いてあるのか、ちょっと不思議だったのですが、調べてみたら見つかりました。
どうやら、日本アイスクリーム協会による「公正競争規約」で、文字の大きさを自主規制しているようですね。
そんな分類ですが、先に挙げた4種類のうち、氷菓以外は、乳製品に分類されています。
そこから先は、乳脂肪や乳固形分の含有率によってグレードが決まっています。
具体的には、最も乳成分が多いのが「アイスクリーム」です。
次が「アイスミルク」、最後は「ラクトアイス」となります。
もちろん「アイスクリーム」が最もコクのある良い味を出す代わりに、最も高コストとなります。
高級路線のアイスを見ると、確かに揃って「アイスクリーム」との表示がありますね。
逆に、安いアイスは「ラクトアイス」の割合が高くなります。
ラクトアイスの場合、乳脂肪の代わりに植物性脂肪が使われることが多いので、見方によってはヘルシーとも言えます。
アイス食っててヘルシーもクソもないですが。
ところで、先に挙げたアイスクリームの公正競争規約ですが、よく読むと、結構細かいことまで決まっていることがわかります。
例えば、
「ラクトアイス」や「氷菓」では「ミルク」「MILK」の表示禁止
とか、逆に
「アイスクリーム」では植物性油脂の使用禁止
とか。
他にも、
「チョコ」と書くならカカオが1.5%以上入っていること
とか、
「最高」「ベスト」「一番」などは禁止
とか。
こういう業界ルールはきっと他の商品でも決まっていて、それをみんなで守っているから日本製は安心できるのでしょう。
逆に、そういう歯止めのない世界もあります。
例えば韓国ロッテ。
ロッテは元々韓国の会社ですので、当然韓国でもお菓子を売っています。
しかし、日本と同じ商品でも、中身が同じとは限りません。
※値段はほぼ同じ。
日本仕様
少し前までの韓国仕様
リニューアルしました! お値段同じ!
……それはともかく、暑い季節に冷たい物が食べたい、というのは誰でも考えることです。
その発想は古代からあって、記録上ではアレクサンダー大王が、乳や蜜などに山から運んできた氷雪を加えて飲んだという話があります。
今から2300年以上前のことです。
日本でも、平安時代には「削り氷」というものがあったと、枕草子に記録されています。
江戸時代には、富士山の雪を切り出して、江戸まで運んで将軍が食べた、なんて話を子供の頃に聞いたことがあります。
今回調べていくと、鎌倉時代にも、幕府に雪が献上されていたようですね。
幕府は途中で「富士山の雪の貢進は中止」なんて宣言しているくらいですので、雪は度々送られていたのでしょう。
同じ頃、マルコポーロが中国から「凍らせた乳」をヨーロッパに伝えたという話もありますが、まだ「アイスクリーム」よりも「シャーベット」などの氷菓が中心でした。
16世紀になると、イタリアでは人工的に氷点下を作り出す方法の発見によって、シャーベットのバリエーションが大幅にアップします。
そんな中、イタリアの大富豪(メディチ家)の娘が、フランスの王家に嫁いでいきます。
そして彼女がお抱えの料理職人や調理道具を一緒にフランスに持ち込んだ結果、フランスの貴族社会にも様々なシャーベットが伝わっていきました。
こういう文化の伝播方法は、ヨーロッパではよくある話だったりします。
チョコレートも、最初はスペイン王家の門外不出の技術だったのが、スペイン王女の嫁入りによってフランスに伝わって、そこから広まっています。
その後1720年、パリでホイップクリームを凍らせた、現在のアイスクリームの原型とも言えるようなものが登場しました。
一方アメリカでは、1851年、牛乳屋ヤコブ・フッセルが、余った生クリームの処理に困って、これを凍らせて販売することを思いつきます。
安価で量産したために、これ以降は一般庶民にもアイスクリームが親しまれるようになりました。
アメリカはこれ以降、アイス文化が大きく発展します。
1890年、チョコレートをかけたアイスを日曜限定で売り出す業者が現れ、ここからこのようなアイスがサンデーと呼ばれるようになります。
またアメリカは、1920年から「禁酒法」によってアルコール類が全面禁止されました。
そこで生き残りを図ったビール会社の多くはアイスクリーム産業に参入して、アイスクリーム業界はさらに急速に発展していきます。
日本においては、文明開化の明治2年、横浜で「あいすくりん」の製造販売が始まります。
鹿鳴館でも、フルコースのデザートにはアイスクリームが用意されていたようです。
大正時代にはアイスクリームの工業生産が始まり、後の雪印もこの頃に製造を開始します。
太平洋戦争時には製造が中止されますが、戦後は誰にでも始められる商売として、アイスキャンデー売りが登場します。
昭和30年、ホームランバー登場。
安い上に当たりクジ付きで、大ヒット商品となります。
今でも売っていますよね。
ただコレ、少なくとも私が中学生の頃までは、
安いのにちゃんと「アイスクリーム」のスゲエやつ!
だったのに、今ではいつのまにか「ラクトアイス」になっちゃっています。
ちょっと残念です。
平成元年、筑波大学生物学類の1年1クラスが、学園祭でどら焼きの生地とアイスを仕入れて、アイスどら焼きと名付けて販売します。
その後、地元のどら焼き屋では、いつからかアイスどら焼きという物が売られるようになります。
これは実話なのですが、ウチのカミサンは、アイスどら焼きを最初に売ったのは我々だ、ということを信じてくれません。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ206 グリム童話
2018.12号
小学生の頃は、漢字が好きでした。
漢和辞典を買ってもらったのは、小学2年生の時です。
以後、それは勉強机の上にずっとあって、たまに開いて眺めていました。
それをこじらせた結果、高校生から大学生にかけては、日常的に旧字体(旧漢字)を使うようになりました。
旧字体というのは、例えばこんなのです。
数学→數學
社会→社會
体育→體育
図書館→圖書館
こういう文字を、例えば学校の授業中にノートを取るときにも使っていたわけです。
乱の旧字「亂」は「マ・ム・ヌ」とか必死で覚えたり。
いやーアホですねー。
苗字なら、旧字体を見かける機会もあると思います。
例えば、沢辺さんが自分の名前を「澤邊」と書いたり、斉藤さんが「齋藤」と書いたり。
しかし、飯村さんが「飯村」と書いたり、近藤さんが「近」のしんにょうを点二つの「辶」と書いたりは見かけたことがありません。
先に挙げた斉藤さんも、旧字体の「藤」のくさかんむりは「十」が二つ横に並んだ四画で、下右の上部につく点「ソ」は「ハ」となるのですが、その形で書かれているのを見たことがありません。
地名と人名に関しては、別におかしいだの何だのと口を挟むつもりは全くありません。
しかしこのあたりの線引きが、端から見ていて不思議なんですよね。
なお、高島さんの「髙嶋」は、二文字共に旧字ではなくて「俗字」「異字体」などと呼ばれるものです。
このあたりもまた、どこから出てきた文字なのか、謎です。
さて、異字体はいいとして、そういった旧字体を使うようになったきっかけは、家にあった本です。
昔のパラフィン仕様の文庫本、「グリム童話集」です。
岩波だっけ?
もともと昔話関係が好きでしたので、父親が奥にしまってあったこれを本棚に並べた時には、嬉々として読み始めました。
で、この本が旧字体で記述されていたので、読みながら基本的な旧漢字を覚えられてしまったのです。
これが不幸の始まりか。
この本の内容は、もちろんグリム童話です。
しかし記述形式としては、ちょうど柳田国男の遠野物語のような本でした。
つまり、口伝を集めただけの資料的な書き方で、中には数行しかない話や、オチの無いような話も、そのまま書かれていました。
そうなんです。
グリム童話というのは、元々はグリム兄弟の創作した話ではないんですよ。
当時のドイツに伝わっていた話を集めたものなのです。
一応、グリム童話って?という方のために、代表作一覧を挙げておきます。
有名どころといえば、こんなあたりでしょうか。
オオカミと七匹の子ヤギ
ラプンツェル
ヘンゼルとグレーテル
灰かぶり(シンデレラ)
赤ずきん
ブレーメンの音楽隊
いばら姫(眠りの森の美女
白雪姫
※グリム童話と共に並べられるアンデルセン童話の方は、完全な創作です。
また、「遠野物語のような」と書きましたが本当は逆で、グリム童話の日本版が遠野物語だと思った方がいいでしょう。
グリム兄弟の本職は、言語学者で大学教授です。
兄の方は、ドイツ語の母音の上につく二つの点(「ä ö ü」の点)のことを「ウムラウト」と命名した人でもあります。
そんなグリムさん達が若い頃、恩師に頼まれて、民謡の収集を手伝ったことがありました。
その結果は一冊の本として刊行されているのですが、続編として童話集を出そうとしたとき、集めたネタを元の作者に送ったのに返事が来ない、音信不通、となってしまうことが起こりました。
だったらもう自分達で出しちゃおう、と出版したのがグリム童話、とされています。
その頃のドイツは、どうもそういう「民衆文化の収集」というのが流行していたようですね。
ナポレオンというフランス人がドイツを支配したために、ドイツの文化を守ろう、という風潮になっていたようです。
ただ、グリム兄弟はどうも、柳田国男のようには現地に足を運んでいなかったようです。
謝辞として、取材協力してくれた女性の名前を一人挙げているのですが、それなりに身分の高い人で、しかもフランス出身の人だったことがわかっています。
現在では、グリム童話のほとんどの話の取材源が、研究によって判明しています。
その結果、グリム童話の中のいくつかの話は、当時すでに出版されていた「ペロー童話集」との類似が指摘されています。
例を挙げれば、「長靴をはいた猫」「青ひげ」「赤ずきん」「いばら姫」「灰かぶり」などが、初版では同様の話がかぶっていました。
グリム自身もそれには気付いたようで、そのうちの「長靴をはいた猫」と「青ひげ」は、二版以降は削除しています。
ペローとは、フランスの作家・詩人です。
フランスの詩人の間では、民間伝承の昔話を詩にするのが流行っていたのですが、ペローはそれを子供向けに読みやすくアレンジしていました。
つまり、ペローの童話自体も、やはりどこからか集めた話でした。
要するに、グリムが聞いた話のネタ本があったからと言って、ニセ物とは言い切れないのです。
「ドイツ限定」という枠にとらわれなければ、グリム童話とは、
「当時ドイツ近隣で民間伝承されていた昔話の集大成」
なんて解釈もできると思います。
グリム童話の初版では、全156篇が収録されました。
その後は版を重ねる毎に話を増やしたり差し替えたりして、最終的な七版では全200篇になっています。
そこに至るまでには、当初の「研究資料」から「子供向け童話」へと性格を変えるべく、会話が増えたり描写が細かくなったり、逆に子供向けでない表現を削除されたりもしています。
さらに、二つの話を合成した例もあります。
有名な例では、「赤ずきん」のオチです。
元の話では、赤ずきんは狼に食べられて終わりでしたが、それを七匹の子ヤギのような終わり方にしたのはグリムです。
日本でも、似たような例はあります。
小泉八雲の「怪談」には、明らかに雨月物語と同じ話がありますが、あくまで筆者が聞いた話として、そのまま書いて出版されています。
(そもそも小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、雨月物語を知らなかったとは思いますが)
また、伝わる度にアレンジされた例では、日本書紀→万葉集→御伽草子と変遷していった浦島太郎があります。
でも口伝なんて、元々そういうものです。
当時流行していた都市伝説だと思って、気楽に読むのが正解だと思います。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ205 白村江の戦い(本編)
2018.11号
今回は、先月号「白村江の戦い(前史)」の続きです。
聖徳太子の登場する少し前、蘇我氏全盛期のころまでの話でした。
倭国(日本)は、過去に朝鮮半島の南部(伽耶)を支配していた時代があったものの、結局失われます。
これが562年ということですから、蘇我氏が台頭する少し前のことですね。
しかしその後も、倭国は百済と新羅に貢ぎ物を献上させていて、ある程度の圧力はかけ続けていました。
左は、倭国が朝鮮南部を支配していた頃の地図です。
朝鮮半島三国(高句麗/こうくり・百済/くだら・新羅/しらぎ)の位置関係は、こちらで確認してください。
(前回掲載の地図と同じです)
その後、チャイナは南北朝時代から隋、唐へと変遷します。
一方の日本は、聖徳太子の時代を経て、大化の改新が始まります。
当時の朝鮮半島は、百済と新羅が小競り合いを続けながらも、倭国にはそれぞれの王子を派遣して、忠誠を誓っています。
要するに人質ですね。
しかしこれは、強大な唐の侵攻に対して、いざとなったら倭国に協力してもらうためでもありました。
朝鮮半島の三国は、互いに侵略しながらも、倭国に対しては忠誠を誓う、という構図が続いていたわけです。
大化の改新は650年で一通りの改革を終えています。
その頃の新羅は、百済と高句麗から攻められ続けた結果、唐に忠誠を誓うことで援軍を頼ろうとしていました。
一方で唐は、高句麗を攻めても落とせないので、先に南方の百済から攻略しようと考え始めたようです。
倭国はといえば、630年に遣唐使を派遣することで、唐との関係もそれなりに良好に保ってきたようです。
どこの国とも対立しない、絶妙な外交が続いていたわけですね。
しかしこの不穏な半島情勢は伝わってきたようでして、朝廷内でも百済を助けるか、唐との関係を重視するか、どうも色々と揉めたようです。
651年には、新羅を討伐しようという進言も出されたが却下された、なんて記録もあります。
また、唐の状況を窺うためか、630年に一度行かせたっきりだった遣唐使を、653年・654年と2年連続で派遣しています。
もしかしたらこれは、唐と交渉をしに行ったのかもしれません。
その次の遣唐使は、659年でした。
しかしこの遣唐使は、帰国禁止措置を受けて661年まで帰れませんでした。
というのも、この時の唐は百済討伐の準備中で、それが倭国にバレないようにしたためでした。
そして、その翌年の660年、唐は大軍を派遣して、新羅と共に百済に攻め込みます。
そこからはたった半年ほどの戦闘で、百済王を降伏させて、百済は滅亡します。
唐軍がいかに強力だったかが窺えます。
しかし、唐の真の目的は、百済ではありません。
高句麗を後ろから攻めることです。
そこで、百済を滅ぼした唐の主力部隊は、次は高句麗戦のためにさっさと北上して、現地には新羅軍だけが残りました。
さて、百済という国は、国王が降伏した時点で敗北が決定しています。
しかし、首都以外にもまだ百済軍の城は残存していて、まだあきらめない百済軍は、国の復興を狙っていました。
先述したとおり、当時の百済は王子を人質として倭国に送っています。
今回はそれが幸いして、王子が無傷で残っているわけです。
ですからこの王子を擁立すれば、百済という国は復活するというわけです。
そこで、倭国にその旨の救援を依頼します。
当時の倭国の代表は、中大兄皇子でした。
皇子は、百済を助けるという判断を下します。
そして倭国軍は百済の王子を引き連れて、2年にわたって計3回の軍を出しました。
その結果663年には、南部に駐留していた新羅軍の駆逐に成功したのでした。
しかしそれに対して、唐は援軍を派遣します。
そして663年10月、白村江における戦いで、倭国軍は唐の大軍に大敗を喫します。
百済の王子は高句麗に逃げ込んで亡命しますが、少し後に高句麗もまた唐に滅ぼされました。
さて、中大兄皇子はここで、危機を感じます。
唐は朝鮮半島を確保したわけですので、そこをベースに倭国へと追撃してくる可能性があるからです。
そこで、上陸予想地点である九州北部には城を置いて、軍を駐屯させることにしました。
この拠点の管理機関が太宰府で、そこに常駐する兵が万葉集で有名な防人(さきもり)です。
さらに、唐とは戦争回避の交渉を続ける一方で、本土決戦に備えて都を奈良から琵琶湖畔に移転して、指揮系統をまとめるべくさらなる中央集権化を強行しています。
敗因の一つに、作戦・規律の統一なしに軍事行動を展開したこともあったからです。
当時の唐を敵に回すのがどれだけヤバいことだったかは、次の地図で理解できると思います。
黄緑色が唐の最大域です。
次に即位した天武天皇は、大宝律令を完成させると同時に、倭国を日本と改めます。
これは一説には、唐と交戦した倭国とは別の国だと主張するためだったとも言われています。
同時に、唐には改めて遣唐使を送って、国交正常化を目指したのでした。
この敗戦は、日本国存続の三大危機のうちの1つだったという人もいます。
あと2つは元寇と第二次世界大戦です。
唐には敗戦したのですが、日本は内政の大改革で危機に備え、外交努力によって乗り越えることができたのでした。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
―――参考資料―――
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- 白村江戦マップ
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- 白村江の敗戦後、実行された政策
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中大兄皇子/天智天皇
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- ・九州北部に城郭造成
- ・大宰府設置
- ・烽火システム構築(九州から都に急を知らせるための設備)
- ・防人駐屯
- ・戸籍作成(庚午年籍)
- ・奈良から近江大津宮へ遷都
- ・冠位十九階から二十六階へ
- ・近江令(律令法)の制定
- ・唐との和解
天武天皇(大臣無しで執務)
- ・近江から飛鳥浄御原宮へ遷都
- ・天皇という称号の開祖
- ・国号変更 倭国から日本へ
- ・飛鳥浄御原令の作成(没後完成)
- ・古事記、日本書紀の編纂(没後完成)
- ・角髪(みずら)の廃止:髷へ変更
- *角髪
- ・宮廷出仕基準の変更(才能重視)
- ・富本銭(最初の貨幣)の鋳造
- ・畿内の武装強化
- ・神道・宮廷祭祀の創始・大成
- ・遣唐使は出さず
- 持統天皇
- ・飛鳥浄御原令の制定
- ・藤原京(初の本格首都)造営・遷都
- ・大宝律令の制定(譲位後)
- ・遣唐使は出さず
- 文武天皇
- ・大宝律令の制定
- ・元号の開始
- ・官僚機構の設置
- ・公文書の書式制定
- ・印鑑の使用
- ・遣唐使再開:新国号「日本」を唐に通達
- 元明天皇
- ・風土記の編纂
- ・古事記の完成
- ・和同開珎の鋳造
- ・諸国郡郷名著好字令:全国の地名を「好い字」の漢字二文字へと統一
- ・平城京へ遷都
- 以後、奈良・平安時代へと続く。
天皇を中心とした政治は、このあたりまでの時代が頂点であった。防人の北九州配備は、平安末期に武士団が登場するまで200年以上続いた。
あすなろ84 伝説上の怪物達(過去記事)
2008.10号
きっかけは確か、メフィストという英単語だったような気がします。
高校生が、英和辞典に載っていたその容姿を見て、山羊の足などに笑っていましたので、ああ知らなかったのか、と。
神話などには、半人半獣が数多く登場するなんてことを、パン、ミノタウロス、鵺(ぬえ)などの例を挙げて、少しお話しました。
そんな話を、今回のネタに取り上げて欲しいということでしたので、以下にレポートします。
神話には、必ずといっていいほど怪物が登場します。
そこに描かれる容姿は、大抵が人間よりも大きく、さらに多くは異形(いぎょう)のものです。
その、異形の姿をあらわす一番多い手法が、異なる動物を組み合わせることです。
異種混合の代表的なものに、ギリシャ神話のキマイラ(キメラ)があります。
獅子の頭、山羊の胴体、蛇の尾を持つといわれています。
さらにはそれぞれの頭を持つという説もありまして、ゲームや小説などに使われるときには、頭を三つ持つ動物として描かれることが多いようです。
最近ではこれに蝙蝠の翼をつけることも多いのですが、マンティコラとどこかで混ざってしまったのでしょうか。
なお、マンティコラとは、獅子の体に蝙蝠の翼と毒針の尾を持つ怪物ですが、これも最初は翼が無かったものが、伝わっていくうちに生えたということです。
要するに昔も今も、やっていることは変わらないというわけですね。
紀元前のキマイラ
近頃のキマイラ(部品が増えてる)
ちなみに、生物学用語にもキメラ胚、キメラ細胞などという言葉があり、やはり異種混合という意味合いを持ちます。
もう一つ有名どころでは、スフィンクスも異種混合の怪物です。
スフィンクスといえば、「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足とは何か」という謎かけをして、解けない人間を食らう話が有名です。
ところが、この話のスフィンクスとエジプトのスフィンクスとは、本来は違うもののようです。
エジプトのスフィンクスは、ファラオの頭と獅子の体を持つ姿で、神聖なる守護者です。
対して、ギリシャ神話におけるスフィンクス(スピンクス)は、獅子の体に人間の上半身を組み合わせて、さらに翼を持った姿でした。
別物ですね。
エジプト版スフィンクス
ギリシャ版スピンクス
というかそもそも、人間を捕らえて食うような怪物が聖なる王家の墓の番人になるって、普通は話がつながりませんわな。
鬼子母神じゃあるまいし。
さて、日本にもこのような話は多くあります。
その代表は、先に挙げた鵺でしょう。
鵺は元々、夜に鳴く不気味な声のことを指していたようです。
(→古事記、万葉集)
この声の正体は、現在ではトラツグミという鳥だろうと言われています。
トラツグミは、私の自宅の近所にもいます。
夜中の森で「ひぃ~」と鳴くかわいい奴です。
トラツグミ
しかし平安時代末期、鵺が姿を現して退治される、という話が残っています。
(→平家物語)
ある時、時の帝(近衛天皇?)の住む御所に、夜な夜な黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡るようになり、帝は病に伏せってしまいます。
これを怪物の仕業と見た側近は、弓の名人である源頼政に怪物退治を命じます。
頼政が見守る中、猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾を持つ化け物が、黒煙より姿を現します。
鵺
頼政は先祖より受け継いだ弓にて矢を放つと、化け物は二条城の北方に落下しました。
すかさず郎党が取り押さえてとどめを刺しますと、天皇の病状は忽ち回復した、ということです。
ところで、この頼政に弓を残した先祖である源頼光は、鬼や土蜘蛛の討伐をしています。
今度は源頼光の時代のお話。
平安時代中期の、とある頃。
京の大江山に、酒呑童子と呼ばれる鬼が住み着きました。
酒呑童子は数多くの鬼を従え、姫君をさらっては仕えさせたり食ったりしていました。
そこで帝の命により、源頼光と頼光四天王を始めとする討伐隊が編制されます。
頼光の一行は、鬼と共に酒盛りをして安心させたところで神便鬼毒酒という不思議な酒を飲ませ、神通力を奪って寝首をかくことに成功しました。
首を切られた酒呑童子は、頼光の兜に噛みついたまま事切れたと言われています。
さてこの時、鬼の家来達もほとんどが退治されたのですが、一匹だけ逃げおおせた鬼がいました。
この鬼は茨木童子という名で、酒呑童子の側近でした。
しかしその後、頼光四天王の筆頭である渡辺綱と、再び相まみえることになります。
綱が夜中に一条戻橋を通りかかると、若い女が家に送って欲しいと言います。
怪しみながらも馬に乗せると、女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪を掴んで愛宕山の方へ飛んでいきました。
そこで綱はその腕を切り落とし、難を逃れます。
鬼の腕を切り落とす渡辺綱
綱は腕を屋敷に持ち帰りますが、鬼は義母に化けて現れ、腕を見せて欲しいと泣きだします。
やむなく綱が腕を見せると、手にとって眺めていた義母は突然鬼の姿に変わり、腕を取り戻して飛んでいったということです。
(→以上全て平家物語)
さて、これらの話の興味深い点は、基本的に実在の人物や地名が登場するところです。
鵺を退治した源頼政は、保元の乱や平治の乱に参戦しています。
酒呑童子を討伐した源頼光は、藤原道長に側近として仕えていました。
頼光の詠んだ和歌も残っています。
渡辺綱は、源平争乱期から南北朝時代にかけて、水軍を率いて活躍しました。
そしてこれらの出典である平家物語の内容は、基本的に史実だとされていることはご存じの通りです。
さあて、どこまで本当なんでしょう?
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ204 白村江の戦い(前史)
2018.10号
30年前は高校生でした。
こんにちは。
30年経ったのですが、当時、小中学校及び高校で教えられていた授業内容は、今の内容と、基本的にはあまり変わっていません。
しかし所々で、やはり多少は内容の増減があります。私が習ったのに今は無い項目もあれば、私は習わなかった項目もあります。
――ちなみに、いわゆる「ゆとり教育」という指導内容削減は、私が小学生だった1980年度から始まっています。
つまり私は、ゆとり第一世代に当たります。
とは言っても、算数や数学を見る限りでは、現在の「脱ゆとり」世代よりも、我々の頃の学習内容の方が少し多かったようです。
その、私が習わなかった方の項目の一つに、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」というものがあります。
大化の改新以降の飛鳥時代、663年に起こった、朝鮮半島における日本と唐の戦いです。
結果は、日本の敗戦でした。
この内容を初めて教科書関連の資料で見た時は、
「日本が負けたマイナーな戦をわざわざ掘り出してきて、まーた自虐史観ネタか」
なんてことを思ったのですが、最近になってよくよく調べてみると、案外重要な合戦だったということがわかりましたので、今回はその説明を試みようか、なんて次第です。
まず、前提として、その背景からです。
日本は紀元前の古来より、朝鮮半島には度々攻め入っていたようです。
紀元前といえば弥生時代にあたるのですが、その頃にはすでにチャイナ(前漢)へ朝貢(貢ぎ物をすること)していて、大陸と「国交」があったようです。
もう一度書きますが、これは弥生時代の話です。
もう少し時代を下ると、古事記と日本書紀には、いわゆる「三韓征伐」といわれる朝鮮半島への遠征が書かれています。
この話については、インターネットでは日本書紀からの引用が多いようなのですが、手許には古事記しかありませんので古事記の内容を書き出します。
こんな話です。
仲哀(ちゅうあい)天皇の妻である神功(じんぐう)皇后は、神寄せをする人だった。
天皇が筑紫の宮から熊襲(九州)を討とうとしたとき、神寄せをすると
「西の方に国がある。
金銀などの多いその国を吾は与えよう」
とのお告げがあった。
天皇は
「高い所に上って西を見ても、国など見えない。海だけだ」
と言って、神事を中断してしまったため、神の怒りに触れて崩御した。
そこで宮内を清めてさらに神託を聞くと、
「この国は皇后の御腹にいる御子が治める国だ。
かの国を求めるなら、吾の御霊を祀った船で海を渡れ」
と言う。
そのお告げの通りに軍備を整えて海に出ると、大小の魚は船を背負って進め、追い風は船を運び、その波は新羅の国に押し上がって国の半ばまでたどり着いた。
国王はこれに恐れて、
「今後は馬飼として天皇に仕えます」
と言うので、新羅を馬飼、百済を渡海の役所として定めて、新羅王の門には住之江の神を鎮守として祀って帰った。
そんな中、御腹の御子が産まれそうになったが、それを鎮めるために石(鎮懐石)を使って、帰国してから出産した。
※ 以上、朝倉による意訳
へえー。神功皇后ってすごいですねー。
……ん?
なんか変ですか?
んまあ、確かにこれだけだと、「んなわけねえだろ」って話ではあります。
それに、「三韓征伐」って言う割には二国しか出てきませんでしたが、どうも日本書紀の方には、三国が出てくるらしいですね。
それはともかくとしても、これだけを読むと、荒唐無稽なただの神話です。
しかしチャイナ(宋)の記録や朝鮮半島に残された碑文によりますと、倭が半島の一部を支配していたこと自体は事実のようです。
ただ、その地域は、半島南部に限られていたようです。
次の地図の最南部「伽耶(かや)」が倭国の完全支配域で、百済(くだら)と新羅(しらぎ)が友好国、高句麗(こうくり)が敵対国、という構図だったようですね。
なお、朝鮮半島南部からは、西暦450~550ごろに作られた前方後円墳が十数基も見つかっていますので、倭国の支配は決定的だったようです。
手許の年表を開いてみます。
367 百済の使者が来る
倭軍出兵、百済と通交、半島南部を勢力下に置く
391 倭国出兵、百済・新羅を破る
397 百済、太子を倭国に質とす
400 高句麗軍南下、伽耶を攻撃
倭軍、帯方郡の故地に出兵、高句麗軍と戦う
ここで注目すべきは、394年に百済の太子、つまり王子を人質にとった、という記述です。
つまり、それだけの支配力を百済に対して持っていたということです。
しかし512年の頃からは、伽耶の一部を百済に与えたり、東よりの一部地域が新羅の侵攻に降伏したりと、徐々にその支配域を失っていったようです。
550年の頃からは、百済と高句麗と全面的に対立するようになったので、百済から倭国に対して救援要請が次々と来るようになります。
一説によると倭国に仏教が伝わったのもこの頃で、仏像や経典、諸博士が日本に来たのは、どうやら倭国に一層の軍事援助をしてもらうための貢ぎ物だったようです。
この頃にはまた、仏教関係以外にも医・易・暦などが伝来しています。
百済くん必死です。
結果、倭の援軍は得た百済でしたが、今度は国王が討たれて死亡します。
この混乱に乗じて新羅が伽耶の残り地域を占領したために、伽耶は消滅します。
562年のことでした。
これによって、倭・百済の連合と、新羅との対立が決定するわけですが、倭が新羅に対して、それまで伽耶(厳密には任那)から徴収していた分の調(租庸調の調です)を要求すると、新羅は送るとの約束をします。
そこで、朝廷としてはそこで満足することにして、以後は半島の直接経営を諦めたようです。
なお、当時の朝廷は蘇我氏の全盛期で、聖徳太子が登場する少し前のことです。
そしてここから100年くらいは、百済や新羅にはある程度の圧力をかけつつ、高句麗や隋・唐とは、それなりに平穏な付き合いが続きます。
紙面が尽きました。
続きは次回です。
白村江の戦いは、この話の延長上にあります。
続き
あすなろ205 白村江の戦い(本編)
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ203 ハチ
2018.10号
日本で一番危険な野生生物は何か、ご存じでしょうか。
それは、ハチです。
特にスズメバチですね。
毎年、クマやヘビよりもたくさん人を殺しています。
中でもオオスズメバチは、スズメバチとしては世界最大にして最強です。
単体でもそうなのに、そんなのが集団行動をとるわけですから、その「すごさ」はイギリスのBBCやアメリカのナショナルジオグラフィックが日本まで取材に来るレベルだったりします。
ところでアメリカには、キラービーと呼ばれて恐れられているハチがいます。
ゲーム関係では、もしかしたら名前だけは聞いたことがあるかもしれません。
しかしその正体は、「ちょっと大きめのミツバチ」だったりします。
普通のミツバチよりも攻撃的だということで、アメリカ人には恐れられちゃっているわけですが、スズメバチを見慣れた我々からすれば、単なるかわいいハチです。
しかし……。
逆にアメリカから見た日本は、キラービーをかわいいと言えるようなレベルの、恐ろしいハチが住む国、とも言えます。
なんと、そういう国だったんですよ日本って。
ただですね、こういうものには警戒することも大切ですが、扱いさえわかれば、もうちょっと近くまで寄っても平気なんですよ。
次の画像の一枚目は、我が家の近所の木のウロに作られていたキイロスズメバチの巣です。
キイロスズメバチも、オオスズメバチ同様に警戒心が強くて、被害の多いハチで……
……なんて話もあるのですが、ゆっくり近づけば、こうやって写真撮影も可能です。
この時は、巣から20㎝くらいまでカメラを近づけて動画撮影もできました。
ただしその頃になりますと、頭の上をハチがブンブン飛び回って威嚇してきていますので、実のところちょっとだけ緊張します。
上の二枚目の写真は、キンケハラナガツチバチのメスです。
こちらは、10㎝くらいの距離で撮影しました。
こういう普通のハチならば、レンズでハチをつつけるくらいの距離までカメラを近づけても、なんら問題ありません。
ハチでもカメムシでもムカデでもだいたい同じなのですが、基本的に虫は、抑えられたり捕まえられたりして、体の自由が直接奪われると攻撃を始めます。
ですから大抵の虫(※)は、飛んでいるところを払いのけたり、横から指一本でつついて追いかけ回したり、手のひらの中にそっと包み込んだりといった程度ならば、まず逃げ道を探すだけで、何も攻撃はしてきません。
カメムシやゴミムシでも、臭くなりません。
指一本で、向こうに押す程度ならばまず大丈夫ですが、二本で挟んだり、一本でも壁などに押しつけたりすると、攻撃に転じます。
そのあたりの加減がわかっていれば、何も恐れる必要はないんですよね。
巣の前のスズメバチは確かに攻撃性が高いのですが、これは虫の行動としては、ほぼ例外と言えます。
※ 一部の直翅昆虫とオオスズメバチは、逃げ道を邪魔されただけで威嚇・攻撃してくることがあります。
さて、スズメバチやミツバチのように、集団で生活する生物は、それだけ目立つようになるために、敵に襲われるリスクが高くなります。
そのために、集団で敵に立ち向かう手段を持っています。
それが、あの毒針です。
――いや、そうじゃないですね。
針があるから、集団で社会生活ができるようになったのでしょう。
しかし、全てのハチが、あのような毒針を持っているわけではありません。
ハチの中でも原始的なものは、植物の茎に卵を産み付けます。
その際、先の尖った産卵管で植物の茎を傷つけて中に産み付けるのですが、この産卵管がハチの針の原型です。
ただ、産卵管で植物に穴を空ける昆虫は他にもいます。
セミだってそうですし、キリギリスもそうです。
ですからこれ自体は、特に珍しいことではありません。
その中から一部のハチは、別の昆虫に卵を産み付けて、幼虫を寄生させることを始めました。
こちらも、寄生バエやハナノミ、ネジレバネなど、昆虫ではよくある話です。
ただ、違ったのはその手法です。
幼虫が別の昆虫に寄生するためには、幼虫が自分から宿主にしがみつくとか、卵を宿主の表面に産み付けるとか、卵をエサごと宿主に食わせて腹の中に無事到着~、なんて方法が一般的です。
しかしハチは、相手が植物の時と同じように、針でプスっと刺して、中に産み付けちゃうという手段を選びました。
チョウの幼虫や蛹から小さいハチが出てくることがあるのですが、ご存じないでしょうか。あれがそうなのですが。
しかし生きた動物が相手ですので、素早く正確に作業を行う必要があります。
そこで、狙った位置に産み付けられるように、腰が自由に曲げられるように進化していきました。
ハチ特有のあの細い腰は、元々は自在に卵を産み付けるためなのです。
産卵中のチュウレンジバチ
こちらは腰が太い、原始的なハチです。
このように植物の茎に産卵するだけなら、腰は細く進化する必要がありません。
産卵中のシロフオナガヒメバチ
材の中にいる昆虫に卵を産み付けているところです。
腹部は自在に曲げられるように進化しているので、こういうポジションも可能となります。
そしてさらに、産卵と同時に「麻酔薬」を使うものが登場します。
(このあたりはファーブル昆虫記にも記録があります)
獲物を麻酔してしまえば、あとはゆっくり卵を産み付けられますし、エサを生きたまま何匹も積み上げておくことも可能です。
トックリバチの巣の断面
左上の白い米粒のようのが卵です。
エサの幼虫は麻酔で動かないので、このように詰め込んでも、幼虫が動いて卵が潰される心配はありません。
また、あくまで麻酔なので、エサの幼虫は生きています。
つまり腐らず、鮮度を保てます。
さらには、反射行動だけ残した状態に麻酔して、獲物を自分で歩かせて運ぶハチもいます。
エメラルドゴキブリバチの運搬
ゴキブリは、逃避行動だけが抑制されている状態に麻酔されています。
あとは触角を引っ張りさえすれば、自分の足で歩かせることができるので、このサイズを持ち上げて運ぶ必要がありません。
そうやって「器用」になったハチは、さらに動きの速い相手まで、幼虫のエサとして狙うようになります。
例えば、クモとか。
クモを狩るためには、針をさらに素速く正確に操る必要があります。
そのために、腰はさらに細くなって、可動域はさらに広がります。
オオモンクロベッコウ
自分の体長と変わらないサイズのクモを仕留めることができます。
狩ったクモを巣まで運搬しているところです。
別の種類では、巣を張るクモを一時的に麻痺させて、そのあいだにクモの背中に卵を産み付けるハチもいます。
その後、クモは背中に幼虫を食いつかせたまま、普通に生活を続けます。
そして、集団生活するようになった種類は、「麻酔薬の入った産卵管」を「毒を仕込んだ武器」へと成り代わらせ、また腰を究極に細めることで、どの方向への攻撃も可能になったのです。
キアシナガバチ
腰が限界まで細いので、食べられるのは流動食のみとなっています。
スズメバチも同様で、成虫は幼虫に食べ物(肉)を運び、幼虫は成虫に半消化した流動食を分け与えます。
集団生活だからこそできる技です。
集団化することで、より大きい敵に対抗するという手法は、実は人類のとってきた戦略と同じです。
集団生活するだけなら、イワシだってそうとも言えます。
その中で、役割分担をして社会生活をする動物は、サル・イヌ・クジラなど、哺乳類では多く見られます。
しかし哺乳類以外の動物では、ハチの仲間(アリはハチと同じ仲間)とシロアリしかいません。
そういった見方をすれば、ハチはある意味、究極の進化を遂げた昆虫とも言えるでしょう。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ202 大豆
2018.08号
何年か前から、糖質制限ダイエットという妙なものが流行しているようです。
これは元々は、「糖を取らなければやせる」てな理論で、アメリカの一部で流行していたのは知っていました。
そりゃあだって、アメリカ人って奴は普段から、砂糖でジャリジャリしているチョコレートを食っていたり、ビールジョッキの様な巨大な紙コップでコーラを飲んでいたり、頭が痛くなるほどの劇甘なケーキに練乳をかけて食ったりしているわけですから、糖分を取るのをやめるだけでかなりのカロリー制限になるでしょうよ。
それに白人は我々と違って、油を取り過ぎたら死んじゃう遺伝子が欠けていますので、元々肉だけ食ってても生きていける体なのです。
まあ勝手にしてろよ、何てことを当時は思ったのです。
そして、そんなこともすっかり忘れかけていた頃、日本でもそれをマネしている奴がいると聞いて、
「ああ? バカだろ。日本人がやったら最悪死ぬぞ」
なんて思っていたら、みるみる一般化していって、いつのまにか糖質という言葉が炭水化物全般を指すようになっていて、もう呆れているのです。
炭水化物の量を抑えても、脂肪を取ったら同じなんですよ。
一時的に体重は減るかもしれませんが、その内容に問題があるんですよ。
炭水化物が足りないと、その分のエネルギー源をどこかから用意しなければいけないのですが、運動していない人の場合は脂肪を使わずに、脂肪よりもっと簡単に分解できる、アミノ酸を持ってきて分解するんですよ。
つまり、筋肉を分解し始めるんですよ。
減るのは脂肪じゃなくて筋肉なんですよ。
そしてその時に働くホルモンが「糖質コルチコイド」でして、これが正しい「糖質」という言葉の使い方なんですよ。
体に必要なものは、炭水化物と蛋白質、それにビタミン、ミネラルです。
脂肪は別に摂取しなくても構わないものです。
ですから、摂取カロリーを抑えたかったら、単純に脂肪の摂取を抑えるべきであって、正解は「脂質制限」だと思っています。
ただ、これでは当たり前すぎて話題にはならないでしょうね。
ところが、一般的な蛋白質類は、大抵が脂肪とセットになっています。
肉を食えば、普通は勝手に油がついています。
それを防ぐために、油の抜けた蛋白質を用意しましょう。
1つにはカツオ節。
そしてもう1つは大豆製品です。
例えば豆腐は、低脂肪高蛋白な食材として、世界的にも有名です。
ただし、大豆に油脂が入っていないというわけではありません。
むしろ世界的には、主に油を採るために栽培されているものがほとんどで、世界の大豆は総量の85%が食用油の製造用なのだそうです。
そのまま食用となるのは、わずか4%弱なんだとか。
しかしその中で、日本だけは20%近くが食用とされています。
理由は……
まあだいたい想像できると思いますが、日本では大豆食品の種類が非常に多いからですね。
いや、多いどころか、大豆は日本料理の中心的存在です。
醤油、味噌(米味噌を除く)、豆腐、納豆、煮豆、油揚げから、きな粉、枝豆、湯葉、もやし、そして節分に「鬼は外」する煎り豆までもが大豆です。
これだけ文化的にも日本に根付いている大豆ですが、その起源となる産地は中国もしくは朝鮮半島と考えられていました。
いました。
過去形なのです。
確かに、今でもインターネットで調べると、例えばグリコのサイトには「弥生時代に日本に伝わった」「栽培が広まったのは鎌倉時代以降」と書いてあります。
しかしその後、縄文時代の土器に、栽培された豆の跡がついていたり、土器の中に豆を練り込んでいたりしていることが見つかり始めています。
そして2014年に書かれた(発表は2015年)とある論文によりますと、品種改良による豆の大型化は、縄文時代でかなり進んでいて、
「当該期の東アジア全体をみても,これほど大型化した種子は現在では日本列島のみに見られる現象である」
と記述されています。
これはつまり、大豆の日本起源説です。
もちろん、他の地域でも豆の栽培はあったでしょうが、現在の大豆につながる品種は、日本から東アジアに広まっていったのが正しい、と考えられるということです。
先に述べたとおり、日本文化と大豆は非常に密接に関わっています。
それだけ付き合ってきた歴史が長いということですので、大豆が日本起源という話も、非常に納得できるところでしょう。
以前にも少し書きましたが、日本の縄文時代は、「縄文文明」と呼んでもいいような、高レベルの技術や文化を持っていました。
大豆に関しても、品種改良の技術や、その利用法については、当時から数多くの人々によって研究されてきて、それが今の日本文明につながってきたのだろうと想像できます。
さてそうなると、「ダイズ」という呼称が気になってきます。
というのも、ダイ(大)もズ(豆)も、共に音読み、つまり漢語由来だからです。
古事記にも「大豆」は登場します。
しかし当時は、これをマメと読んだようです。
おそらくこれより後世に、他の豆と区別するためにダイズと音読みされるようになったのでしょう。
和歌の世界では「花=桜」であったのと同じようなものだと思います。
なお、この当時から小豆はアズキでした。
そんな大豆、今では農作物としては小麦に匹敵するくらいの量が、世界各地で交易されています。
先述したとおり、世界的には主に食用油の原料として生産されています。
現在、大豆の生産量が世界一なのはアメリカです。
次いでブラジルとなっています。
ブラジルは、かつてはそれほどの大豆生産国ではありませんでした。
しかし過去に、アメリカが大豆の輸出規制をかけた時に、日本がブラジルに働きかけたのがきっかけで大豆生産をするようになった、といういきさつがあります。
私の中学生時代の社会の教科書では、大豆は100%が輸入となっていました。
しかしその後、遺伝子組み換え大豆が登場した際に、大豆を食用としている日本では国産回帰のブームが起こったこともあって、現在の生産量はそこそこ回復しているようです。
農水省によりますと、平成27年現在では油用も含めた自給率は4%、食用限定だと25%となっているようです。
また国産大豆は、種子用を除くと100%が食用となっていて、そのうちの56%が豆腐になっているということです。
そうそう。
きな粉はそこいらのプロテインよりもずっと安い上、吸収率も高いそうです。
最近は、プロのスポーツ選手も、牛乳やヨーグルトと一緒に飲んでいるとのことです。
あと、大豆の英名soybeanのsoyは、日本の醤油を語源としています。
大豆とは、世界的には「醤油豆」なのです。
やっぱこれ、日本原産ってことにしちゃっても、別にいいんじゃないんでしょうかねえ。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ番外編 記号「ヶ」「ヵ」について
あるとき生徒から、「3ヶ月」「戦場ヶ原」の「ヶ」について、
これは何がどうなっているのかという質問がありました。
そこで、ちょっと調べてみまして、まとめた内容が以下です。
自分としても興味深い内容でしたので、公開してみます。
なお、こちらの記事は、質問者本人には渡しましたが、月謝袋では公開しておりません。
記号「ヶ」について
1.
元々チャイナでは、物を数える単位として
「箇」が用いられていた。
これは日本語の1個2個の「個」にあたる。
読み方は「カ」「コ」。
2.
漢の時代の頃から、「箇」の省略形として
「个」が用いられるようになった。
読み方・使い方は「箇」と同じ。
「个」は、漢和辞典にも掲載されているれっきとした漢字。
3.
「个」が日本に伝わったのち、
恐らく片仮名の「ケ」と形が似ているからという理由で、
「箇」「個」を使う場面で、
「个」の代わりに「ヶ」が用いられるようになったと思われる。
(広辞苑より)
→例:数ヶ月(すうかげつ) 十ヶ入り(じっこいり) 三ヶ日(みっかび:地名)
→助動詞「ます」の代わりとして「 」を使うのと同じノリだと思われる。『氷あり 』
今でも「マス」として使われる「記号」(≑絵文字?)
4.
さらに、「我が家」「君が代」のような「~の」を意味する「が」が、
地名として用いられる際に、
おそらく発音が共通だという理由から、
当て字として「ヶ」が使われるようになったと考えられる。
江戸時代までは、
濁音と清音は同じ表記をされることが多かったことも、
この一因ではないかと思われる。
(この由来については調べても見つからないので、これについては朝倉による推測)
→例:戦場ヶ原 関ヶ原 鶴ヶ峰
というわけで、結論。
・「ヵ」と「ヶ」は元々は同じ「箇」で、読み方は「カ」「コ」。
・さらに転じて「ガ」と読まれるようにもなった。
こんなところでしょうか。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ177 新生代(過去記事)
2016.07号
数ヶ月前から、いい加減に暗記してしまおうと思って携帯電話にメモしたまま、ちっとも覚えられない言葉があります。
「ぎょうしぜん ちゅうせん こうかん」
「暁始漸 中鮮 更完」
「古第三 新第三 第四」
これは何のことなのか……わかる方もいらっしゃるかもしれませんが、まあ普通は知る必要も無い余計な知識です。
これは、地球の歴史、というか生命史のうちの、新生代を詳しく分けた名称です。
中学の理科では、かろうじて「古生代・中生代・新生代」の三つまでは習うと思います。
しかし本当は、古生代のさらに前に、「先カンブリア時代」が存在します。
また古生代は、
「カンブリア紀・オルドビス紀・シルル紀・デボン紀・石炭紀・二畳紀」
に分類され、中生代は、
「三畳紀・ジュラ紀・白亜紀」
新生代は
「第三紀・第四紀」
に分けられています。
以上ここまでは、私は小学生か中学生の頃に覚えた知識です。単なる趣味です。
※今では二畳紀はペルム紀と書かれていることの方が多いようですが、当時はどの本も二畳紀でした。
私も、小学生とか中学生とか、そんな頃はこういうものを意味も無く暗記できたのですが、今はなかなか覚えられません。
我ながら、よくもこんな意味も無い言葉の羅列を覚えられたものだと思います。
ところで、ジュラシックパークのジュラシックとは、ジュラ紀のことです。
ですが、ティラノサウルスは白亜紀後期の恐竜ですので、本当はジュラシックじゃないんですよね。
ジュラシックというのなら、本当はアロサウルスを出すべきだと思うのですが、まあそれは置いておいて。
話を戻しますと、ともかくこのような時代区分の順序がわかると、どの頃にどんな生き物がいたのか、だいたいカンがつかめるようになります。
先のティラノサウルスとアロサウルスの話も同様です。
しかし、新生代は、恐竜の中生代に比べてどうしても魅力が少なかったために、気になりながらも覚えないままでいてしまいました。
その「宿題」を、今になってやろうとしているわけです。
これが正解。
左から右に進みます。
なお、私の子供の頃は、これとは別に沖積世とか洪積世とかいう呼び名があったはずなのにおかしいな……
と思って調べてみたら、今では洪積世は更新世に、沖積世は完新世に名称が入れ替わっているのだそうです。
さて、なぜ今頃になって新生代を覚えようとしているかというと、きっかけは「赤丸600ポイントの消しゴム」でした。
小学生の塾生は全員よく知っていると思いますが、当塾にはポイントをためると消しゴムなどと交換できるシステムがあります。
小学生は原則として、解いた問題数(赤マルの数)でポイントが与えられます。
その中に、スミロドンの頭骨の消しゴムがあります。
これは、サーベルタイガーと言われる、長大な犬歯を持つネコ科の動物の一種で、絶滅種です。
でもこいつって、新生代のいつ頃だっけ?と思って、ああこれはやっぱり時代名を覚えないと話にならないなあ、と痛感したのです。
この手の生物は、よく○○万年前とかいう書きも見かけますが、そんな数字は覚えてられません。
でも時代名ならば、数字よりも覚えやすいし理解しやすいのです。
スミロドンに関しては、鮮新世から更新世が正解だそうです。
そして猿人が鮮新世で、原人から新人にかけてが更新世なので、時代的には同じということになります。
ただ、人類はアフリカからユーラシア大陸を拡散していったのに対して、スミロドンはアメリカ大陸にいましたので、出会うことはなかったようです。
新生代は、恐竜が滅んだあとの時代ですので、お子ちゃまにはあまり人気がないのですが、その代わりに巨大な哺乳類や鳥類がいたこともありました。
新生代のちょっと有名どころを、時代別に書き出してみましょう。
この時代もなかなか魅力的だということがわかると思います。
ディアトリマ(恐鳥) 始新世
バシロサウルス(原始クジラ) 始新世
ブロントテリウム(角がアレな) 漸新世
バルキテリウム(陸生最大?) 漸新世
デスモスチルス(日本にいた) 中新世
メガロドン(巨大サメ) 鮮新世
メガテリウム(巨大ナマケモノ) 更新世
ケナガマンモスなど氷河期モノ 更新世
と、ご覧のように、みんな巨大です。
すげえ、こんなでっかいのいたのかよ、なんてつい絶滅生物の巨大っぷりにロマンを感じてしまいます。
が、
が、
実は、地球の歴史上で最大の動物は、
シロナガスクジラ
なのです。
あれ実は、どんな恐竜よりもでかい動物なんですよ。
なお、中学理科の問題でよく見かけるビカリア(巻き貝)は始新世から中新世で、ナウマンゾウは更新世だそうです。
また茨城県自然博物館の、館内に入ったすぐ正面左に展示されている松花江(しょうかこう)マンモスは、漸新世なのだそうです。
だから覚えないとね。
ぎょうしぜん……
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ201 鳥の名の由来
2018.07号
私の自宅は、筑波山に近い田園地帯です。
周囲では色々な鳥の鳴き声も聞こえてくるのですが、今年になって、初めて聞く鳴き声がありました。
我が家のすぐ裏で、かなり大きい声で鳴いています。
ガチョウに近いような鳴き声ですが、それとも違います。
ウチの近辺で見かける鳥で、鳴き声を知らない鳥で、声の大きそうなものといえば……サギかキジあたりでしょうか。
調べてみると、キジで正解でした。
今はyoutubeで検索すれば、鳴き声も簡単にわかってしまうので便利なものです。
キジは、ニワトリに近い仲間です。
同じ仲間には、ウズラ、クジャク、コジュケイ、ライチョウなどがいます。
上:キジ 下:コジュケイ
だいたいどれも「ニワトリ型」の体型をしていて、飛ぶよりも走る方が得意な鳥です。
このうち、コジュケイは以前からずっと我が家の周囲を鳴き回っていて、馴染みの存在でした。
で、このコジュケイがまた、うるさいんですよ。
ニワトリ並に声がでかい上に、
「チョットコイチョットコイチョットコイチョットコイ……」
ってまた長いんですわ。
これが終わった後も、しばらくの間
「ギャア!・・・・・・ギャア!・・・・・・」
と繰り返します。
てなわけで、声のでかそうな鳥なら、同じ仲間のキジかなあ、なんてヤマが当たったわけです。
さて、そんなキジの鳴き声、私が聞いた感じでは、
「キェッ! キェッ!」
でした。
桃太郎などではよく「ケンケン」と鳴くとなっていますが、んー、まあそれもありかなあ、という程度の感じがします。
以前、日本人が虫の声を聞き分けられるのは、その鳴き声を日本語に落とし込んでいるから、なんて話を書いたことがあります。
スズムシはリーンリーン、ヒグラシはカナカナ、クツワムシはガチャガチャと、よく鳴き声が擬音語でされていますが、これを「聞きなし」または「聞きなす」と言います。
虫ではこの程度ですが、これが鳥の聞きなしになると、例えばフクロウは「五郎助奉公(ごろすけほうこう)」、ホトトギスは「天辺欠けたか(てっぺんかけたか)」、ホオジロに至っては「一筆啓上仕り候(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)」などと聞きなされます。
……と、書き出してはみたものの、本当にそう聞こえるのかと言われると、ちと怪しいものがあります。
実際に聞いてみるとわかるのですが、ホトトギスは「ホトトギス」と鳴きながら飛びます。
正確には、「ホットットトギス! ホットットトギス! トトギス! トトギス!」といった感じでしょうか。
これが、ホトトギスという鳥の名の由来です。
いやこれホント。
鳴き声を呼び名にすることは、別に変なことではありません。
今でも、「カナカナ鳴いてたよ」といえばヒグラシが鳴いていたとわかりますし、ウグイスという鳥のことをホーホケキョと呼んでも普通に通じるはずです。
昔の日本人は、そうやって鳥の名前をつけていったのです。
そう思って聞くと、ウグイスも「ウーグイス!」と聞こえてきませんか。
で、実際これが正解なんです。
もうちょっと厳密に言うと、「ウーグヒス!」から、「うぐひす」と呼ばれていました。
なお、ウグイスの鳴き声が「ホーホケキョ」から「法華経」と聞きなされたのは江戸時代以降のことで、歴史的には比較的最近です。
鳴き声から付けられた名前の鳥といえば、カッコウなんて典型例もあります。
郭公という字で書くこともありますが、完全に当て字です。
英語でもcuckooクックーと呼ばれています。
そう考えていくと、カラスの「カ」も鳴き声っぽい感じがしませんか。
それで正解です。
そこで語源辞典を引いてみると、残った「ラス」のうち、「ス」は、「鳥の名に多く見られる接尾語である」なんて書いてあります。
ところが、へーそうなのかー、と思って読むと、そこで挙げられている接尾語の例は、ウグイスとホトトギスなんですよね。
先に書いたとおり、この2つは鳴き声そのものを名前にしたと思われますので、たまたまスに揃っただけなんじゃないのかなあ、なんて少し疑っています。
それはともかくとして、万葉集にはカラスの鳴き声が「ころく」と表現された歌があるということです。
つまり、当時はカラスの鳴き声を「ころく」と聞きなしていて、その後「ころ」が「から」に変化して、接尾語の「す」がついた、という説が有力なのだそうです。
でも「す」は……。
まあいっかー。
獣の古名が「しし」なんだし、鳥が「す」もありとしましょう。
納得いってないけど。
参考:
肉=しし=食べられるケモノ
「い」のしし=いのしし
「か」のしし=かじし=しか
ところで、最初に鳴き声を書いたキジも、名前は鳴き声由来です。
古名は「きぎし」。
江戸時代に書かれた文献には、
キギシのキギってのは何のことか。
今じゃあケンケンって言ってるけど、昔はキイキイって聞いてたんだよね
なんて記述があります。
この「きぎし」が短く転訛して、キジになったということです。
スズメとツバメ(古名はツバクラメ)の「スズ」と「ツバ」も、鳴き声からきています。
ヒバリは「日晴る」から来ているという説がありますが、やはり鳴き声からという説もあります。
鳴き声由来の鳥の名前は、もっと調べれば他にもあるかもしれません。
さて。
ここからは名前の話ではないのですが、ホトトギスについて、ついでに少々。
ホトトギスといえば、すぐに連想するのが「鳴かずんば~」というやつですよね。
あの例の、信長秀吉家康のやつですよ。
若者には「鳴かぬなら~」と言った方がわかりやすいでしょうか。
あの句は、最初は子供向けの本で見た方がほとんどだと思います。
ですから大抵、そこには挿絵(さしえ)がついています。
ところで、どんな絵がついていましたか?
私がこれまでに見たものは、お城か屋敷の庭先か座敷で、殿様が座っていて、その前にはかごに入った鳥がいる、という図でした。
んーとですね……。
多分ですが、あくまで憶測ですが、この手の絵を描いた人は、ホトトギスをウグイスか何かと勘違いしているんじゃないかと思っています。
確かに、ホトトギスの大きさってのは大したことはなくて、かごに入っちゃう程度なのです。
しかし、まず、鳴き声の大きさは半端ないです。
セミの比ではありません。
相当遠くまで響きますし、声自体がかなり鋭いです。
ですから、殿様の目の前で本当に鳴き始めたら、はっきりいって大変なことになると思います。
マジで耳塞ぐレベルです。
さらに、この鳥は基本的に、飛びながら鳴きます。
もし姿が見えることがあるなら、あっちの方から鳴きながら頭の上を通り過ぎて、反対側へ飛び去っていく、というのが、現実のホトトギスに近いシーンでしょう。
ですから、もし「鳴かずんば」の挿絵を描くなら、野山に出かけた殿様を描くべきだと思います。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ126 朝鮮出兵(過去記事)
2012.04号
前回に引き続き、ウチの三歳児の本「ビジュアル版戦国武将大百科」からのネタです。
「合戦編」に、豊臣秀吉の朝鮮出兵についての記述がありました。
秀吉の朝鮮出兵は、2回ありまして、1回目は文禄の役、2回目は慶長の役と呼ばれています。
で、その本によると、まず文禄の役は、
「当初、朝鮮側は戦の準備ができておらず、」
慶長の役では、
「文禄の役では平壌にまで進出した日本軍が、慶長の役では漢城の手前で足止めされてしまったのだ」
と書いてあるわけですが、んーと、残念ながら、ちょっと違うんですよねー。
子供向けの本にいちいち目くじらを立てるのもどうかしているとは思いますが、これでは日本軍の負け戦みたいで大変不本意ですので、あえてこの場をお借りしたつっこみを入れてみようと思います。
朝鮮に進軍する前に、秀吉は何度も服属せよとの警告を発していました。
その後、拒絶する様子を見て、進撃拠点となる名護屋城を建造しています。
そしてそれを見ていた朝鮮側も、北方に配備していた軍を日本側に配備して、水軍も半島南端に集めています。
さらに、宗主国の明に対して
「沿岸守将に対して厳重警戒を下命しました。
日本から侵犯を受ければ撃滅いたします」
という使節を送っています。
つまり、戦の準備は十分にできていたのです。
しかし朝鮮軍は、日本軍が上陸してからは連戦連敗で、敗走を続けるのみでした。
その理由としては、
・歴史的に朝鮮は、歴代の中国王朝の属国となることで生き延びてきたために、大きな対外戦争が長い間起こっていなかった
・文化的にも「体を動かすのは身分の低い者のすること」という考えがあるので、役人は兵を蔑み、軍の訓練をするにも指導者がいなかった
・前項と同じ理由により、職人が育たなかったので工業が全く発達せず、あらゆる武器の性能が非常に低く、鉄砲もろくに持っていなかった
という朝鮮に、
・日本では職人技をもつ技術者が多かった
・そのために鉄砲の命中精度および威力はオリジナルのポルトガル製を超えていて、さらに大量生産によって、当時は世界一の鉄砲保有国だった
・同じ理由により、日本刀も世界の他地域の剣に比べて抜群に高性能で、輸出されるほどだった
・日本は長く戦国時代であったために、兵は実戦で鍛え上げられた者ばかりの上、高度な戦術も数多く持っていた
・遠征隊の一部兵士にとっては、元寇の際に朝鮮人が対馬で行った虐殺の恨みを晴らす、という意味合いもあった
というような軍が大量に攻め込んで行くわけですから、そりゃ勝ちますわな。
釜山に上陸した日本軍は朝鮮軍の城を次々と陥落させて、文字通り破竹の勢いで北上して行き、上陸からたった二十日余りで、首都である漢城をあっさりと陥落させます。
ちなみに、上陸地点の釜山から漢城までは、およそ500キロ。
江戸時代、東海道五十三次の500キロは、通常15日ほどで旅をしたと言われています。
さらに、江戸時代に朝鮮半島に旅をした西洋人の記録によれば、朝鮮半島はどこも山がちで、ろくな道がないとされています。
そこを鎧と武器でフル装備した兵士が進んだことを考えると、朝鮮軍の抵抗はほとんど無いようなものだったと考えてもいいでしょう。
漢城にいた朝鮮王は、近づいてくる日本軍の報を受けて、さっさと逃亡してしまいます。
その家臣はといえば、王宮の家畜を盗んで、王よりも先に逃亡しています。
そしてそれを見た住民が、王宮に対して放火と略奪をした為に、日本軍が到着したころには廃墟があるだけでした。
なお、朝鮮の被支配層はそれまで、働くことがバカバカしくなる程の搾取を受けていたのですが、秀吉は軍に対して
「占領地における放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲の禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと」
などを命じています。
ですから日本軍は、朝鮮住民にとって解放軍に見えたようです。
漢城に到達する頃には、軍の半分くらいが朝鮮の民衆だったという記録も残っています。
日本軍はさらに北進、平壌まで到達しました。
ここで和平を呼びかけますが、朝鮮軍が応じないために、平壌を陥落させます。
その後、明へ逃げ延びた王の依頼を受けて明軍が到着しますが、一度は日本軍が撃退します。
しかし明軍が城の食料庫に火を放ったために、日本軍は漢城まで退却します。
その漢城付近の食糧倉庫も焼かれてしまったので、日本軍は明軍と和平交渉を始め、釜山まで引き上げました。
ただし、平壌から漢城へ戻る会戦では、日本軍は明軍に大勝しています。
文禄の役が失敗したのは、食料などが奥地まで十分に運べなかったのが主要因でした。
陸路は道が悪く、海路も船が小さかった為に、朝鮮水軍の妨害を突破できませんでした。
そこで、続く慶長の役では、大型船を用意して朝鮮水軍をほぼ壊滅させています。
よく聞く「李舜臣将軍」はこれ以降、日本水軍にろくに手を出せなくなります。
また日本軍は、南部に留まり、「ヒットアンドアウェイ」で敵軍の消耗をさせて、その後一気に進攻するという作戦に変えたようです。
この方針は、秀吉が出した命令書からも見ることができます。
つまり日本軍は「足止め」されたわけではなくて、敢えて進まなかったのです。
敵軍の将が、日本軍の追撃が無いことを罠ではないかと疑ったという記録も残っています。
その後も日本軍は、攻めて引き上げ、攻められて撃退、を繰り返します。
ただ一度だけ、建築中で食料を運び込む前の城を攻められたときに、食糧難で危なかったことがありました。
しかし援軍の到着によって撃退に成功。
さらに追撃によって数多くの敵兵を討ち取り、最終的には日本軍の損害が1100人に対して、明・朝鮮軍の損害は20000人という圧勝でした。
その後の会戦でも、
「日本軍13000人対敵軍55000人の戦いにおける日本の損害がほとんど無し」
とか、
「島津隊7000人が30000人の敵兵を討ち取る」
とか、ほぼ無敵状態でした。
最後は明軍は、遠巻きに眺めるしかなかったと書かれています。
その後、秀吉の死去によって日本軍は撤退するのですが、それでも豊臣家にはまだ十分な資金が残っていました。
最強ですね。
一方、明は、朝鮮派兵による消耗によって、滅亡への道を辿ることとなるのでした。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
あすなろ105 イースター島(過去記事)
2010.07号
ここに以前(No.101_2010/03)書いたとおり、「霊が見える」などと言う嘘つき野郎は大嫌いですが、「古代文明の謎」などの「超科学」は、かなり好きです。
この手の話は、基本的には人に迷惑をかけませんからね。
ただ、たまーに「我々はかつて世界を支配した優秀な民族」「人類の発祥の地は我が国」などと、どう考えてもあり得ない話を始める困った国民もいますけど、こういうのは超科学とはいいません。
(どことはいいませんけど、こっちの方に度々ミサイルを撃ってくる独裁国と、そのすぐ南にある国のことです)
そして今、中二の英語に、イースター島だのモアイだのが出てきてしまいましたので、ついモアイの話をすることにします。
イースター島といえばモアイ、モアイといえばイースター島。
イメージ的には、いかにも謎の古代遺跡という匂いをプンプンさせていて、ナスカの地上絵やストーンヘンジなどと同列に語られることが多いのですが、実はそんなに「古代」のものではありません。
モアイ信仰は、10世紀くらいから17世紀あたりまでと言われていますから、日本で言ったら鎌倉から江戸時代初期までですね。
イースター島は、よく「絶海の孤島」と呼ばれるとおり、周りに全く他の島がありません。
一番近い隣の島まで400㎞以上、人が住む島までは2000㎞も離れています。
ですから、他の島との交流はほとんど無かったことでしょう。
周囲は海だけですから、耕作する他に、木で削りだしたカヌーで漁をして暮らしていました。
また、人種的・文化的には、ポリネシア文化圏だとされています。
……という所まで書いて、念のために調べていたら気づいたのですが、ポリネシアという言葉は、中学生用の地図帳には載ってないんですね。
一般用語ではないのでしょうか。
ポリネシアとは、ハワイとニュージーランドを結んだ線よりも東側一帯に広がる島々のことです。
ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ三角形が、おおよその位置と考えてもいいそうです。
マゼランやクックの航海の話を読むと、必ずポリネシアという言葉が登場しますので、知っていてもいいと思います。
ポリネシアン・トライアングル
ポリネシア文化圏を表す指標
東端の「ラパ・ヌイ」がイースター島
モアイは、そんなポリネシアの祖先信仰の対象として生まれました。
この島からは、凝灰岩(ぎょうかいがん)が多数産出します。
凝灰岩は、原始的な道具でも加工が容易であるため、これを切り出して作られました。
最初期のモアイは、全身の座像で下半身もちゃんと作られています。
しかし、それが何百年も経つうちに、下半身が省略され、顔が強調され、いわゆるモアイの姿に変わっていきます。
初期のモアイ
足まで作られている
上:中期のモアイ 下:後期のモアイ
長い顔、深い眼窩、長い鼻、長い耳などが特徴
作られたモアイは、村の周囲の祭壇の上に、村に向けて立てられていました。
モアイが立てられた祭壇の下からは、近年、多数の人骨が発見されていて、モアイは墓標の一種ではないかという説が有力になっているそうです。
モアイは山で切り出され、村の周囲まで運ばれました。
さらに、高い祭壇の上に乗せられたわけですが、それは20tから80tもある石の塊です。
その高さは、平均的なものでも3mを超え、ものによっては7m級のものもあります。
これをどうやって運んで立てたのか、それには未だに諸説があります。
一般的には、木でソリを作って斜面を滑らせた、という説があります。
また、モアイは山から歩いてきたという島の伝承からヒントを得て、直立させた状態で運んだのではないか、という仮説も立てられています。
イースター島の地層を調べていくと、かつては椰子(ヤシ)の大木に覆われた島だったことがわかっています。
しかし、現在では草原が広がるばかりで、大木など一本も生えていません。
これは、人口増加とモアイ製造によって森林が乱伐され、全て使い尽くされてしまったためと言われています。
大木を失ってからは船が作れず、釣り道具すらままならず、最後は燃料にも事欠いて、一説によると食人をするところまで追い込まれていたようです。
そうなると、モアイを作って平和に暮らすどころではありません。
限られた耕作地や漁場を巡って、島内では争いが絶えなくなり、敵対する村のモアイ像を倒し合う「モアイ倒し戦争」が起こります。
1722年、オランダ人が西洋人として最初にイースター島に上陸したときには、1000体を超えるモアイがあり、島民は祈りを捧げていました。
1744年、イギリス人冒険家クックは、数々の破壊されたり倒されたりしたモアイを見ていますが、まだ半数ほどは立っていたそうです。
そして伝承によると、1840年、最後のモアイが倒されました。
同じ頃、ペルー政府によって住民が奴隷として連れ出されたり、同時に天然痘が外部から持ち込まれたりして、島民の数はさらに激減します。
1872年には、わずか111人(田舎の小学校1つ分)にまで減っていました。
現在の住民は、タヒチへの奴隷狩りから帰ってきた人達の子孫であるため、現在では当時ここで話されていた言語すらわかりません。
かつては独自の文字も木材に書かれたいたようですが、そのほとんどが燃料や釣り道具として消耗されて、今では解読不能です。
こうして、一つの文化が断絶しました。
この島には、こんな壮絶な歴史があるのです。
ところで、倒されたモアイは、1990年代まで全てそのままでした。
しかし、日本のクレーンメーカーであるタダノが、クレーンを持ち込んでモアイの引き起こしや修復をして、使用済みクレーンを寄贈しています。
ありがとうタダノ。
ありがとう日本の人。
学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義
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