2018年3月

あすなろ196 カタツムリの左右

あすなろ

 

 

 

2018.02号

 

前回の記事で、カタツムリのお話の最後に「まだ他にネタはあるんだけど」なんて書きましたところ、これを読んだ高校生に「続きを書け」と言われましたので、書きます。

 

今回は、カタツムリの左右のお話です。

 

カタツムリは巻き貝ですが、この巻き貝という生物は、動物としては珍しいことに左右非対称の外見を持ちます。

 

それに対して、アンモナイトやオウムガイも、巻いた殻を持っていますが、こちらは左右対称です。

正面から見た時に、殻の先端が横に張り出してなくて、中心に収まっています。

つまり、殻を裏から見ても表から見ても同じ形です。

知ってました?

 

アンモナイトはともかく。

 

巻き貝は、ほとんどの種類で、殻の巻く向きが「右巻き」です。

左巻きの殻を持つ種類は、巻き貝のうちの1割未満なのだそうです。
 



「右巻き」の巻き貝たち


 

しかしこれがカタツムリ(有肺類)に限ると、手許の図鑑(※)で数えた限りでは、131種類(ナメクジを除く)のうちの32種類が左巻きでした。

ここから推定する限りでは、カタツムリについてはおよそ4分の1の種類が左巻きということになります。

 

※ 日本のカタツムリは約800種です

 

ところで、カタツムリは雌雄同体と言って、オスとメスの両方を兼ねた体を持っています。

そのため交尾の際には、二匹が向き合って同時に交尾しあいます。

そしてその生殖孔が体の側面についているために、殻の巻く向きが逆だと、交尾が成り立ちません。

 



b(左図) カタツムリの交尾の様子
c(右図) 逆巻きの変異個体とは交尾できない(矢印が生殖孔の位置)


 

画像の注釈に「変異個体」と書きましたが、いわゆる突然変異と考えて構いません。

 

巻き貝の左右は、実はたった一つの遺伝子によって支配されています。

そこに変異が起こると、体中の構造が全て左右逆になってしまいます。

ですから、他の生物に比べると、比較的「簡単」に左右が入れ替わります。

 

しかし、そういう変異個体は、生殖孔も逆についてしまうので、図のように交尾ができなくなります。

つまり、子孫は残せません。

ので、通常はそこで途絶えます。

 

ところがもし、偶然にも同じ逆巻きの個体同士が出会ったら、そこからは「新種」ができるわけです。

元の巻き型とは交尾ができないわけですから、それはもう別の種類です。

 

そして実際、そういうカタツムリもいます。

 

東北地方に棲むアオモリマイマイは、ヒダリマキマイマイの左右が反転してできた種類だということが、遺伝子の解析から判明しています。

遺伝子解析をすると、前述の左右を支配する遺伝子以外は、全く同じだったのです。

 

しかも、ヒダリマキからアオモリへの変異は、並行的に少なくとも3回は起こったことがわかりました。

 



赤がヒダリマキ
青がアオモリ


 

これはつまり、「一種類の生物は、全てがある1個体の子孫である」という、現在の進化学の主幹的な考えである単系統主義が、厳密には当てはまらない例が見つかってしまった、ということなのです。

 

……ってな感じで、この話は進化屋さんや系統分類屋さんにとっては、かなり衝撃的な内容なんですけど、普通の人にとってはどうでもいいですよねー。

すみませんホント。

 

もう一つ、別のお話です。

 

セダカヘビという、カタツムリを食べるヘビの仲間がいます。

日本には、石垣島と西表島に、イワサキセダカヘビという種類が生息しています。

 

このヘビは、カタツムリに後ろから噛みついた後、中身を引きずり出して食べます。

その際、右巻きのカタツムリが食べやすいように、右側の歯の数の方が多くなっています。

つまり、右巻きのカタツムリが食べやすいように、アゴの形が進化したヘビなのです。

 



セダカヘビの下顎。
左右で、歯の数と骨の形が異なる。



イワサキセダカヘビの捕食の様子。
右の歯が殻の奥側。


 

このような進化をすると、右巻きカタツムリの捕食が上達する一方で、左巻きの食べ方が下手になります。

その結果、国内のこのヘビの生息域では、左巻きのカタツムリの方が生き残りやすくなって、左巻きの種類が増えることになりました。

国外でも、セダカヘビの棲む東南アジアは、他の地域に比べて左巻きのカタツムリが多く生息しています。

 

なお、セダカヘビの中で一種類だけ、左右対称の下顎を持つものがいます。

実はこの種類はナメクジだけを食べるので、左右非対称になる必要がなかったのです。

 

ところで、「三すくみ(さんすくみ)」という言葉はご存じでしょうか。

ジャンケンのように、三つのものがあるとき、他の二つに対して強い・弱いの関係を持つ状態です。

 

三すくみといえば、普通はジャンケンではなくて蛙・蛇・蛞蝓(なめくじ)のことを言います。

曰く、蛙は蛇に弱く、蛇は蛞蝓に弱く、蛞蝓は蛙に弱い。

そこで、この三者が出会ったら、互いに動けなくなってしまう、と。

 

蛇が蛞蝓に弱い理由はわかりません。

昔からそう伝わっている、としか言えません。

 

セダカヘビがナメクジを食べると聞いて、最初に思い出したのが三すくみでした。

 

全然関係ないだろっていう。

ねえ。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ53 二十四節気、節句(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2006.03号

 

年が明けて、早くも節分が終わりました。

もう桃の節句の季節です。

時の流れを早く感じるのはトシのせいではないかという疑惑はとりあえず置いておくとして。

 

節分と節句。

両方とも「節」がつきます。

共に「時節」に関する言葉ではありますが、この二語の関係が、ちょっと変だということに最近気づきました。

そんな話です。

 

その言葉の話を直接解説する前に、二十四節気(にじゅうしせっき)というものをご存じでしょうか。

ものすごく簡単に説明すると、二十四個の季節の分け目の日です。

四季では表しきれない微妙な季節の移り変わりを、さらに細かく分けたものと思ってもらって結構です。

その原型は、例によって中国大陸から渡ってきたとされています。

 

以下に、具体的な語を挙げます。

できればひととおり知っておいて欲しいので、一応全部挙げておきます。

 


 

一月

立春 りっしゅん

雨水 うすい

 

二月

啓蟄 けいちつ

春分 しゅんぶん

 

三月

清明 せいめい

穀雨 こくう

 


 

四月

立夏 りっか

小満 しょうまん

 

五月

芒種 ぼうしゅ

夏至 げし

 

六月

小暑 しょうしょ

大暑 たいしょ

 


 

七月

立秋 りっしゅう

処暑 しょしょ

 

八月

白露 はくろ

秋分 しゅうぶん

 

九月

寒露 かんろ

霜降 そうこう

 


 

十月

立冬 りっとう

小雪 しょうせつ

 

十一月

大雪 たいせつ

冬至 とうじ

 

十二月

小寒 しょうかん

大寒 だいかん


 

以上、二十四節気です。

立春から啓蟄の前日までを一月とし、立春から立夏の前日までを春と定めています。

節気というのは、その区切りとなる日のことです。

その昔、中国から伝わってきました。

 

二十四節気のうち、重要なのは立春、立夏、立秋、立冬の四つです。

重要な区切りになりますので、その前日にも名前が付いています。

それが、節分という呼び名です。

月の終わりの日が特別に晦日(みそか)や晦(つごもり)などと呼ばれるのと同じです。

 

ところで、日本では古来より、季節の変わり目には鬼(邪気)が生じると考えられておりました。

今でも「季節の変わり目には体調を崩しやすい」とされていますので、まんざら嘘でもないとは思います。

で、一年の中で最も大切な季節の変わり目(節分)となる年末、邪気を払う儀式が生まれました。

これが、今に伝わる節分祭です。

 

節分祭は、元々は宮中行事だったそうです。

それが貴族→武士→平民と伝わり、江戸時代には一般行事化しました。

日本の歴史においては、まあよくある話です。

 

さて、それでは節句です。

 

こちらも、元々は季節の変わり目の儀式でした。

変わり目の日のことを節日(せちび)と呼び、お供え物をしたそうです。

その供え物を「節供」と呼び、後に転じて節日自体を節供→節句と呼ぶようになったとのことです。

その昔、中国から伝わってきました。

 

ってあれ?

この「季節」って、さっきの季節と時期が若干違うような......

 

この二つの「季節」の不整合について、私が調べた限りでは、うまい説明が見つかりませんでした。

思うに、別の考えが別の頃に日本に伝わってきたのでしょう。

漢字の音読みが何通りもあるのと同じではないかと。

んで、全部ちゃんぽんで気にせず取り入れてしまっただけではないかと。

まあ、やっぱりこれも、日本史においては良くある話ですよ。

 

んで、元々はいろんな節句があったのですが、江戸幕府はその中から、五つの節句を公式な「式日」(今でいうところの祝日)として定めました。

これを以下に挙げます。

 


・一月七日

人日(じんじつ)

別名 七草の節句

 

・三月三日

上巳(じょうし)の節句

別名 桃の節句・雛祭り

 

・五月五日

端午(たんご)の節句

別名 菖蒲の節句

 

・七月七日

七夕(しちせき)の節句

別名 笹の節句・たなばた

 

・九月九日

重陽(ちょうよう)の節句

別名 菊の節句


 

最初の人日を除いて、みんな奇数のゾロ目です。

これは、中国の陰陽思想においては、奇数が陽であるから縁起がいいという発想から来ています。

なので、それが重なっている日は特に縁起がいいと祝ったのが、節句の始まりとのことです。

中でも、最大の陽の数である九が重なった日を重陽と呼び、これもまた宮中行事としては重要だったようです。

 

菊の節句は、雨月物語の「菊花の契り」という話に登場しますよね。

......何?

知らない?

じゃあ読め。

江戸時代に書かれた怪話集です。

 

ちょっと、二十四節気の話に戻ります。

 

見てわかるとおり、夏至が五月にあり、冬至が十一月になっています。

これはいわゆる旧暦ですのから、現在とは約一ヶ月のずれはあります。

ただ、それを考慮しても、二月の旧正月に春が始まるってのは、現代の我々の感覚からすると、早すぎの感があります。

 

何故、年の初めが立春であるのか。

 

どうやら、春夏秋冬という言葉の定義自体が、ただ単に、一年を四つに分けたときの呼称であったらしいのです。

 

最初は、わかりやすい日である冬至を年の初めと定めたそうです。

月が一番「小さく」なる状態を「新月」と定めたのと同じような感覚で、日が一番「小さく」なる状態を「新年」としたのでしょう。

 

ですが、後に「冬至と春分の中間点を年の初めとする」と変更になりました。

これは多分、こっちの方が農耕に都合がいい区切りだったからではないかと思います。

中国の気候はよく知りませんが、多分。

 

この、年始が変更されたのが戦国時代といいますから、だいたい紀元前五世紀から前三世紀あたりまでのどこかでしょう。

秦の始皇帝が中国全土を最初に統一するよりも前のことです。

要するに、かなり昔のことです。

 

今では、世界中で同じ時に新年を迎えます。

それは、世界中で同じ暦=グレゴリオ暦を使っているからですが、この暦が発布されたのは1582年です。

その雛形となったユリウス暦は、紀元前45年から実施されています。

 

ユリウス暦のさらに元となったとされるローマ暦は、年の初めが明確に決まっているものではありませんでした。

国王が今日からと宣言したときが年始となり、農閑期になると暦を刻むのを終了したそうです。

 

という時代系列から見るに、年の初めを今の位置に最初に定めたのは古代中国で、ユリウス暦はそれを参考にして一月を制定したのではないのでしょうか。

多分。

 

「西暦」、つまり「西洋の暦」の原型のようなものが中華にあるなんて、面白いと思いませんか?

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ60 冥王星(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2006.10号

 

冥王星ですよ冥王星。

「太陽系の惑星」では無くなるんですって。

 

惑星占いで商売している人たちは、きっと大慌てでしょうね。

ワハハハザマミロ。

 

実をいうと、冥王星が惑星として認められるかどうか、という議論は、しばらく前からあったことでした。

冥王星は、惑星としては何かと独特の個性を持っていますからね。

 

まず、軌道が普通と違います。

他の惑星が、全て同一平面上にあるのに対して、冥王星の軌道平面は十七度傾いています。

また、他の惑星がほぼ同心円状の軌道を持つのに対して、冥王星はもっとゆがんだ楕円を描き、あまつさえ天王星よりも内側を通過することもある、という状態です。

 

と、ここまではよく知られた「特徴」です。

しかしこれ以外にも、色々な面で特殊な存在なんですよこの星は。

 

太陽系の惑星は、皆それぞれの特徴を持っていますが、共通点も持っています。

 

たとえば、地球と火星はよく似た星だと言われます。

共に金属で構成された核とマントルを持ち、ケイ酸塩からなる堅い地殻(表層)を持っています。

この類似点は水星、金星にも見られるため、ここまでの星は「地球型惑星」と分類されています。

 

これに対して、木星、土星、天王星、海王星の四つは、地球のような堅い「地面」を持ちません。

 

木星と土星の表面は、遙か深いところまで液体水素ガスに覆われていて、その表面を大気が包んでいます。

天王星と海王星は氷のマントルを持ち、それをものすごい厚さのガスが覆っています。

また、表層の大気は、すさまじい強風となって吹き荒れています。

以上のような共通項により、この四つの惑星は、「木星型惑星」と分類されています。

 

一方冥王星は、岩石の核を厚い氷が覆ったもので、中層部のマントルを持ちません。

要するに、氷がくっついた岩なんですよあれは。

といった点から、地球型とも木星型とも言えない存在なのです。

 

と書くと、冥王星なんか最初から惑星にしなければ良かったのに、と思うかも知れませんが、発見当初はそこまでわかっていなかったので、仕方がなかったのです。

最初は地球型惑星で、大きさも地球と同じくらいだと思われていました。

後に、詳細がわかってくるにつれ、矛盾が見つかってしまっただけのことなのです。

 

冥王星の発見は、海王星の発見がきっかけになりました。

海王星を発見したフランス人天文学者ルベリエが、この星の動きに影響を与えている未知の天体がある、と予言したのです。

後にそれはルベリエの見当違いであることがわかったのですが、その言葉を信じて、星空をしらみつぶしに探し続けたアメリカ人のトンボーが、気力で見つけ出したのが冥王星なのです。

 

このトンボーは、天文学者ではありませんでしたので、自分の計算によって位置を予測するということをしませんでした。

ただひたすら、星空の写真を撮りまくり、星図上を動いている天体を探し続けたのです。

何か見つけたら軌道計算をし、惑星かどうか見極める、ということを一年間繰り返し、ついに発見したのは1930年のことでした。

 

ところで、冥王星の発見よりも130年ほど前の1801年、セレスという星が、新惑星として発見されています。

しかしその後、同じ軌道上から別の天体が次々と見つかります。

その結果、「セレスは、多数存在する小惑星の一つに過ぎない」ということとなり、惑星とは認められない存在となりました。

 

それに対して、冥王星の場合は、同じ軌道上に小惑星が見つからなかった為に、惑星として認めることとなった節があります。

軌道などから疑問視する声があったものの、「セレスとは違う」というのが一番の理由となったと思われます。

 

というわけで、「冥王星と同じ軌道上に他の天体が無い」というのが、冥王星の惑星たる理由となっていました。

しかし1992年、冥王星よりも外側に軌道を持つ小天体が見つかって以来、冥王星に似た軌道を持つ天体が次々と見つかってきます。

1999年には、冥王星を小惑星の一つとして数えるのが妥当なのではないか、という案も出ています。

しかし、小惑星としては冥王星は大きすぎる、というような理由により、結局どう扱えば適切なのか、という結論は出ませんでした。

 

それ以来、天文学的には「惑星とは考えられないが、小惑星とも言い切れない」という中途半端な見解が続くこととなります。

見つかった小惑星に、セレスを越える大きさのものが無かった、ということもあります。

 

しかし2000年、セレスに匹敵する大きさの小惑星が、冥王星の軌道付近で見つかります。

そして2002年にはセレスよりも大きいクワオアーが、2003年にはさらに大きいセドナが発見され、そして遂に2005年には、冥王星よりも大きい「小惑星」であるエリス(2003 UB313)が見つかってしまいます。

 

さて、ここで一度おさらいしてみます。

 

冥王星が惑星だった理由は、「セレスのような、同じ軌道に他の小惑星を持つものではない」であり、小惑星ではない理由としては、「小惑星としては大きすぎる」でした。

 

しかし、同じような軌道を持つ小惑星が見つかった上に、冥王星よりも大きい小惑星が登場してしまうと、冥王星を惑星扱いすることは、学術的に矛盾をはらんでしまうこととなるのです。

これが、先日の決議を必要とした直接的きっかけとなりました。

 

結果として冥王星、セレス、エリスの三つには、新呼称「dwarf planet(日本名未定)」が与えられ、惑星でも小惑星でもないものとして扱われることとなりました。

しかしまだ、小惑星とdwarf planetとの境目は、明確には決まっていません。

今後の定義づけ次第では、dwarf planetが増える可能性もあるでしょう。

現時点もすでに、あと12個の候補が挙がっていて、審査待ちの状態のようです。

 

今や、小惑星と一口に言っても様々なものが見つかっています。

衛星を持つ小惑星だっていくつもあります。

セドナのように、一周が10500年かかるような、広大な公転軌道(冥王星は248年)を持つものもあれば、馬蹄形の軌道(普通は楕円軌道)を持つものだってあります。

これらの分類は、今後の課題となるでしょう。

 

さて、冥王星の疑惑が本格的に登場したのは1999年。対して、惑星占いが流行したのはその後のことのはずです。

占いでいい加減なことを吹聴している連中は、要するにその程度の奴らってことですよ。

ギャハハハハ。

 

さあ、今日も占いを見て頑張ろう!

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ77 星占い(笑)(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2008.03号

 

冥王星くんのことを、覚えていますか?

 

2006年の夏ごろ、太陽系の惑星の定義が新たに決まり、冥王星は惑星から外れることが決定しました。

そのあたりの詳しいいきさつや定義の話は、私も当時、あすなろ60(2006.10)号に書いたものです。

 

さて、そういうわけで、その後どうなったのか、大変興味のある分野があります。

 

そう。

星占い(笑)です。

 

昔ながらの星占いは、例のおひつじ・おうし・ふたご......の十二星座のアレ(順番に全部言えますか?)ですよね。

そうやって、黄道十二宮をあてはめてやっているだけだったら良かったものを、ここ10年くらいは、いろいろと変な物がはびこっているようです。

 

例えば、へびつかい座が黄道にかかっているから、これが十三番目の星座だと言っている人達がいます。

 

アハハハハー。

チョー受ケルンデスケドー。

 

別に何を言い出しても結構ですが、高校生の頃に天文気象部の部長を一年半務めた優しい僕が、少し教えてあげます。

 

黄道十二宮というのは、太陽の通り道(黄道)に位置する星座を選び出した物です。

というよりも、黄道を十二に分割したのがそもそもの由来です。

もちろんこの十二という数字は、十二ヶ月から来ています。

これが、西洋占星術の「元ネタ」です。

私は個人的に、十二種類の動物があてはめられている十二支と同じようなものだろうと思っています。

 

これと似たような言葉に、黄道十二星座というものがあります。

これは1世紀のころ、プトレマイオスという科学者が書いた、天文学の専門書に提唱されたものです。

こちらは、本来は天体観測するための目安です。

夏の大三角や春の大曲線みたいなものです。

まずはこれだけ知っていれば、天球上のだいたいの配置を掴みやすい、という程度の物です。

 

ところで、地球から見える星は、星座で結ばれたもの以外にもたくさんあります。

結ばれていなくても、おひつじ座の中にある星は「おひつじ座の星」と表現できます。

しかし、おひつじ座とおうし座の中間にある星は、どういったらいいのでしょう。

 

天球上の全ての星を、どのあたりにあるかということを表現、定義するために、天文学では代表的な星座を88個指定し、その形に合わせて天空を区切っています。

これによって、地球から見える全ての天体が、必ずどこかの星座の領域に所属するようにしてあるわけです。

 

例えば、先ほどのおひつじ座とおうし座の間の星も、この線から右側だからおひつじ座の星、と定めることができるようになります。

 

こうして天球を区切っていった結果、さそり座のすぐ上の星は、へびつかい座の所属となりました。

さそり座に関しては、さらに言えば、さそりの腕の先端(はさみ)に見える部分は、両方ともてんびん座の領域に入っています。

しかしこれも、学術的な定義でありますので、そう割り切ることにしましょう。

 

という線をお空に引いていったら、へびつかい座の領域が下にはみ出て、黄道がその上を通るようになった、というだけのことです。

 

これは学術的な、あくまで便宜上の物ですから、占いとは一切関係ありません。

先に書いたとおり、そもそも十二星座と十二宮は別物ですし。

 

ゴジラという怪獣があります。

ご存じの通り、東宝の映画です。

1954年に、反核映画として登場しました。

ゴジラの語源は、ゴリラとクジラを合わせたものです。

それを外国で放映するとき、発音が日本語の「ゴジラ」に近くなるようにと、Godzillaというスペルが与えられました。

 

すると、それを見た西洋人で、すっかり感化されてしまった人達の中には、

「GodzillaにはGodが入っている。つまりこれは、神の使いを暗示しているのだ!」

などと真面目に言い出す輩が現れるわけです。(実話)

 

――へびつかい座を入れて「十三星座」とか言っている人は、天体観測をしている側から見れば、このゴジラの中に神が見える人と、ほぼ同じようなレベルです。

OK?

 

さて、長い前置きになりましたが、最近は惑星までもが、占いのネタとしてさんざんいじられているのはご存じの通り。

土星人とか火星人とか、何を言っているのかさっぱり意味がわかりません。

 

そういう中に、もちろん冥王星も入っております。

入っているのですが、それ自身が惑星という定義から外れてしまってさあ大変。

 

という混乱が起こった後、今はどうなっているのか、あちこちを覗いてみました。

 

......あったあった。

えーと?

 


それによる影響はほとんどないと思われます。その理由は以下のとおり。

 

1.冥王星がなくなるわけではない。(略)

 

2.冥王星の意味ははっきりしていなかった。

 

例えば、水星は仕事運に、金星は金銭運に、火星は恋愛運に影響を与えるといった、

大まかな意味が定まっているわけですが、冥王星についてはそれが定まっていません。

(略)

あえてあげるとすれば、「死後の世界」のことについてなど。(後略)


 

弁解に必死ですね。

別サイトでも、

 


占星学における冥王星の基本的な意味は、死と再生というものがあることから、

世間から消えてなくなるという意味での死という認識がなされたのではないかなど、

今回の定義のいきさつは、占星学上、いろいろ興味深い現象はおきているのは確かです。


 

「冥王(Pluto:冥府の王)」だから「死」ですかそうですかべんきょうになるなあ。

 

この星にその名前をあてたのは、たまたまだと思いますよ。

当初はクロノスとかミネルヴァとか、ギリシャ神話の他の神の名前が候補に挙がっていましたから。

 

Plutoを最初に提案したのは、イギリスの当時11歳の少女です。

世間的にも好評だったので、これに決定することにしました。

子供の提案を好意的に受け入れるという現象は、洋の東西を問わないようです。

さらに付け加えると、Plutoの略称PLは、冥王星の存在を予言した天文学者のイニシャルと同じになることも決定材料だったそうです。

 

というわけで、命名者は死とかなんとかは一切考えておりません。

当たり前ですけどね。

 

で?

占星学の?

冥王星の意味が何でしたっけ?(笑)

というか、そんなので占星「学」って、中世ならともかくこの時代に、ちょっと矜持が過ぎるって思いませんか?(婉曲表現)

 

そうそう。

 

星占いといえば、もっとすごいものも見つけてしまいました。

なんと、十二支に星座をあてているのです。

丑年がおうし座、巳年がへび座、辰年がりゅう座......というあたりまではいいとしても、

寅年がやまねこ座

未年がやぎ座

亥年がおおぐま座

子年がこぐま座

酉年がわし座

ってあんた。

 

極めつけは、申年がヘラクレス座......。

 

おい笑わすなコーヒーがこぼれる

 

だめですついていけませんごめんなさい

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ140 助数詞(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2013.06号

 

子供同士の会話を聞いていると、時に面白い発見をすることがあります。

 

例えばゲームの「レベル」の話。

 

ポケモンなどで、自分のレベルが今いくつなんて話を聞いていると、小学生の場合は、「レベル5」という言い方はしないんですよね。

「5レベ」なんですよ。

 

最初にこれを聞いたときは、言っている奴が単に間違っているだけかと思っていましたが、どうもそういう呼び方がすでに文化になっているようです。

 

ですが、こいつら何でこんな言い方するのかな~、なんて考えていたら、気づいたことがあります。

 

実は「5レベ」という呼び方は、日本語としては「レベル5」よりも、ある意味正しいのではないのか、と。

 

日本語では物を数える時、その単位を数字の後ろに付けます。

例えば、「一個、二個」「一本、二本」のように、です。

このノリで「レベル」を数えたら、「1レベル、2レベル」となりますわな。

 

小学生くらいの子供達の場合、直感的にこちらが日本語として自然であると判断しているのでしょう。

 

私の場合、大学生になってから初めてRPG(ドラクエ3・4とファイナルファンタジー3)を始めたのですが、「レベル5」の言い方でも、最初から何の違和感もなく受け入れていました。

大学生くらいになってしまうと、小学生のような「日本語に対する直感的なセンス」が、すでに失われていたのかもしれません。

 

念のため、それぞれのゲーム中で、レベルに関してどう表記されているのか確認してみました。

 

 

私が遊んでいた当時のドラクエでは、ゲーム中では「レベルが~」と出るだけで、

「レベル5」のような数字をつけた表記は無かったようです。

一方ポケモンでは、最初の「赤・緑」から「レベル5」の表記が見られます。

 

ということは、子供達は「レベル5」という文字を見ながらも、

「5レベ」という言葉を作ったことになります。

 

子供ってすごいと思いました。

 

日本語において、物を数えるときに後ろにつける「個」や「本」のことを、

助数詞(または数助詞)といいます。

「詞」という言葉がついていますが、ほとんどの文では文法的に単語扱いはされません。

「お父さん」の「さん」と同様に、接尾語(接尾辞)という扱いになっています。

 

助数詞が、ものすごく種類が多いことは皆さんもご存じの通りです。

イカは一杯、タンスは一棹(ひとさお)、畳は一畳、ウサギは一羽......

あたりまではクイズにもよく挙げられますが、

掛け軸は一幅、神様は一柱(ひとはしら)あたりになってくると、

雑学的知識力を少々試されるようになってきます。

 

さらに、幟(のぼり)は一流れ(ひとながれ)とか、真空管は一球(いっきゅう)とか、

海苔は一帖で10枚、半紙は一帖で20枚、美濃紙は一帖で48枚とか言われても、

もう知るかって感じです。

 

日本語の助数詞は300とも500とも言われていまして、現在も増え続けています。

コンピュータで使われる「1バイト」は、最近になって登場した助数詞の一例ですね。

 

助数詞という概念は、日本以外でも東アジア各国などにあります。

しかし、英語圏ではあまり一般的ではないようです。

2本の鉛筆なら「two pencils」で、直訳すると「2鉛筆」というような言い方です。

 

日本語の序数詞に近い表現としては、一応「a cup of tea(お茶1カップ)」

「a piece of paper(紙1切れ)」という言い方もありますが、使用範囲は限定的です。

 

ところで、先に挙げた「2鉛筆」では「数字+名称」の順ですが、

「レベル5(level 5)」では「名称+数字」という順序となっています。

これは何かというと、「個数」と「順序」の違いから来ています。

英語で「5レベル(five levels)」と言ってしまうと、

「レベルが5個」という意味になってしまうので、それと区別する為なのでしょう。

 

なお、「5番目のレベル」だったら、第5番目を表すfifthを使って

「fifth level」としても良さそうな気がしたのですが、これもよく考えたらダメですね。

というのも、英語で第一、第二、第三......と序数が進む時は、

大抵が上から下に進むイメージなのです。

ですから、第一レベル(first level)よりも第二レベル(second level)の方が、

価値が低い物に見えてしまいます。

これでは、「レベルアップ」にはなりません。

 

レベルの他にも「パート1」「クラス4」「バージョン3」「セクション2」など、

日本語化している「英語式助数詞」はあります。

もっと昔から使っている日本語でも、「問1」「図3」などの言い方がありますが、

これも元々は「Question 1」「Figure 3」を直訳しただけではないかと思われます。

 

このような、日本語と英語の語順を違いを考えていると、

別のジャンルでも同じような例を見つけました。

それは、「敬称」です。

 

日本語では「様」「ちゃん」から身分を表す「卿」「閣下」「校長」「中佐」まで、

全て名前の後に付ける接尾語として用いられますが、

英語ではミスター、ドクター、サー、ロードなど、

全てが接頭語として、名前の前に付けられます。

「マッカーサー元帥」は「General MacArthur」ですし、

チャールズ皇太子殿下なら「His Royal Highness,The Prince Charles」となります。

敬称の付け方は、フランス語やドイツ語などでも同様です。

 

このあたりは、例えばコロラド州を「state of Colorado」と呼んだり、

ペンシルベニア大学を「University of Pennsylvania」と呼ぶような、

「種別オブ地名」の語順に通じる物があります。

いずれも、修飾語を被修飾語の後に付け加えるという「英語式」の修飾方法で、

日本語には無い語順です。

 

以上の語順の違いは、述語と目的語が日本語と英語で逆転しているから?

とも思いましたが、漢語では述語+目的語の語順が「英語式」なのに、

修飾・被修飾の語順は「日本式」です。

非常に興味深いところですね。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ152 胡瓜とソグド人(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2014.06号

 

我が家には幼稚園児がいます。
この園児が通っている幼稚園は、週三回が弁当となっています。
なので私は週三回、弁当を作っています。
上の子二人の時は、別の幼稚園だったのですが、そちらは毎日弁当だったので、以前は毎朝弁当を作っていました。

 

とはいえ、初めての朝はもう、どうしましょう状態でしたよ。
弁当を作るのなんて、中学生の頃、母親が入院していた時に自分の弁当を一度だけ作ったこと以来でしたので。

 

幼稚園弁当初日の朝は、だいたい出来たところでカミサンが見に来て、
「おお、ちゃんと弁当になってる」
「うん。自分でもびっくり」
なんて会話があったことを覚えています。

 

さて、あれから十年。
あの頃の気合いはどこに行ってしまったのでしょう。
現在の我が家では朝になると、超テキトー弁当が生産されています。

 

幼稚園児の弁当なんて簡単なんですよね。
なんせ小さいので、おかずは三品もあれば十分です。
というか、それ以上入りません。

 

そしてその三つのうち、一つから二つは前の晩のおかずですから。
カミサン謹製のおかずを、弁当用にあらかじめ一皿ずつ取り分けてもらっておけば、もう一品から二品が完成しているという塩梅です。

 

あと残りのスペースは、卵焼き・プチトマト・塩漬けキュウリあたりからの選択方式となっております。
たまに冷凍シューマイが混ざることがあったり、弁当箱全面がオムライスになることもありますが、手間は全くかかっておりません。

 

オムライスったって、具は前夜の野菜炒めのみじん切りで十分です。
前の晩がカレーだったら、カレーライスを水気がなくなるまで炒めた「嘘っぱちドライカレー」を卵に包んじゃいます。

 

それはともかく、上の子二人の時には、ほぼ毎日が卵焼き+プチトマト+前の晩のおかずという組み合わせでした。
が、末っ子はトマトがあんまりは好きじゃないということなので、卵焼き+キュウリの組み合わせの確率が非常に高くなっております。

 

なんて言うと、幼稚園同級生のお母様には「え?キュウリ食べるの?」と驚かれることもありますが、ええ、うちの子はキュウリ好きですよ。

 

そんなわけで、キュウリさまには、日々大変お世話になっております。
今後ともよろしくお願いいたします。

 

と、ついキュウリのことは片仮名で書いてしまうのですが、本来は漢字の言葉ですね。
ご存じでしょうが「胡瓜」と書きます。

 

この字のうち、瓜はもちろんウリです。
では、「胡」が何のことかご存じでしょうか。

 

かつて、シルクロード貿易が盛んだった頃、そのルート上では様々な民族がその仲介をしていました。
その中でも、一時期はシルクロードを経済的に支配していた民族として、ソグド人という人々がいました。

 

ソグド人自体は、古くは紀元前5世紀頃から記録があるようです。
かつては中央アジアのタジキスタンあたりで農業と商業をして暮らしていたようですが、紀元前1世紀ごろにシルクロードが漢に通じるようになると、漢と西アジアとの中間貿易を支配するようになります。
そして、この頃から唐代の頃まで、ソグド人のいる地域は「西胡」、ソグド人は「胡人」と呼ばれるようになります。

 

……というような「胡人」の話を、私は高校の頃、世界史の授業中に知ったんですよ。

 

でも、現在の高校生の世界史の教科書を見ても、「ソグド人」は出てきても、「胡人」という言葉は出てこないんですよね。
昔と違って無くなっちゃったのかなあ、と思ったのですが、高校の授業で聞いたあの話は、もしかしたら社会の先生がアドリブでしゃべっただけの単なる余談だったのかもしれません。

 

ともかく、キュウリはこの頃、「胡」から唐に伝わった瓜ということで、「胡瓜」と呼ばれ始めたようです。
これは、日本で言うところのサツマイモ(薩摩地方から来た芋)やジャガイモ(ジャガタラ=現在のジャカルタから来た芋)みたいなものですね。

 

胡という字がつく言葉としては、他に「胡麻(ごま)」、「胡椒(こしょう)」、「胡弓(こきゅう)」、「胡桃(くるみ)」、さらには「胡座(あぐら)」、ちょっとマイナーですが「胡粉(ごふん)」などがあります。
ウィキペディアを見ると、「胡散臭い(うさんくさい)」なんて言葉まで投稿されています。

 

ただ、これらがすべて胡人(ソグド人)と関係があるというわけではないようです。
が、少なくとも、胡麻、胡椒、胡桃、胡粉は、胡人由来のものとされています。
ここで、胡粉とはおしろいの一種です。

 

胡弓は、バイオリンのように弾く日本の伝統楽器です。
明治の頃は、バイオリンそのものも胡弓と呼ばれることがありました。
ただし伝統とはいっても、胡弓という言葉が登場するのは、江戸時代の頃からのようです。
胡弓の原型である胡琴(こきん)の胡は、胡人由来のものらしいので、
「胡弓の胡は胡琴から来た言葉で、胡人と直接は関係ない」
というややこしいことになっています。

 

なお、江戸時代には、胡弓は三味線、琴と共に、「三曲」と呼ばれる弦楽器三重奏として演奏されていたようです。

 

しかし「胡散臭い」の胡は、胡人とは全く関係ないようです。
「胡散」は元々は「胡乱(うろん)」と言われていて、胡も乱も共に「乱れる」を表す語で、「乱れたさま」「あやしげなさま」という意味から来ています。

 

胡座の場合、古事記では「阿具良」と書かれていることから、「あぐら」という語は、元々日本にあった言葉のようです。
これは、古代の貴族の座る高い台の呼称から来ているとのことです。
後に、胡座という字がなぜ充てられるようになったのかは、調べた限りではわかりませんでした。
胡乱同様「乱れる」という意味から来ているのかもしれません。

 

さて、胡人=ソグド人はこの頃、独自の文化、言葉、文字を持っていたのですが、国家という形にはなっていませんでした。
軍事的政治的には他民族の支配下でも、商業的ネットワークには長けた民族だったようです。

 

そしてその後も国家を建てないまま、中央アジアの各地に散らばっていきます。
各地に文化的影響を与えながらも、最後は現在のトルキスタン(○○スタンが集まっている地域)やウイグルに溶け込んでいったようです。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ151 自衛隊最新装備(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2014.05号

 

日本という国は、本当にハイテクな国です。

日本にあるものが外国にはない、というわけではありませんが、日本では当たり前の品質が、他の国では最高級品にあたる、ということはよくあります。

 

例えば、紙。

 

外国の文庫本を見るとわかるのですが、ザラザラの、わら半紙というか、少年ジャンプみたいな紙でできています。

ティッシュペーパーも、日本製のようには柔らかくありません。

イギリスあたりで日本のポケットティッシュを見せて、「駅前で無料で配られてる」とか言うと、「こんな薄くてソフトな紙が!」と大騒ぎになるらしいです。

 

そんなハイテクなものの一つに、軍事技術があります。

 

一般的に、世界最強の軍を持っているのはアメリカといわれています。

軍の規模もそうですが、個々の兵器もそれぞれ最強クラスが揃っています。

 

有名どころで言うと、いわゆるステルス戦闘機というものがそうですよね。

 

ステルスとは、レーダーに映らない技術のことです。

いや、厳密には映るのですが、飛行機が鳥や虫くらいの大きさにしか映らなくなる、というような技術です。

 

現在の飛行機同士の戦闘では、レーダーによって相手を認識して交戦するので、レーダーに映らないというのは相手から見えないということで、いわば透明状態と同じです。

この技術を使った戦闘機で実用化されているのは、現時点では米軍の「F22ラプター」だけです。

 

ラプターは冷戦下に開発が行われて、93年に試験機が完成、2003年から運用が開始されました。

それを受けて、各国でも同様のステルス性能を持つ戦闘機の開発が行われているのですが、未だに実用に耐えられるものは完成していないようです。

 

ただ、実はアメリカでも、ラプターが高すぎるということで、もうやめようかという話が度々出ています。

代わりに、より低コストで実用的なステルス機「F35」を開発中なのですが、こちらはいつまでたっても完成する様子がありません。

 

一方、日本では、研究という名目のもと、「先進技術実証機」という名称で試作機を作っています。

2005年、その試作品のステルステストをフランスで行った結果、予想以上に良好な結果が出たのだとか。

その機体に日本のステルス塗装をすれば、ラプターに匹敵するステルス性能を発揮するだろう、とか。

 

いやあ、日本の技術の高さにも困ったものですね(笑)

 

 

このステルス機は、2012年から三菱で試作機の組み立てが始まっています。

そしてこの4月10日、小野寺防衛大臣は、今年2014年中の初飛行を明言しました。

この研究は2016年に終了の予定だそうです。

 

一方、飛行機を感知するレーダーの方ですが、こちらは現状でも、米軍ご自慢のラプターくんを、ばっちり監視できるようです。

日本としては、その研究をさらに進めていきたいようで、ステルス実験機を作る目的は、新型レーダー開発のためとも言われています。

 

レーダーといえば、潜水艦を見つける技術も、日本はトップクラスです。

 

現在、空から潜水艦を見つけられる哨戒機はアメリカ、ロシア、日本だけが持っているのですが、そのうち対潜哨戒機として専用設計されたものは、日本のP1だけです。

動力性能・航続距離はP1が一番です。

 

ちなみに、日本は周辺海域の海底にセンサーケーブルを張り巡らせていて、どこにどんな船がいるか、全部監視できています。

 

潜水艦自体も、日本のものは世界トップクラスです。

潜水艦自身が持っているソナー(音波探知機)も、性能は突出しています。

海上自衛隊の潜水艦乗組員いわく

 


中国原潜はチンドン屋です。

ロシア、米原潜も結構賑やかですが比較になりません。

爆竹を鳴らしながらという感じでソナーなど聞いていられません


 

......だそうで。

 

ここから、中国やロシア、アメリカのソナーの性能が低いということがよくわかります。

いや、日本のが高性能過ぎるのか?

ごめんね高性能で(笑)

 

戦車の話に行きます。

 

最新の10式戦車は、軍事オタクの間ではヘンタイと言われています。

 

第二次世界大戦まで、戦車というものは

 

「走って、停まって、狙いを定めて、撃つ」

 

という兵器でした。

走っている間は、砲身がぐらんぐらん揺れて、とても撃てる状態ではなかったからです。

 

現在、世界の戦車は走行中の射撃が可能なほどにはなっています。

しかし90年に制式化した自衛隊の90式戦車では、走行中の射撃の命中率が、

「ほぼ100%」

です。

 

90式は目標をロックオンすると、戦車がどの向きに動いても砲身は狙いを定めたまま自動調整されるのです。

また、発射ボタンを押しても、その瞬間に砲身が目標から外れていると、発射されません。

目標に合った瞬間に自動発射されます。

 

ちなみに、アメリカとの合同演習では、走行中の射撃では日本の90式が全弾命中に対して、世界最強といわれる米軍戦車は、ほとんど目標に当たらなかったそうです。

 

ここまでが、一つ前の世代の戦車の話。

まあ、この時点ですでに最強なのですが(笑)

 

最新式の10式戦車は、この90式を上回る姿勢制御システムと、世界最速の動力性能を持っています。

90式では不可能だった射撃も可能になった上、目標に対して複数の車両でデータを共有できるために、見えない敵までロックオンできます。

目標が複数の時は、

「この敵は1号車と3号車、この敵は2号車」

というように、自分の位置と相手の位置から自動で目標を割り振ることもできます。

 

 

その上、機械は壊れない、兵士の技術は抜群、というのが、日本の自衛隊です。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ148 静電気(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2014.02号

 

中学生向け英作文の問題で、
「あなたの好きな季節を、その理由もつけていいなさい」
なんてのが時々あります。

 

普通は、好きな季節よりも、嫌いな季節の方が理由がつけやすいと思うのですが、嫌いな季節を答える問題には、多分これまでに出会った記憶がありません。
嫌いだという文では、イイコチャン作文(※)にならないからでしょうか。

 


※イイコチャン作文

 

小学校の作文は、
「思ったことをかけばいいのよ」
「自由に書いていいんだよ」
と言われる割には、
『遠足はつまらなかったです。あと、鈴木君はバカです』
とか
『クリーンセンターのおじさんが説明しているとき、遠くでエゾゼミが鳴いていました。

でもせっかくのエゾゼミなのに、おじさんの声がうるさくてよく聞こえませんでした』
とか書くと、訂正を求められます。
結局、そうやってできあがった作文や感想文は、みんなイイコチャンを装った画一な文章となってしまうので、そういうものを私はイイコチャン作文と呼んでいます。


 

てなわけで、嫌いな季節の話ですが、私が嫌いな季節は冬です。

 

理由としては、寒いからってのもありますが、そんなんだったら夏だって暑いから同じです。
それよりも、主に冬にしか起こらない現象で、嫌いなことがあるのですよ。

 

それは、静電気です。

 

というわけで、もし英作文で嫌いな季節を書けといわれたら、私なら冬ですと書くでしょう。
ただ、理由まで英語で書けって言われても、静電気って英語でなんて言うんだろ?
えーっと?
static electricityですか。
へー。

 

一ヶ月先には忘れているだろうなあ。

 

そんなわけで、静電気のお話です。

 

静電気のことは、中学二年の理科で習います。
その時は、
「静電気とは、電気を通さない二種類の物質を摩擦させたときの起きる電気のこと」
「静電気には+と-の二種類があって云々」
なんて習い方をします。
そして、電気を帯びた物同士が引き合ったり反発したりする実験をするわけですが、こんな風に、電気が起きても、その場に溜まったままの状態になるのが静電気です。

 

引き合ったり反発したり、という現象は、ちょうど磁石のN極とS極の関係に似ています。
これ、たまたま似ているというわけではなくて、実は本質的には同じ種類の現象なのです。
学問としては、電磁気学という世界のお話となるわけですが、これ以上の詳しい話はいたしません。
いたしません。
だってスカラーポテンシャルとかベクトルポテンシャルとか、ちょっと読んだくらいではちゃんとは理解できないんですよ。

 

さて、物が電気を帯びることを、帯電といいますが、ではなぜ、電気を通さない物質(=絶縁体)同士を摩擦させると帯電するのか?

 

......えーと、電子が片方から片方に飛ぶからなんですが、なんで飛んじゃうのかは、よくわかりません。
いや本当にわからないらしいんですよ。
とにかく飛ぶのです。

 

似たようなものとしては、やはり中学の理科で習うイオン(※)というものがあります。
水溶液中で+と-の電荷を帯びた粒が泳いでいる話なのですが、あれと同じようなものだと考えてもらっても結構です。

 

※イオンは少し前まで高校で初めて習っていました。
※マイナスイオンという物は、単なるエセ科学ですので騙されないように。
とは言っても、最近はウソがばれてきたからか、あまり見かけなくなってきました。

 

で、そこまでなら下敷きに髪の毛がくっつくとか、発泡スチロールのクズが手にくっつくといった程度で終わるのですが、困るのが放電ですよね。

 

帯電によって、物質同士の電位差が大きくなってくると、物質同士が接触する前に、電気はジャンプして相手に飛び移ろうとします。
これが放電で、火花が飛ぶ痛いアレです。

 

放電の巨大なやつが雷です。
あれは、積乱雲の中を、霰(あられ)がグルグル対流してぶつかり合っているうちに摩擦で静電気が起こるから、と言われています。
その静電気が限界まで溜まると、地球に向かって放電するわけです。
セーターの静電気と、基本は全く同じです。
規模は全然違いますが。

 

余談ですが、平賀源内のエレキテルも、摩擦で発生させた静電気だとのことです。

 

そんなわけで摩擦によって電気が起きるわけですが、こする物によって、電気が起きやすい場合と起きにくい場合があります。
というよりも、物質によって、プラスになりやすかったりマイナスになりやすかったりする性質が決まっています。

 

そのなりやすさの一覧を、帯電列といいます。
この列で離れているほど、こすったときに静電気が起きやすい組み合わせとなります。

 

以下、その順列を示します。

 


↑正(+)に帯電しやすい

 

空気
人間の皮膚
皮革
ウサギの毛皮
ガラス
石英
雲母
人間の毛髪
ナイロン
ウール

猫の毛皮

アルミニウム
紙 (弱い正電荷)
木綿 (電荷なし)
鋼 (電荷なし)
木材 (弱い負電荷)
ルーサイト(デュポンのアクリル樹脂)
琥珀
封蠟
アクリル
ポリスチレン
ゴム風船
天然樹脂
硬質ゴム
ニッケル、銅
硫黄
黄銅、銀
金、白金
酢酸塩、レーヨン
合成ゴム
ポリエステル
スチレン (発泡スチロール)
アクリル繊維
ラップ
ポリウレタン
ポリエチレン(セロハンテープなど)
ポリプロピレン
ビニール(ポリ塩化ビニル (PVC))
ケイ素
テフロン
シリコーンゴム
エボナイト

 

↓負(-)に帯電しやすい


 

要するに、着る物に気を付ければいいのです。
人間の皮膚や毛髪に近いナイロンや毛のセーターならいいのですが、アクリルを買ってしまったりすると、脱ぐときにバチバチするわけです。
ただ、アクリルのセーターを着ていても、それ以外の服がポリエステルなら、脱ぐとき以外には静電気は起きません。

 

最悪なのは、ポリエステルのワイシャツとナイロン+毛のスーツの組み合わせでしょう。
要するに昔の私です。
もしくは、毛のセーターとアクリルセーターの重ね着なんてのもダメでしょうね。
要するに今の私です。

 

いや、この、服の組み合わせでダメってのはずっと知っていたのですが、何と何が良くてダメなのかを、すぐ忘れちゃうんですよ。
なので今の季節、もうバッチバチですよ。
何も考えずにクルマから降りて車体を触ると、必ずアレが来ます。

 

ですから、クルマから降 りるときにはボディの鉄の部分を触りながら降りるとか、地面に触れてから降りるとかしています。
これは、いわゆるアースというやつで、地球に放電している わけです。
他にも、腕あたりで服越しに触ることで、放電の威力を減らすワザもあります。
こういう余計な苦労をしながら、春を待つ日々を送っているわけです。

 

ところで、インターネットを漁っていたら、またくだらない用語を見つけました。

 

「静電気体質(笑)」

 

そしてその原因は、ドロドロ血液(笑)

 

ドロドロって粘性が高いって意味?
つまりゲル化?
血液中にゲル化の要因となるような物って血糖くらいだけど。
つまりドロドロ血液って糖尿病か。

 

......バカジャネーノ?

 

まさに、エセ科学の種は尽きまじ、です。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ139 植物の系統分類(過去記事再掲)

あすなろ

 

 

 

2013.05号

 

学校の教科書の内容は、最新の学説に比べると古い、なんて話はよく聞きます。
しかし、だからといって、教科書の内容を否定するのは、私はあまり好きではありません。
教科書の内容は、あくまで基礎知識であって、一般常識である、と解釈していますので。

 

もちろん、あんまり大幅に内容がおかしいとわかってきた場合は、
やっぱり修正が必要だとも思います。

 

(典型例は、隣国のプロパガンダをそのまま載せている南京大虐殺です。
「証拠」は全て捏造と証明されて、完全に嘘だと論破されているにもかかわらず、未だに教科書に載っています)

 

ですが、鎌倉幕府の成立の年が10年ずれたとか、その程度のことは、別に教科書を直すまでもないことだと思います。
私は最近テレビを全く見ないのですが、どうもそういうことを喜んで放映している番組もあるようですね。

 

そういう所に登場する「専門家」は、さもその「学説」が正しいように言うでしょうし、それが最近の学会では常識とか主流とか言うんでしょ、どうせ。
しかし、本当にそうなのでしょうかねえ。
実はその人は、変なことを一人で唱えているだけで、学会からは「またお前か......」と思われている有名人でした、なんて可能性もありますよね。

 

まあ、そこまで極端な話じゃないとしても。

 

そもそも学会というところは、新しく思いついた自説を主張する場です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
ですから、「学会で云々」という言葉に対して、必要以上に権威を感じることはないと思います。

 

例えばある学会では、いつもXという学説を主張するA教授と、その説を否定するB教授がいて、毎回毎回その二人が口角泡を飛ばすのが名物になっている、なんて場合もあります。
二人ともその世界では重鎮の学者ですから、どちらもテレビに呼ばれることがあります。
そうすると、そのどちらが呼ばれるかによって、「最新の学説」が全く違った内容になるわけですよね。

 

つまり、その程度のことなのです。

 


言語学会の大野晋さん(故人)と風間喜代三さんが、ちょうどこんな感じでした。
大野さんの日本語タミル起源説がこれですね。
珍説扱いされていましたが、私は結構好きですよ。


 

それでもやはり、新説に対して「やっぱりこちらの方が正しいのではないのか?」
という同意が増えてくれば、教科書を置いてきぼりにしたまま、「常識」が変わってくることがあります。

 

私の知っている範囲では、最近一番大きく変化したのが、動植物の系統分類の分野です。
系統分類というのは、「何が何から進化したのか」という、流れを念頭に置いた分類方法のことです。

 

系統分類という学問が興った当初は、形や生活様式などの特徴から、どの種類がどれと近い仲間という判断をしていました。
そのうちに、化石というものがわかるようになってからは、絶滅種のことも考えながら分類するようになってきました。

 

そして近年は、それにDNA解析(ゲノム解析)や蛋白質(たんぱくしつ)解析などの、分子生物学的アプローチが加わるようになってきています。
それによって、次第に色々と面白いことがわかってきているようです。

 

有名どころでは、クジラの系統的な位置です。
クジラは何の仲間といえるのでしょう。

 

まずは基礎知識から。

 

哺乳類は、かつては齧歯目(げっしもく)、食肉目、偶蹄目(ぐうていもく)、奇蹄目(きていもく)、などなど、というような分類でした。
齧歯目とはネズミの仲間、食肉目は肉食のイヌ・ネコ・クマの仲間、偶蹄目は足の指が偶数となっているウシの仲間、奇蹄目は足の指が奇数であるシカの仲間です。

 

さて、クジラにはもちろん、齧歯目のような前歯もありません。
食肉目のようなカギ爪もありません。
そしてウシの仲間もシカの仲間も、基本は草食動物ですが、クジラは完全な肉食です。
そんなことから、クジラは完全に独立した「鯨目(くじらもく)」という仲間に分類されていました。

 

しかしDNA解析を進めていくうちに、クジラはなんと、かなりカバに近いということがわかってきました。
そして、そんな風に言われちゃうと、「よく見りゃこことここがカバっぽいわ」ということが、次第に見えてくるわけです。
結局現在では、偶蹄目と鯨目は合併して、「鯨偶蹄目(くじらぐうていもく)」なんて名前に変わって呼ばれています。

 

というような分類の見直し整理が、今まさに、あちこちの生物で起こっています。
私の好きな昆虫の世界でも、かつては昆虫の一部だった分類群が、「こいつら脚が六本だけど、やっぱ昆虫じゃないわ」となって、いくつも昆虫から除外されちゃっています。

 

そしてそれが植物の世界では、もっと深刻な話になってきています。

 

小中学校の教科書では、被子植物は双子葉類と単子葉類に分かれて、双子葉類は合弁花と離弁花に分かれている、となっています。
これは、入試にも思いっきり出る内容です。

 

合弁花......花びらがくっついてる連中
離弁花......花びらが分かれている連中

 

しかし、DNA解析が進んでくると、この分類法は怪しいということになってきました。
それどころか、被子植物のグループ分け自体、一部修正では済まされなくなってきて、「分類を一からやりなおし」状態という、とんでもないことになっています。

 

私なんて、最初から植物はさっぱりですから、今回は私がわかる話だけ書きます。

 

双子葉類は、どうやら基本が離弁花である、ということになってきているようです。
そして、そのうちの一部が、進化していくうちに合弁花を咲かせるようになった、という流れなのだそうです。

 

双子葉/単子葉の分け方についても、「被子植物は、まず双子葉と単子葉にわかれていて、」という話ではなくて、被子植物の基本は双子葉類なのだということです。
そしてその一部が、進化の過程で単子葉類となった、ということみたいですね。

 


もうちょっと詳しい続編もあります。
あすなろ193 ゲノム解析と分類学


 

ただし、この分け方は、あくまで系統分類学上のものです。
ですから「教科書は間違っている!」などというつもりはありません。

 

教科書は、

 


どうぶつを、ふたつにわけました。
とべるなかまは、すずめ、こうもり、ちょうちょ。
とべないなかまは、だちょう、うし、ありんこ。


 

という分け方だと思えばいいわけです。
こういった分け方は、分類学的には多系統群と言います。
これはこれでアリなのです。
はい、ぼくは認めますよ。

 

でも、このもやもやした気持ちはなんだろうか......

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義