2018年4月

あすなろ147 アンパンマン(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2014.01号

 

平成25年も、すっかり暮れてきました。

 

私が一年間、娘に着せる服のことばかりを考えているうちに、世間様ではいろいろなことがあったようです。

 

その中で、ヲタクな私的に最も大きかったニュースは、やなせたかし氏の訃報でした。

94歳の大往生でした。

 

やなせたかし(以下敬称略)は、ご存じのとおりアンパンマンの作者です。

漫画好きな私にとっては、日本漫画協会の理事長・会長という一面もありました。

また、昔は高島屋の冊子(?)に載っていた「リトル・ボオ」というマンガを目にしていたので、名前だけは子供の頃から知っていました。

 

やなせたかしの人生やアンパンマンが生まれたエピソードに関しては、各方面へのインタビューに語り尽くされていますが、それでも改めて紹介してみたいと思います。

 

最初にアンパンマンが登場したのは1969年のことで、「十二の真珠」という短編集の中の一話でした。

 

これは、妙な格好のおじさんが、戦時下の空を飛んで、飢えた子供にアンパンを届けるという話でした。

しかし、大人からも、アンパンを受け取った子供からも、努力は全く認められず、最後は高射砲に撃たれて終わり、という救われない結末でした。

 

 

同じ頃に書いた「チリンのすず」という話もあるのですが、こちらは、オオカミに復讐するために化け物になったヒツジが、ついに復讐を果たすもののもう仲間の所には戻れずにどこかへと去っていく、というものです。

 

その少し前、やなせが書いた「やさしいライオン」は、犬に育てて貰ったライオンが、年老いたその犬を看取りに帰ったところで、人間に撃たれて終わる話でした。

 

どうもこの人は、こういった話を書く人だったようです。

 

やなせは終戦まで中国大陸で兵役を務めていました。

その後終戦によって正義が逆転する様子を見ているので、「本当の正義とは?」という自問があったようです。

同時に、前線では無かったにせよ、戦地に赴いていたためか、今の日本人とは死生観が違っていたのかもしれません。

 

死生観が違うと言えば、「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるの場合は、こんなもんじゃないです。

水木は最前線で敵の攻撃に仲間がバタバタ死ぬのを見ていて、自分も左腕を失ってからは単独で現地人の襲撃から逃げ回ってきたという経験を持っていますので、彼の漫画では実にあっさりと人が死にます。

なお、彼のいた部隊は、その後玉砕しています。

 

初代アンパンマンから2年後、「何でも屋だった」やなせは、フレーベル館から幼稚園向け絵本の執筆を依頼されます。

しかし、

 


その頃の幼児絵本というのは、「くまちゃん でてきて ころころ」とかですね、「ぶらんこ ぶらぶら うれしいな」みたいなやつなんですよ。

こんなものは描けねえ。


 

とやなせ本人が語るとおり、幼児向けの絵本なのに、小学生以上向けのつもりで話を作ってしまいます。

 

これが、二代目アンパンマンでした。

 

それでも一応、子供向けということで、頭をアンパンにして、最後はまた元気よく飛んでいくというラストに仕立てています。

が、

 

 

頭のアンパンを飢えた人に与えていく度に、自分は減っていってしまいます。

しかも、

 

 

最初の登場シーンから、マントは既にボロボロです。

上記「くまちゃん」の世界からは、かけ離れているということがわかります。

 

この本のあとがきに、やなせ自身は、

 


子どもたちとおんなじに、ボクもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということ

です。

ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。

(後略)


 

と書いています。

これが、現在まで続くアンパンマン精神の始まりでした。

 

しかしこれを発表した当初、幼稚園や評論家からはクレームが大量に来て、出版社からも「もうあんなものは描かないでください」と言われたそうです。

まあ、そうですよね。

汚い格好した人が自分を食べさせて、顔半分とか顔無しとかの状態で飛んでいくわけですから。

大人視点では残酷モノです。

 

しかし、実際には園児に大ヒットしてしまいます。

いつも貸し出し中となってしまうほどの人気になってしまったために、もっと頭身を幼児向けのルックスに直した続編「それいけ!アンパンマン」シリーズを描き始めることになります。

そうやって、絵本が本格的に売れ始めたのが1980年頃。

その頃、やなせは既に60歳を超えていました。

 

88年にアニメ化したときも、最初は売れない時間帯で開始イベントもスポンサーも無く、しかも関東限定でした。

しかしすぐに人気番組になって全国放送が始まり、現在に至ります。

実に遅咲きの人生でした。

 

ところで、やなせの功績は色々と言われていますが、私が個人的に考える一番の功績は、

「幼児グッズからディズニーを駆逐したこと」

だと思っています。

 

アニメのアンパンマン登場以前は、幼児向けキャラというものが、国産では基本的にはありませんでした。

比較的近いドラえもんは、せいぜい小学校低学年までです。

もっと下の未就学児向け、特に三歳以下向けの服では、名のあるキャラといえば「くまプー」がほぼ唯一だったのです。

ミッフィーなどの他の外国勢キャラも確かにありましたが、ほぼ「くまプー」席巻状態でした。

 

それが今や、赤ちゃん服やスタイも、「文字を学ぼう」レベルの本も、ゲームコーナーの幼児用筐体も、アンパンマン一色です。

 

日本のキャラクター界における、最後の外国勢を倒したヒーローがアンパンマンではないか。

私は、そんな解釈をしています。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ178 蟲のこゑ(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2016.08号

 

今年も7月になった頃から、ニイニイゼミが鳴き始めました。

そろそろそんな季節です。

 

セミの声は、おおよそ今がシーズン開始となるわけですが、キリギリスコオロギ類においては、すでに春先からシーズン入りしています。

が、ここであんまり細かい話をしても誰もついてこないと思いますので、もっと基礎知識のお話をします。

 

唱歌「虫のこえ」はご存じかと思います。

いわゆる秋の虫の声は、この歌によって知った方も多いと思います。

というか、ほとんどの方がこれで覚えたのではないかと思っていますので、これに沿って話をしていきます。

 

とりあえず、歌詞の確認です。

 


蟲のこゑ

一、

あれ松蟲が鳴いてゐる。

ちんちろちんちろ ちんちろりん。

あれ鈴蟲も鳴きだした。

りんりんりんりん りいんりん。

あきの夜長を鳴き通す

あヽおもしろい蟲のこゑ。

二、

きりきりきりきり きりぎりす。

がちやがちやがちやがちや くつわ蟲。

あとから馬おひおひついて

ちよんちよんちよんちよん すいつちよん。

秋の夜長を鳴き通す

あヽおもしろい蟲のこゑ。


 

初出は1910年です。

この歌詞で「きりぎりす」だった部分は、1932年には「こほろぎや」に改められています。

 

さて、ここに色々な虫の名前が登場したのですが、それぞれの姿を想像できますか?

 

最初に登場する「松蟲」ことマツムシは、こんな昆虫です。

 

 

鳴き声は「ちんちろりん」とありまして、図鑑でも大抵はそうなっていますが、実際に聞くと「ピッピリリッ」というような声です。

音が鋭いために、ちょっと電子音っぽい感じがするかもしれません。

筑波周辺でも鳴き声は確認しましたが、草深い所にいますので、姿を見る機会は滅多にないかもしれません。

 

次の「鈴蟲」ことスズムシは有名ですね。

時には生体が店頭販売もされています。

 

 

鳴き声は「りいんりん」は、図鑑でも「リーン リーン」となっています。

実際に飼うとそんな声で鳴くのですが、野外では「リリリリリ リリリリリ」と鳴いていることの方が多いと思います。

これは「呼び鳴き」というもので、単独ではこちらが普通の鳴き方です。

対して前者の「口説き鳴き」は、メスが近くにいるときだけ使われます。

飼育下では、オスもメスも高密度でいますので、口説き鳴きばかりになってしまっているだけです。

 

次の「きりぎりす」改め「こほろぎ」は、一度は見たことはあると思います。

 

 

コオロギの種類はかなりありますので、今回は代表としてエンマコオロギを上げてみました。

よく見かける中では一番大きい種類です。

これの鳴き方は、図鑑上で「コロコロリー」と聞きなされています。

実音では、「コロコロ」の部分が、歌詞のように「きりきり」に聞こえなくもないです。

他に、よく耳にするツヅレサセコオロギやハラオカメコオロギあたりだとしても、「リーリー」や「リッリッリッ」が「きりきり」と聞けなくもないですから、「こほろぎ」の鳴き声としては、おおよそ間違っていないでしょう。

 

次は「くつわ蟲」ことクツワムシです。

 

歌の通り、鳴き声はガチャガチャです。

シャカシャカともシャキシャキとも聞こえます。

もしかしたらモーターのような機械音っぽく聞こえるかもしれません。

音量はかなり大きめですので、一度でも聞けばすぐにわかります。

雑木林の周辺などの深い草むらあたりでよく聞かれます。

 

「馬おひ」ことウマオイは、別名がスイッチョンと言われる通り、「スイーッチョ」または「シーッチョ」を涼やかに繰り返して鳴き続けます。

これも深い草むらにいます。

 

クツワムシとウマオイは、キリギリスの仲間です。

先に紹介した三種はコオロギの仲間で、翅(はね)を立てて鳴くのですが、この二種は鳴くときも翅は立てません。

 

 

一方、歌詞の中では途中で消えてしまったキリギリスは、「ギイーーッ ・・・ チョン」と鳴きます。

 

 

さて、歌詞が「きりぎりす」から「こほろぎ」に改められた理由は、

「昔はキリギリスとコオロギの呼び名は逆だったから」

「キリキリという鳴き声は今で言うところのコオロギだから」

と書いてあるのを見かけます。

 

しかしこの、昔は昔はという昔って、果たしていつごろのことなのか、ちょっと怪しいんですよね。

確かに平安時代はそうでした。

スズムシとマツムシの呼び名も逆でした。

カネタタキの鳴き声はミノムシの鳴き声だと思われていました。

しかし、明治も明けた1910年当時も平安時代と同じ呼び方だった……? なんていう話は、素直に信じられないんですよ。

 

このあたりは、機会がありましたら、当時の図鑑などを調べて確認してみようと思います。

まあ、そのうちに。

 

あと、さらに邪推すれば、作者はキリギリスの鳴き声を知らなくて、

「キリギリスだからキリキリなんじゃね?」

なんて考えた可能性もゼロではありません。

こちらは作者の名誉のために、そうじゃないと信じることにしますが。

 

ただ私としては、さらに全く別の理由で変えたのではないか、と思ってもいます。

それは、キリギリスは「あーきのよながをなきとお」さない、真夏の昼間に鳴く虫だからです。

夜に鳴くこともあるそうですが、普通は暗くなったら静まりますし、10月になったら既にいなくなっています。

夏の日差しの中、セミの声をバックに鳴くような虫なのです。

 

しかし、子供向けの本では「秋の虫」にキリギリスが入っていることがあります。

時折あります。

……いや、時折どころじゃないですね。

結構よくあります。

 

でも残念ですがハズレでーす。

でーす。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

 

あすなろ166 虫の声の聞こえ方?(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2015.08号

 

最近聞いた話。

 

虫の鳴き声を聞くとき、日本人はそれを「言語」として聞くが、西洋人は「雑音」としか聞かないし聞こえない、とかなんとか。

それは脳の働きが違うとか。

 

んん~~?

脳だとお?

ホントかそれ??

 

どうも私は、そういう

「科学っぽい用語の入ったもっともらしい話」

からは、エセ科学臭さを感じてしまうのです。

 

まずは、原文に近いと思われる物を一部引用してみます。

(何カ所か中略しています)

 


東京医科歯科大学の角田忠信教授がキューバで開かれた国際学会に参加した時の事である。

教授は会場を覆う激しい「虫の音」に気をとられていた。

なるほど暑い国だな、と感心して、周囲の人に何という虫かと尋ねてみたが、だれも何も聞こえないという。

ようやくパーティが終わって、キューバ人の若い男女二人と帰途についたが、静かな夜道には、さきほどよりももっと激しく虫の音が聞こえる。

教授が何度も虫の鳴く草むらを指して示しても、二人は立ち止まって真剣に聴き入るのだが、何も聞こえないようだ。

3日目になってようやく男性は虫の音に気づくようになった。

しかし、それ以上の感心は示さなかった。

女性の方は、ついに一週間しても分からないままで終わった。


 

ここまでの話に限れば、私なりには一応納得いく話ではあります。

 

確かに平均的西洋人は、日本人のようには虫の声に興味を持ちません。

というよりそもそも、害虫以外に興味がありません。

そのため、例えば明治期に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本では虫が売られていて、人々は虫の音を楽しむという行為を、日本独特の文化として紹介しています。

 

注:

小泉八雲は、明治期に日本で見聞きした文化を英文で書いたイギリス人です。

日本人女性と結婚して日本に帰化しました。

代表作に「怪談」など。

 

西洋人が伝統的に虫に対して興味が浅い証拠としては、虫を表す語が単調であることからも推測できます。

 

日本語の虫の名前には、○○ムシになるものと○○ムシにならないものがあります。

例えば前者はカブトムシ、カメムシ、スズムシなどで、後者はハチ、ハエ、トンボなどです。

英語の場合は、このムシにあたる言葉がバグbug=歩く虫、ワームworm=いも虫、フライfly=飛ぶ虫あたりなのですが、虫の名前を英訳すると、日本語よりも明らかに、○○バグか○○フライになる場合が多いです。

 

もちろん、アリant、ハチbee、コオロギcricketなどの言葉もあります。

しかし、バッタは「草跳びgrasshopper」でミミズは「地面イモムシearthworm」というように「熟語」になっていたり、ムカデCentipedeはラテン語そのものだったりしますので、日本語よりも比較的新しい単語が多いことがわかります。

ただし、日本でもチョウ(蝶)のように漢語から来ている「外来語」もあります。

 

また、キリギリスやカゲロウなど、日本語に相当する英語がないこともあります。

さらには、セミcicadaが鳴くことはあっても、その辺のアメリカ人はセミという単語を知らなかったりします。

日本のように、映画やテレビで蝉の鳴き声を「夏の効果音」として使うこともありません。

 

西洋というのはそんな文化ですので、わざわざ虫の声なんぞを聞こうという意識は、最初からない、と言われても、全く不思議ではありません。

 

さらに、虫の声というものは、ものによっては音の高さ(周波数)の関係で人や鳥、犬、猫などの声と比べると「異質な音」となる場合がありますので、ものによっては、聞こうという意識がないと聞こえません

 

人間は、聞く必要のない音は、無意識下に遮断することがあります。

雨の音やエアコンの風の音、時計のチクタク音などは、ふと気付くと音が消えていたような錯覚に陥ることがあります。

虫の声というものを、普段からこのような「雑音」として捉えていると、「聞こえるけど聞こえない」ということになる可能性も、確かにあります。

 

しかし日本人の場合は、セミにせよコオロギにせよ、「虫の声を季節として捉える」という文化がありますので、子供の頃からそういう音を意識して聞く習慣があります。

しかも、「鈴虫はリーンリーン、松虫はチンチロリン」と、音を日本語に「翻訳」しているために、雑音ではなく言葉として捉えやすいのだろうと思います。

 

その上、虫の声は先に述べたとおり、周波数が特殊な場合があります。

 

音の高さを周波数で表すと、人間の耳の可聴域は、20~20000Hz(数字が大きい方が高音)ということになっています。

 

しかし、人間の出せる声は400~1000Hzが限界です。

また、ピアノの音は27.5~4186Hzで、これが音楽として使われる音の最大範囲(ピアノの音域を超える楽器はトライアングルとシンバルくらい)ですので、これよりも高い音や低い音は、普通の人にとっては「聞く必要の無い音」とも言えます。

 

ところが、キリギリス類の声は、10000Hzを超えるものがゴロゴロいます。

16000Hzというのもいますが、このくらいになってくると、人間に聞こえる限界に近い音です。

例えばクビキリギスの鳴き声は「ジ――」というように聞こえながらも、耳がツーンとなるような感じがします。

実は、この「ツーン」が、本来の鳴き声なのです。

 

最近は、「モスキート音」という言葉がありまして、

「人間の聞こえる限界近い高音で、若者には聞こえるけどオトナには聞こえないという音」

のことを言うようですが、要するにそんな音の高さです。

ただし、本当の蚊(モスキート)の羽音は350~600Hzしかありません。

 

さらに、バッタ類のように、シャカシャカという「かすれ声」のような音質で鳴くものもいます。

このような音になってくると、「虫の声が聞こえるはずの日本人(笑)」でも、

「今鳴いてるね」

「え?わかんない」

という会話になることがあります。

 

秋の虫の声をある程度勉強した私でも、色々な声が混ざっているときには、聞きたい音に合わせて、意識的に「耳のチャンネル切り替え」をしないと、目的の音を聞き出せないこともあります。

 

というわけですので、まあここまでは良しとします。

しかし……

 


左右の耳に同時に違ったメロディーを流して、その後で、どちらのメロディーを聴きとれたかを調べると、常に左耳から聴いた方がよく認識されている事が分かる。
同様に、違う言葉を左右から同時に聴かせると、右耳、すなわち左脳の方がよく認識する。


 

これはない(笑)

 

「三角法」という、鳴く虫の位置を耳で聞きながら特定する手法があるのですが、左右で聞こえ方が違ったら、虫は探せませんね。

 

というわけで、私の中ではエセ科学決定となりました。

あー残念残念。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ183 おすすめクラシック(過去記事)

あすなろ

 

 

 

2017.01号

 

年末ですね。

 

サンタさんって、いつまで来るのでしょうか?

何年か前、我が家がサンタさんに問い合わせたところ、

「プレゼントをもらえるのは6年生まで」

とお返事をいただきました。

6年生までなのだそうです。

ご存じでしたか。

知らなかったらよーく覚えておきましょう。

 

サンタなんて人はいない?

いやいやいや何言ってるんですか。

確かにいますって。

だって、数年前のクリスマスには、夜中に私の眼鏡を踏みつぶしていきましたから。

マジですこれ。

翌日修理に持って行った眼鏡屋さんが証人です。

ほんと思わぬ出費ですよ。

全くひどいサンタもいたものです。

 

年末といえば、どういうわけなのかベートーベン交響曲第九番「合唱付き」がよく演奏されます。

これは戦後始まった日本独特の風習で、特に深い意味はないようです。

 

ベートーベン九番と言えば、例の歌の部分ばっかりが有名なのですが、実際に歌が入るのは、最後の第4楽章Bだけです。

(九番の楽章は1・2・3・4A・4Bの5つと呼ぶのが最近の流行のようです 4Bとはつまり第五楽章のことです)

歌の人たちは、それまで出番無しです。

だからといって、楽章間に入って行くにはコーラスの人たちは多すぎると思うんですよね。

となると、やっぱり一番初めから後ろに並んでいるのでしょうか。

このあたり、ちゃんと見たことがないので知らないんですよ。

 

ちなみに、今手許にあるカラヤン指揮の九番では、最初から4Aが終わるまで、49分もかかっています。

全曲が終わるまでは1時間7分です。

コーラスはともかく、指揮者は大変ですねこれ。

改めてすごい曲ですわ。

 

あとですね、あれの4Aって、実は4Bの前半とほぼ同じ曲なんですよ。

ちょうど、4Bの歌無しバージョンみたいな感じの曲なのです。

となると、後ろに立っているコーラスさん達は、その4Bを聞いている間は、やっぱり頭の中で歌いながら予行演習とかしちゃったりしているのでしょうか。

 

……なんてことを、九番を聞く度に思っています。

 

なんだか偉そうに文句ばっかりつけているようですが、九番はいい曲であることは間違いありません。

私はベートーベンの交響曲が好きで、よくクルマの中で聞いております。

各曲は、だいたいこんなイメージです。

※ 私見です。私は専門家ではありません。

 

一番……なんかモーツァルトみたい。

二番……ちょっと色々試しちゃおうかな。

三番四番……型を破ってやるぜ。どや?

六番……ストーリー仕立てにしてみちゃったり。楽章をつなげてみちゃったり。

五番(六番と同時作曲)……こっちは純粋に音楽の究極を目指す。俺らしさを探す。

七番八番……見つけたぜ俺スタイル!

九番……やりたいこと全部詰め込んだる。今度はノリじゃない。大人の曲だ。

 

――機会があったら、他の曲もぜひ聴いてみてください。

 

最初に手をだすなら、有名な五番以外では、六番や七番あたりがお勧めです。

六番「田園」は、各楽章に副題がついていますので、音に対してイメージを連想しやすくて入りやすいでしょう。

この六番は中学生の頃、何回聞いたかわかりません。

そして七番は、全楽章がノリノリでかっこよくて隙が無い曲です。

 

指揮者では、まずはカラヤンやバーンスタインあたりのスタンダードなテンポを聞き込むのがいいと思います。

で、歌えるくらいに覚えてきた頃にラトルを聞いて、その挑戦的な曲調に感激する、などという、クラシックならではの楽しみ方もあります。

 

ところで、日本人が好きなクラシックというものがあるみたいです。

ベートーベン第五番「運命」、シューベルト「未完成」、ドヴォルザーク「新世界より」の3曲の2曲が入っていれば、そのコンサートは成功するとか、小学生の頃に聞いたことがあります。

ベートーベン以外ならば、このあたりはとりあえず押さえておくべき曲でしょう。

特に「新世界より」は、知っているメロディが入っていますので、聞きやすいと思います。

(よく「新世界」と書かれている文を見ますが、あれはFrom the New Worldですので「新世界より」が正解です)

 

また、聞きやすいクラシックといえば、モーツァルトは絶対に外せません。

ほとんどの曲が、軽くあっさり聞けてしまうために、よく「リラックス」だの「胎教」だの「アルファ波」という副題をつけて安いCDが売られちゃったりしますが、モーツァルトならばリラックスというイメージは、ちょっと違うんじゃないかと思います。

交響曲第25番の第1楽章とか40番の第4楽章を聞いてリラックスとか言う奴がいたら、そいつはきっと頭おかしいでしょう。

 

なお、モーツァルトは壮絶な人生を送っています。

是非一度、伝記を読んでみてください。

二度とリラックスなんて言えなくなると思います。

また、どこかのサイトでは「モーツァルトはアルファ波に合う曲を発見した最初の作曲家」なんてアホな記事を読んだことがありますが、彼は当時単に、売れる曲というものを研究し尽くして作っただけです。

 

とこんなふうに、私は交響曲が好きなのですが、それ以外では室内管弦楽やワルツあたりも好きです。

 

室内管弦楽というのは正式な音楽ジャンルの名前ではなくて、小規模なオーケストラのことです。

ヴィヴァルディの「四季」とかモーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」のような、バイオリン中心の曲の数々です。

 

「ツィゴイネルワイゼン」という速弾きで有名な曲は、高校生の頃にハマりました。

マンガなどでバイオリンの独奏というシーンが出てくると、頭の中を流れるのは「タイースの瞑想曲」です。

ベートーベンの「ロマンス」2曲は、もう何回聞いたのかわかりませんが、未だに曲が終わったときに繰り返しのボタンを押すことがあります。

 

同じく高校生の頃、バレエ音楽の「くるみ割り人形」にも超ハマりました。

当時、家にあったカセットテープは、あんまり聞き込んだので、最後は端の方がシワシワになってしまったほどです。

 

バレエ音楽は、短めの曲であるために、やはり手を出しやすいと思います。

特にくるみ割り人形は、ほとんどの曲が2~3分で、しかも聞いたことがある曲が何曲かあるはずですので、きっと気に入ること請け合いです。

私の車内ではクラシックを流していることが多いのですが、幼稚園の頃の娘が最初に気に入ったのは、このくるみ割り人形でした。

 

小曲集では、やはり高校生の頃に、「ハンガリー舞曲(ブラームス)」にも超ハマりました。

全21曲あるのですが、こちらも各曲は1~2分しかありません。

そして、多分全曲が、途中でテンポが変わります。

この短い演奏時間の中で、速くなったり遅くなったりします。

しかも全体的にノリがとてもいいので、運転中の音楽としても優秀だと信じています。

同様のもので、「スラブ舞曲(ドボルザーク)」というものもあります。

 

また、バレエ音楽には必ずワルツが入っているところから、ワルツにも興味を持って手を出しました。

ワルツ王と呼ばれるヨハン・シュトラウスの曲は、大学生の頃に結構集めました。

いやあ、もう最高ですよシュトラウス。

 

クラシックの良いところは、何年聞いても古くならないことです。

一生つきあえます。

流行はありませんので、違う世代とも話が合います。

 

ご一緒にいかがでしょうか。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義

あすなろ197 ピアノ

あすなろ

 

 

 

2017.03号

 

東大生は、ピアノを習っていた子が多い、なんて調査結果があるそうです。

 

実は私は、幼稚園か小学校低学年の頃に、親にピアノを習わないか、と誘われたことがあります。

 

しかし、その頃の私にとっては、

「ピアノ=女がやるもの」

というイメージが強かったので、女みたいでヤだなあ、と思って、即答で断りました。

私が残念ながら東大出身ではないのは、そんないきさつがあるのです。

 

いや、それは無理がありますか。

 

まあ、東大はおいておくとしても、これまで見る限り成績上位の層は、確かにピアノ経験者の割合が高い気がします。

 

これは多分ですね、楽器というものは、つまらない反復練習に耐えてなければならないので、努力に耐えるだけの精神力が育つからなのかなあ、などと私は解釈しています。

 

反復練習に耐えるという点に関しては、ピアノに限らず、スポーツも同じでしょう。

 

しかし大抵のスポーツは、仲間と一緒に盛り上がったり競争したりしながらがんばることができます。

しかしピアノは基本的に、一人で耐えるしかありません。

 

また、スポーツは年に何回も試合があって、練習の成果を発揮する(発散する)機会が沢山ありますが、ピアノの発表会は、普通は年一回くらいしかありません。

それ以外は、ひたすら練習だけで一年が過ぎるわけです。

 

そりゃあ、精神は鍛えられますよね。

 

ところで、私はクラシックをよく聴いているのですが、ピアノ曲はあまり聴きません。

というのも、フルオーケストラに比べると、何となく地味で退屈な感じがするからです。

 

でも考えてみれば、楽器一つの曲とフルオーケストラを比べているわけですから、地味なのは当たり前なんですよね。

それよりも見方を変えると、楽器一つで曲が「完結」しているのは、ある意味すごいことです。

 

一台の楽器だけで音楽CDが作れちゃうものといえば、ピアノ以外ではオルガンとギターくらいでしょうか。

あとは、琴とか?

 

ともかく、ピアノがそれだけ多彩な曲を弾ける理由は、一つは鍵盤という装置による和音の弾き易さでしょう。

鍵盤が付いていない楽器では、同時に出せる音はせいぜい4音までです。

※ ギターの重音は、厳密には違うということで

 

そしてもう一つは、その音階の広さです。

 

以前にどこかで書きましたが、一般的なピアノの出せる音の幅は、オーケストラで使われる全楽器の音域を超えています。

例外は、シンバルとトライアングルくらいです。

あの音の高さは、確かにピアノでは出せません。

でもあれば「音階」じゃないですから。

 

ピアノの原型となるのは、チェンバロという楽器です。

クラブサンとも言います。

 

 

一見すると、ピアノと同じような形の鍵盤楽器で、中に音の数だけ弦を張ってあるところも同じです。

しかしその音は、ちょうどオルゴールのように、鋭く金属的に響きます。

 

これは、弦を金属のピンではじくという方法で音を出しているからです。

ですからチェンバロでは、音の強弱はつけられませんでした。

強弱を付けられないという点では、オルガンも同様です。

 

それに対して、弦をハンマーで叩くことで、音の強弱をつけられるようになったのがピアノです。

そこで、強弱を付けられる楽器ということで、「ピアノフォルテ」と名付けられました。

これがピアノの語源です。

音楽記号の「p」と、全く同じ意味なのです。

 

チェンバロをしばらく聞いてからピアノを聞くと、音が丸く聞こえます。

ですから、ピアノの方が滑らかに聞こえる一方で、メリハリが少ないというか、締まりが無いというか、そんな風にも感じられます。

 

……私が、ピアノ曲をバイオリンほどは聴く気にならないのは、もしかしたらこれが理由なのかもしれません。

 

私の感想はいいとして、ピアノは楽器の中では、万能性はトップクラスであることは間違いありません。

世界のあらゆる曲が、ピアノ用にアレンジされて演奏されています。

 

しかしそんなピアノでも、苦手な曲はあります。

例えば、バッハの「Air」、いわゆる「G線上のアリア」です。

主にバイオリンで演奏される曲です。

 

このアリアは、最初は全音符から始まります。

速度はレント(Lento:ゆっくり)ですので、この一音はだいたい10秒くらい続きます。

しかもこの音には、クレッシェンド(だんだん強く)がついています。

 

これ、ピアノでは絶対に再現不可能です。

 

実際には、アリアもピアノでもよく演奏されいます。

しかし聴いてみると、元々静かな曲ですので、例の最初の一音は、ペダルを踏んでも一秒程度しか音が続いていません。

やっぱ無理があるよなあ、という感じです。

 

ただ、バイオリンのアリアは、普通は伴奏付きでしか弾きませんので、その点では一人で伴奏まで弾けるピアノにはかないません。

 

※ バイオリンでも、ピチカートを駆使すれば完全ソロでアリアが弾けることを最近知りましたが、知る限りそれができているのは一人だけです。

 

同様に、音をどんどん重ねていくオルガン曲も、やはりピアノではきついジャンルです。

 

この度「主よ人の望みの喜びよ」のピアノ版をいくつか聴いてみたのですが、プロの演奏でも、やっぱり何か違うんですよね。

あの曲は、両手の短音と、足の鍵盤の長音が重ねられるオルガンだからこそ弾ける曲だ、ということが、改めてよくわかりました。

 

ピアノ版「トッカータとフーガ」になるとその差は顕著で、何倍音も重なるオルガンの迫力には全くかないません。

このあたりが、打楽器としてのピアノの限界なのでしょう。

 

さて、ヨーロッパ育ちのピアノですが、現在ピアノメーカーで世界最大手といえばどこか、ご存じでしょうか。

 

知らない方が多いのですが、世界一のピアノメーカーは、日本のヤマハです。

というか、ヤマハは楽器メーカーとしても世界一です。

なお「ピアニカ」も、ヤマハの商品名です。

 

ちなみに、世界二位は河合楽器です。

両方とも、静岡県浜松市にあるメーカーですね。

そして、ヤマハと河合の2社で、世界のピアノの99%を生産しています。

 

一方、電子ピアノを最初に国産化したのはローランドというメーカーですが、ここも今は浜松に本社があります。

すごいですね浜松。

 

学塾ヴィッセンブルク 朝倉智義